junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

130 9/3

130 9/3~

全てのことが芸術であるが、真の創造性とは存在の創造。に歌われている、自己本質と世界流通が一体性からの、魂の歌。

しかし魂や必然への連関にもよらぬ肯定が在るのみへの現在,生命,心,交感の一つを持って味わう過程自体の歓びに、流動,波動,振動,根底,潜在,次元,階層,必然,連結,流れ,存在の震え,本質,自己と全体,統合と中庸,(適合と均衡,空と色,)等にも渡る愛と光と慈悲と英知を、現生の顕れ我らに取り戻して逝く為の旅に生きて歩くこと。

考えず感じるというも一つの面ではあり、しかし現れ与えられた全てが私たちの良しである、ならば破壊,無駄,悲惨,強制,判断,正当化,人為,操作,戦争や拷問などすらもを良しと認め離れ関わらず共生を目指すもを抜けて任せるだけとなるのか?へは、開き直り忘れ捨て流し去る事と振り返り向き合い対峙し自身で感じていく事のどちらもが大切さのようにも、全ての視点や多様可能性,価値への理解を持つ姿勢(慈悲とも言える)からによっての包括性へ向かう事も出来る各自への動きを催させる方向へと挿し込みていく事は、一つの方法基準とはなる故に最少自己へ向かいながらも全体主義的義務や非生体技術融合へ(の利点も知り取り入れながらも)の自己犠牲や利便さに吸収されてもしまわず自律的な個で観じ在る世界への立ち会いと見方を、私の創造には告げ繋げていきたいという目標と想いを、今までは知性的感得によりて深める事と言って来ていたのでもあるのだろう。

全一ではなく全てが在る。 そのような愛である人間化された全肯定の感情と充足に意識を持たらし融かし込む光をも当てて、囚われず見渡した俯瞰的な柔らかさの上に歩む道のりを分かつ。 その在り方と方法は対抗的に、こちらも在るよ。と示すではなくても両方の上の統合性への行き先を今でものように機会あれば示し置き、それ以上に闘うことからは放置し逃げるも良く又は、では例え闘わぬ事によって世界が変えられず悲惨の拡大へ力与えてしまうなら、そこへの対抗も怖れず自身の力をもって殺すもが全ての選択に基準はないが、自身への気付きという基本スタンスによっても、それは自身からによって奪うのではなく自身の本来に向けて生きるという自由を奪い来る暴力に対しては対抗しその力も置いておく(法や規定や自衛武力etcも)という選択肢と現在や遍在適応の過程取りを、超越や理想との狭間と統合にも見い出しては置くへ向かわせるのでもあるのだ。

そしてなるべくなら、その自身行為化への出来る事とは、自己判断による因果影響への労力や制限を生まぬ為である自己利益の為にもへの最少であり、創作の能力ある故にもの自身としての、その時に出来る事を感じては行われ流されていくことだ。 流されるとは、その自律的選択と観入によって流れを与えられます受け取りゆく事でありて委ねというのもその本来性なる本質自己と世界の一体性へ自身が至り生き逝く事であり、それは他者への委ねではない。

そして魂や必然かが未だ分からなくとも、流れを感じ観ていく事とは生命現在の交感的味わいの歓び以外にも、最少を選ぶにもよる自己利益への為の行為や何が一番その場に与えられ適し求められている事なのかを、しかし感情的な判断と囚われによらず瞬時ごとにも会いゆきて自身へ行われるべき能力の用い方へもの最善,最適解を選ぶというだけの事でもあったのだと言う事も出来るだろう。 (次は、それをこの説明性以外に簡略化できる言葉化も探さなくてはならぬが、言葉化の中では流れによる連結性の以外には今のところ難しい。)

究極的な到達性のみを示しても、ここへの理解への説明的共有は生まれず潜在的意識への関わりは膨大で軽く表層意識を越えているとはいっても、そこへの情報だけでは顕在意識によりて(それが悪いのではなく現実ファクターを処理するには必要機能ではある)通常を行為する人間に沸き上がって来る断片情報の内化では足りない。 故にも創造などによる、潜在に響く本質性への関与だけではなく僕は言葉を模索する。

その灯し方の全ては即ちにも愛と存在への流動へ分かつ生命の奉納ではありて、そこに生まれ出されゆく存在と創造の両方は、flow為す為のものでさえもなくなり、理解もされず響かなくとも呟く程の私は、私を為し置いたという納得程度のものとなる。<122の初めの部分に置いて合ったものが、上記への此処に繋がった。>


流れと連結への適合は、因果影響への自身必然以外はせぬ労力最少により感じては何が最も求められ能力や出来る事を使い置いてゆく事が出来るかの最適解を探し、それ以外での無駄へ関わらぬ自己利益でもあり生命過程の味わいに生きる歓びを持たらす交感と肯定と全てが(苦の現況さえもだが苦を通じなくとも真の幸福である生命存在自体と過程に深めゆく成長とも言える状態への)愛の充足でもあるへ意識向けて生きる方向を自身と世界へ分かち築いていく為に培われて来た私への歌が、宇宙との彩紋にも織り重ね置かれていた、これが流動と記録ともしての生命の創出芸術なのだ。

(としてもの,ともしての。だけでも違うのだからに日本語が廃れると、この文章的な記譜は読み取られぬにて困るが、そこは技術が補うだろうという楽観で進める。)

強くなり行う事の方向ばかりで成り立たせてゆくのではなく、その現在風潮から抜け離れたところと原理からによって変革への力となるにへの現実化へも関わる私となりてゆく方法は、そこには苦や努力も勿論にあったが、自然の流れに観じ従い行われて来た全てが良かった上に生かされて来た事による結果が通じたのだという在り方と、成功の手法を世へと投げかけてもゆくパラダイムの転換へとも関わる形と私は成りて言いたいのだ。

どうすれば成功出来るという道を運だけではなく普遍的な方法として(cmやmarketingなどの技術面の事ではなく)これが生きる道と成功の形だと言い得る本質性のものを例え誰もに金的制限が解消されぬとも、又はそれを解消できる道へ寄与できるによりてもに、こうして在り生きるのだという存在の形と現実的な理想との統合形を見せ現す事が常に私の希求と目標だった。 その動力を生かしてはきっと至り着ける境地と関係などへも渡る共生的世界への歩み採りと行き先は(過程の味わい以外にも)結果として現れ行われると信じ、現在という用意を進める私に出来得る事の全ては感じ選択し流れという時と世界に与えられては会いてゆき観察を統合へ向けても歩ましては、祈らぬとも愛送らぬとも、祈りや愛も存在化した光と闇もの統合一致結実された光のみへの存在へ溶け込んでゆく事。

生命はそれ自体が苦でもあるが、人間は生まれて来てくれただけでの奇跡だ。 これらが真の幸福と愛の実存へとも最高に開花され生きる事が出来る世界の創造へ私は歩み共生と尊重,理解,慈悲などへも通じては本来自己そのものへと深め感じ達しゆく為の自由が奪われないことを願い祈る。

過去に幾らも在った哀しみと悲惨の歴史が我らの時代からだけ解消され過去はその為の学びだったのだから良いのだ。等と済まされてしまうは御都合主義であったとしても、僕は世界の平安へ進化されゆく未来への相を思い描き、その為の自身へと磨く。


それを越えられぬであろう(似せて作った)人間を知りながら、わざと試練を与え失敗したら自己の責任だと呪い奪うユダヤの神の只、無批判,無知性に知性を越えた信仰を求める姿にもある人格的な神へも違和感を感じるが、その物語を土台としてみるなら、もしかしたら試練を越えて成熟した後に生命の実を食べ、それから知恵の実へと 進む計画などがあったのに失敗したから連鎖的に後の世代も裏切りや殺しの悪循環に絡め取られてしまったのかもしれないとは言えるが、だとしたら救いがないし、その人類初期の原罪を償う為と言われた解釈の物語が新たに生まれてから2000年たっても良くなっているようには見えないように、やはりそれらの論理は何処かで破錠しているか、もしくは既なる業の深さによってもどうしようにも、その影響と連鎖から抜け解消されてはいかない苦に惑い、望まなくとも破滅を通らなければならない予言的な解消衝動が持たれているのかもしれない。 (ちなみに真実かや史実に基づいているかは関係なくとも、物語として潜在性の論理構造化が上手く面白く、とても良く出来ているとは思う。)

次元や階層的な上位であるからといって生きて喜び生きている故に苦しみも味わう我らが生命を幾ら進化の為だからといったとしても、いたぶるように悲惨のうちに殺し続けて良いのか? 我らも二次元存在や物に対し生死を考えぬが(物の命の大切さや残す価値は思いても)二次元存在には感覚器官もない故に(知性がないとは限らぬが)痛みや哀しみもないとは想像出来るが、私たちには知性や意思の業の以外生物にも、感受能力と死を望まず回避しようとする意思はあるのに無遠慮かのように見える程、生命界のは死と(それ自体は良くても)苦痛が充ちており、それを救う神は今のところ現れていない。 ならば我らがその新しき神のように 生命界の調和と調整を採りゆくならば共生とも言われる状態の抽象的な概念以上の基準が見い出される必要があるではないか。

人権や必要最低限の保証なども大切だが、いつになったらその過程への結果は、生命権などへとも結びつくのだろう。 生きとし生けるものが自存し自由に本来(仏性ともいう)へ向かい達しゆく、各自の歩みや選択を種への自己責任のようにも認めながらに、しかしそこへ如何程に関わり調和や共生などともの全体均衡を保ち進めていくのだろう?においては、やはり古い蜘蛛の巣が無駄に生命を奪わぬように壊すも良いのか、それも虫の総量を無選別的に殺す事で全体の調整へ関わっているのだから関与せずなのか?のように、その時の選択へ立ち会う以外に基準がなく結局はそれぞれ生命や種としての選択と行方に、なるべく関わらず任せ放り出しているへ抜けていく基盤の中での利用,便益関係の構築も模索されて良い余地があるということ位なのか?

生きる事のみを認めるならば共存利益的な利用関係は可能でありたとしても、何かを守る為に減らし奪う事や(その選択における主体の設定は、個か種かによっても違うとは言えるが)そんな判断を人為的判別によって付け、上位からの決定としてを押し付けて良いのか?へは、そうではなく個人ごとの観察の能力や状態に左右されるが、それでもその場における対象へ対する交感によって気付いていくという位にしか現在のところでの基準化は出来ず(いづれ技術や数値化が示せるようになったとしても)又は意識のみ(だけではないが主に)の変革を目指す僕の道にとっては(もしかしたら世界の統合的到達点にとっても?かは分からぬとしてさえも)それのみで良いのだとも言えるのかもしれない。

他でも書くと思うが意識,仕組み,技術の何処か、もしくはどれもが必要となるであろう今後への歩みと進展の在り方と要項として、その何処もに交感的観察と用い方の方向を使用されていく事は、つまり第一義的には意識への働きかけが求められていくのであり僕の求めているものがある。

本質性は本能性ではなく近いものもあるが原始主義でもない。 しかし原始でもないが非生体的な技術との融合体未来でもないのではないかとは(懐古,保守だけでなく)思われてはおり、未来への進展と過去の積み重ねの上に統合される普遍と、そこへの現在の姿への化し方を見い出す変換を模索し探究し示し分かたれる変革への寄与を私は目指し求め歩いているのだ。 そしてその欲求と方向を、僕は認めている。

狩りという人間行為が自然界の一端として調整に関わっているが、その騙しては奪う業の生産や修羅から抜けて生命を奪わずとも良い方向へ至れるのなら抜けた方が良いようにも。 しかしその自身等にも内包の本能的刺激性との均衡ぼ採り方もは見い出される必要がありスポーツよりも瞑想的日常でもの本質性探求や変革ではあるとしても、virtual化でないのなら(少数かかもしれぬが、その反動としてもの)身体を用いた方法は必要となるだろう。 (そうした感覚的に響き達した遊び方や交流は、僕の子供たちとの関係の中で日常にも実は出来てもいるが他者や社会一般の中では為され得ず共通方向認識とも成り得てはいない。)


骨格の構造,腱によって支える,酸素濃度の絡みで巨大化した恐竜という姿と考察はもっともであるが知性,科学的ではない想像から見ると、自転が早く見かけ上の重力が軽く故に巨大に成りえたが昼夜サイクルの速すぎて知性へ至らなかったかもしれぬ事、もし時間がそれ程に違えば何千万年というタイムスケールも地質年代や炭素測定も現在の基準では短縮されるかもしれぬ事なども(公転周期から見たら違うと分かるのかもしれぬが僕にそこ迄の知識はない)の想定は過去への可能性だけでなく例えば地軸がずれ自転周期や重力も変わった未来とそこへの対応可能性などもの考察へも使えるという意味で、こういったものも書いておいてみよう。 しかし、こう感じたから自己想像は正しいという無批判で感情的な知性を僕は嫌い違うと言い批判もするが。

~18:00j