junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

1~2 Junna note

1 Junna note
4/11(Thu) 2019 5:25e~

真の幸せを目指し掘り出すに生きての私が、それのみを求めし欲望の質として犠牲にもなるに生を尽くして問い、しかしその苦しみを抜けた幸福状態の現実化をも求めるが、しかしこの多大な世界の苦しみと そこへの共感共苦の慈悲性による苦の自身化こそが、一部のみの真実達成者を催す為の輩出システムならば(宇宙にその意思,目的,意味などがなくても、全肯定という幸福になるためには)共生などでもなく良く又は苦を滅す共生などを叶えてしまうもは良くないと言えるのか?

感性よりも知性(根底では繋がる同等ではあるが)でないと、そこまでは達せない世の中で、いくら技術が進み共生的な生存の在り方が叶えられたとしても、宇宙の両義性を宿す自然としてもの人間と言うものには、しかし真に意識進化の生命種となれる希望などないことは今更ながらに分かってしまった。

全てのものが苦しんでいる、生は苦しみであり歓びでもある。 それは同様の真実。 しかし人類にはもう少し希望があると思ってしまっていた私の愚かさ故にも、この苦しみの世に生み落としてしまった子供たちに申し訳なくも思う。 苦界を変える糧となる事などは出来ず、苦界の中で生き延びる闘いへ連れ出してしまったのだ。

子供たちへも、深く感じ聴く思いやりというものにもよって交感し相乗される存在や関係の世界を創ってあげたかったが、それは無理だったのだ。 だから何者にならず何を創み出さなくとも良いが、表層に留まらぬ批判的視点や多様と全体を観ては何処かの一方性に落ち入らず統合しゆく生へと歩み、この自身こそは独りでも世界と自身に観じ深め逝く在り方などを伝えいくにしかなく、現在もの私は既にその存在の姿で在るとも言えるのだろう。 そしてこの生存という闘いを我は生き、その世界や人為へ囚われによらぬ対応は試し持ちてもいるが浅き愚かさからの一方性という否定に対し変えようとしてしまうことは操作欲求でもあり、それをも捨てなくば相手の問題への対応というだけでなく私にも又もそうした攻撃が繰り返されては苦しむのか?

そこに肯定と交感という生の生き方の方向は示せても、それぞれの段階や必要をその環世界のままに感じては、どの様な状態の私であったとしても与えられてしまった、それぞれ独りの自身こそのみを逝くにしかないと放り出された非情の世界に在りての私が、全てを眺め認めて世界のことは任せ抜け去りては、この流れへの選択には感じながらの日々との適合を泳ぎ往くにしかない苦難と歓び一体の現在世界を観つめては平静寂々と渡るのだ。

私はこの人為の強制,操作,否定,無駄,破壊等から、これ程までに打たれ来たお陰で、弱く為さず退いていく在り方の強さや芯,信への方向へ更に内化するにしかなかった自身化の恩恵として捨て深め抜けていく成長へ歩み辿りて来たように、この苦しみという病み(闇)を明知へ明けるまで生を捨てては生き逝きて、そして現実化の欲求と最少性のバランス点や今後の世界にも渡る普遍,共通的な目指すべき幸福の形の基準を、例え(基準などによる義務化や優越性が持たらされてしまうかもしれぬとも、又)勝手に世界はそれ自体を現化し私に行う意味などがなくとしても私という経過を生きては問うが生を肯定しては歩むのだ。

深くしかし人々と開けず苦しいか、ひらけウマく行く(その段階が同じである)故にも浅いか、もしくは真に悟りの歓びとなるか(死ぬるか)しか選択肢がない中で、いかに生きるか? この生の肯定も分かり、死の肯定も出来た。 では生きられる以上は生きるのか?は分からない。

(それは、ここまで苦しんだのだから その苦しみを包括の充足へ越えるまで苦しくとも、生や真実へのとらわれでありても生き延びるへと生きるのだ。 という事と、or 最小性へ向かい比較として自然界への影響は少なくとも、生きているだけで奪いてもいる。 そして真実の為には苦しみが糧の必要としては私の苦しみの存在や波動を世へ吐き出してしまうかもしれぬ為にも生に囚われず、この生を捨て止めてしまうことが真なのだ。等の両方と狭間にも在りて。である事は説明されて来たが、一応また此処にも置いておく。)


2

では全てを棄てて投げ出し、流し去りての愛となる生き方の方向や、それによる歩みとして全てが自由の上に何故 破壊や死がいけないか?は生命の味わいの中に生きられる達成や奇跡の感得,感謝,充足などの歓びを叶えられるから。ではある事を見つけては来た上での生体や最少という歓びと理由は分かったとしても、それ以外の幸せの形や、この生き方の質において自個や生体を執着なき故の死や生体の変容へ向け抜けてしまっては何故にいけないのか?等というもおいての真実の基準(それもまたdiscordされゆく必要があるのかもしれぬようにも私は仏教的な知恵と同じく疑い問い、出家や仏教的な制限などからも離れた新しき時代への現在に通じる真実が如何なるものか?と、そしてその適合点ともなる(中道とも言われるような)統合的な基準を探してもいる。)へとも至りたこの問いは同じものではなく螺旋的発展にもおける次の段階ではあるのだとの自覚や自負を持ちながらにも、この愚かな人間知性の制限と しかしその発見可能性の上に果てしなくとも歩み進みてはいるのだ。

~19:56