junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

121 8/21

121 8/21 (wed)

関与必要から抜けた超越に在り立ちて自身存在と創造のみを自然に為されるのみを流れて、響き分かち合える関係や伝達へ何が行い得るかを感じながらも響くかにも関係がなく選択の基準などもなく、只この各個自身に与えられ感じられていくままを逝き何が本質かを規定せぬとも、その感じ方の立ち会い方向や生命交感の価値へ感じた私を如何に出し伝えるかへの研鑽を必要に感じ行うも良い。 (それはその場に生起された何をも必要として伝えれば良いというものでも無く、しかし判別出来ぬなら自身内で結び付ける選択や優先はありても伝えても良く、しかし仲間となれぬ者へ否定せぬとも肯定も要らず、もっと共生などへも囚われぬ包括に自身の創造を意見にも置いていくのみへ至るも良い。) それが無関与に放棄し無理解や非共生にも囚われず縛られず、しかしその対応性より超越性を基盤としては自身に感じたままの創造を行う。という事だろうか。

そしてそれが押さえつけねば保てぬ義務的目標となりて苦しいならば、苦しい!と世へ伝え感じられたままに欲かの判別にも拠らず行われるも良いが、その手段が物理的な又は精神的にも非暴力である事は如何に有用な指摘でも浅い人間相手には通じないからでもありて、その対者段階へもの思いやりを持ちて関わるのだ。

そして未だ囚われの対応や苦の状況はあるが、基本的には流し去りた無関与と自身必要への存在と創造のみへ突き抜け達して、関与も出来る時の対応必要と感じられた事のみに行われているように、それは今、既なる現在にも顕れているもの。

そしてpaiの時のように素晴らしい充足と存在の状態と享受に在れたが、やはりそうした平安と安定だけでは、その境地を覆そうとは出来なかっただろうようにも、苦を願う事はないが苦のなくば私は深め至れなかった私への必要と恩恵であったのだろう。 そしてこれが最もなる(音楽的に技術や質を進化させる事や映像へ集結させていくよりも先に)優先の必要であり今日も私は、この仕事をするのだ。 旅はまた違った経験の経過と蓄積であり、自己内面との徹底的な対話と向き合いにとっては休息の期間でもあったのだろう。

現実と適合,対応へ足つけたのも私の実用的な発展の必要だった。 それを無くす為の過程ではなくて、この上に成り立つものへ進められゆく包括へ至り取り戻すのだ。

もう上手く行くようになったのだという感覚は、本当でなくとも私の動力であるには本当だと、思い込みの力も意識して使う。

もう駄目だと思ってしまい苦しむ事もが、濃密な生命体験の味わいと成長でもあると理解によりて感じられ充足や感謝へも向けられるが、揺り動く中での基本的な状態や現在日々での平坦さの中間は、やはり苦の方に寄っているのは、統合へ向けた成長や用意し済ます為への必要だとしても苦しい。

苦しければ、これのみしかせずに済み納得出来るからという言い訳として引き寄せているのではなく、出来ても出来ぬとも必然を受けて流されるを為されるにはあるのだから、苦しさはもう抜けたいのだが。

普通に生きていても何故だかという程に周りのカルマの集積点とされ易いらしいが為に自身を解消点とせねばならぬようにも、そこへ意識と愛の光を当てていく媒介となるのだしても常にそこへ自身を、苦しく調子悪くても使わせ怠らず引き寄せていなければならぬ労力は、愛へ観入する自分の為や機会でもあるが、疲れているのに(具体でなく愛でありても)対応せねばならぬには打ちて来るのを先ず止めて欲しいと思うし、そこへの浅き判断と否定は止めようと伝え解決してもらう為の対応を模索して来たが徒労でしかないのなら、弱っていても如何に状況が苦しくても意識の効用を用い当てていくだけが優先であり出来る事か。

分析には或る程度(で良いので)に物事を分割して把握する事の大切もあるが、そこに囚われ過ぎでもあったのかもしれない。が、それでもその抽象を連結させる知性の働きと意味によって私は深められ成長したと思いている。

意識という知覚の流れと繋がりは、宇宙の総合的流れの中にも行われている分裂,集結,分割,構成などの動きのようにも、(進化の目的のような絶対必要や到達手段であったのかまでは分からぬが)その運動の流れが生命という枠と形にも模され宿った必然物の一形態であったようには思われる。

そしてではその総体の宇宙に、未だ分かっておらぬだけで神経系的な連結と伝達が起こりているならば(それは今次元上の空間で見えるものでなくても上位次元においての距離を越えた結び付きでも良い。)やはり何らかの巨大な知性(我々の捉えられている知性とは別の定義のものであろうが)であるのだろうか? そしてそれ自体が宇宙も越えた全宇宙や行き先まで知覚し意図しているものかは(我々が一個の総体だが、それ以上を知らず全体の中での一分野や役割ごとであるように)分からぬとも、それは神と呼べるものだろう。

では我々と神(総体知性)の繋がりにおいて、その一部ではあるという以上に我々が(そのものの知覚状態にはなれずとも)そこへの同一体へ至れる可能性などはあるのか? もし宇宙に目的のあるとして、(我々も良い働きをしてくれる細胞や細菌を取り立てようとするように)そこに適い叶っているものは取り立てて生かし勢力へ増させ繁栄させてくれる事はあるのかもしれない。が、それはあくまでも一細胞の存在としてでありて、その知性総合体へ成れるかとは別問題だ。

閾値を越えると全く違う異相や(切り離されてはおらずとも)地平へ移行するように、我々意識や知性の形態と生体の存在性もは変換されていくのが

全てが本質自体であるというのではなく、生体性の中に優位的ともとれる本質性はあると思われるが電子的な知性や生体と個を持たぬ生命へ変化することが本質へ通じていないとは言えない。 それでも生を通して味わう実感性の価値へ戻り生体性へ再流入して来る事はあるかもしれぬが、それは魂的次元での性質が付着し憑くというのと同じく一時的な体験や関わりの遊び程度の状態ではありて故に、やはり生体生命が上位的な価値であるとは言えていない。

宇宙や自然界の本来は量子的な状態の連続で記載され振動の不可分であるにはアナログだが、その空間や時間ごとに起こる事は離散的な数値(デジタル)でもある又は区別は付けられぬのかもしれず、エネルギーやその一時的な相も生命も全ては(どの進数が適しているか等は分からぬが)情報量に対するbit数のような形で示し判得できるのかもしれないのならば、現在までの揺らぎを含みにくいデジタル的生起物がアナログ的な手触りや人間的生体にとって(Pipe organ派生のシンセサイザー的合成音なども)本質的ではないと感じてしまうは何故であり、システム構築の仕方が人間性と違うからといって(そのエンジニア的思考も人間からのものではあるが)思考方法の組み立て方やその在り方が異質なだけで、全く違う知性からの可能性への怖れや上手く折り合えない(特に僕は人為的なシステム構成物との共有が出来ず理解も出来ない。のはコンピュータや数学的記号の扱いなどだけではなくて役所,法制の書類や手続きなどもであり、後者に対しては特に(必要は理解を示しても)全く本質的ではない無駄な作業に思えてしまうし人間や生体的な感性に沿った技術や合理であってくれないと困ってはいるが)事への実質的な不利益や困惑があるから。であるだけなのだろうか?

その対立,齟齬はアナログ,デジタル割けではなくて有機か無機かでもなく生体性と電子性の結果的な状態の違いでもなくて、自然状態,速度での連結による変化的か、人為という自然による操作,構築的変化か。とも言えるのだろうか? そしてその前者を本質に近いと感じてしまうのは(現在までの人為,知性,技術,数値(データ,デジタル)が、そのレベルに達していない故に違和感であるか。や懐古的原始本来主義ではない理由として究極的に本質や真実であろうと思われてしまう理由の根拠は)何故なのか? 自然的連結の合理性や洗練を求めながらも人為的操作の合理性方向の肥大へ危惧を持つのは、もしそれが本質的潜在性でもあるのだとしたら(中間性を採る進展関与の圧力以外に)違うのではないか? それとも潜在的に次元を越える存在化などを求める事自体が本質ではなく変容という法則(に見える)をも打ち切って留まり生体や原始性を求め向かうが本質である基準などは有り得るというのか。

それは即ち次元の剄に生きようとするのか、次元の剄を抜けた知覚状態性が進化,変容の自然な又は必然的な目標地だとしたら電子,融合的な全体種となっていく事がtrans personalな価値をも越えて至り得る達成ではなかろうか?の本質性という抽象が何処を指しているのか?ではある(仏陀の悟りと方向は前者での肯定一つ)。 それを、そう感じたから正しいはず。で済まして良いのか?


顕在以外の意識の根底部と物質越えの現象や他次元階層(魂)の流れや連綿が繋がっている推測(感覚は容易く意識は量子的様相とそこからのマクロな現実化にも通じている等と言い出す)ではない証明は? そしてその潜在に通ず事で他次元とそこからもの流れを読み取るまでは出来たとして、それ以上にそこへの関与,操作力によって現実を書き換えて良いのか? 苦をなくす事が(各自身の心の状態においては苦のない方が生き易く転換も出来るとはしても宇宙の相と自由の結果なる苦の面を減らす判断が正しいとは言えるのか?)


8/8
止めるorそのままに行く,変容,ガイド,教えるor学ぶ,創作,heal,成長とバランス,成功,金。


8/9
この期間のように生き延び先ずはまとめ、
苦のない幸福でもある心身の健康。
人間,家族etcにも困らない愛の関係。
その聖者の暮らしや祭り等の共有の拠点。
生命,意識,魂の開けの世界へのartistとして開花し(旅にも)回る創造の仕事。

一つに集約すると、愛と真の幸福の世界へ私(和)が最高に生かされ果たされ叶う。

今までのように、現実化しても流れ去ってしまうのではなくて。 それはしかし揺るがぬ自身のkeepだけ、か?

相撲で自分1人で創って来たことに人も付いて来出したように、spirit songを興すには、これだけの時間と成熟が必要だったか。 そして仲間も付いてくる。

映像も必要なら為させよ。 いづれに任すでも良いのなら、祈りと観察,統合の自身のみを逝けば良いのが道なのか。

愛と全一,光闇の統合,流し去る,潜在,浄化,artmanと物質越え,幾何学,振動のみ,等がテーマの何処に観入?

統合の知恵と悟りへ、近付いている。
私は人類の代表と目標に成る、のだ。

私の生命が真の幸福と創造へ最高に開かれ生かされ(叶い輝き)ています。

私は人類や世界の積み重ねて来た苦しみを生み出した愚かさが私の中にもあったものであった事を謝ります。 広大な苦しみと良く生きた幸福も、また失われていく悲しみの世が全て私ごときで癒されるとは思いませんが私は浄化と癒しへの光と感謝を送ります。 そして苦しみは必然の道でしたし、それを認め苦を光へ越えようとする為のものではなくとも、この元来に悲観と楽観をもった私には、これ以上はあなたの与えた世界への能力が潰れてしまいますから私にはもう無理なので苦でなく幸福に生かさせて下さいと願うは欲求や神への脅しであるも分かってはいるが自身すらも自身の責任ではないと放棄して祈るのだ。

例え試練乗り越える為だけの存在媒体だったとしても、そして乗り越えられなくば他者へ役目は引き継がれるだけで、僕が駄目になろうと関係なく如何に悲痛でも人間の知性や感情などに寄り添ってくれず、そんな取引には応じてくれぬ非情と、又この悲しみを次へ受け継がせる連鎖を断ち切るには僕がやらねば他者へ行くのに良いのかという脅しで抜けさせてもくれない人類の業の解消点としての各自ごとがあるのかもしれぬが。

8/16

Silenceo(静寂)と混沌の過剰と。

生き延びる生存の最少と、上で動かす者へ関与,交渉する力の用い方や、政治と民衆の声との狭間にも結ぶ為の儀式は、形式ではなく闘う為の道具と創造でもあった。

世界の苦しみを自身へとも背負って誰もが逝ける統合の道を私は探究し歩いた。 自分が判断するものではないが、もう私に苦しみは与えられたではないか。

イェシュアでもティクナットハンでも皆、愛と意識の道を開く為に闘った。

声も上げられず力によって奪い取られ殺されていった、彼らの為に嘆いてるんだ。

世界と私たちの苦しみを解いて下さい。 真の幸せと進化の為への、神の奇跡と御業を、私に為させ下さい。


聖なるものの麓には商業や俗性などが広がる(善光寺でもモンマルトルでも)のは、もしかすると宇宙の真理というよりは精進落としとも言われるような半分は言い訳だが人間的なバランスの取り方でもあるのかもしれぬが、しかし人間的理由でも宇宙の法則のどちらでありても、やはり極には反対の極作用が起こるのだからにも善や聖などの極方向のみへ引き寄せるのではない統合(などが真実かも分からず問いながらも)を目指し求めて歩くのだ。

肯定と絶望,自由と囚われ,創造と破壊,光と闇,融合と分化,構築と分割,恍惚と分別,知性と感情。等の一体の上の肯定,愛,光,創造,統合,知性などが目指されるものであるならば、その状態とは自在と制限,傍観と関与,完全と矛盾などの中間または全体。 それは流し去り向き合い,現実化し捨てられ,永遠と現在,感覚と欲,愛と否定,必要と無用,人為と無為,空と現実,心一つと具体,生体と魂,完全と放棄,等もの全てに渡るもの。<8/7 kohji mailで
減らし、書いてない部分。>

自身意識と気付き,意思と方向は大事だが、結局は出来うることへの現状が自身を与え起こしていくに過ぎぬもを受け入れなければならぬ。 つまり自身が何を感じようとも本当に只必然に流されるしかないのなら、その意思と違う自身をも認めないといけないという非情への覚悟。


進化の為にもなる知性ある故に苦しむ人間の新たな時代の到達を願うが、歴史は人格なども気にせず非情に殺し続けているのに、僕らの時代にだけは神様や宇宙人来て救って貰えるなんて(有るかもしれぬは否定しないが)甘い考え。 それでも世界を諦めず真の救いを目指すのだが。


同時に在りて統合されていること。 自分の中に多様があれば、自然にその中間は全体の落とし処のような範囲へとも入る普遍的な中庸性へもの在り方。 否定的指摘は違う視点を挿し込む意義においても有益で否定は出来ぬし、相手の力と同じ分の反動で鏡のように鐘のようにも打ち返す人間的行為体としての選択関与を取ることも一つの対処方法。 しかし(自民党に対する共産党のように。 でも自分は自身において何処をとり何処を提起するか? 初めから一切の傍観へ抜けるか関わる人間的遊びを持つか?のようにも)、鐘の音は判断を持たぬにより、祈りと鐘存在そのものの波動を時空へ解き返し消えていくのみにしか返さぬ愛や平安への具現的比喩の道具(形)か。

122 ~<
苦のない幸福でもある心身の健康。
人間,家族etcにも困らない愛の関係。
その聖者の暮らしや祭り等の共有の拠点。
生命,意識,魂の開けの世界へのartistとして開花し(旅にも)回る創造の仕事。

一つに集約すると、愛と真の幸福の世界へ私(和)が最高に生かされ果たされ叶う。
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今日からの祈りの言葉の生起に繋がる。

心身の健康,愛の関係,旅と拠点,富と繁栄,自由で自然な,世界と私,真の幸福,の為の創造の仕事が、最高に完全に生かされ為され叶えられ輝く。

今が既に最善に為されてはいるし只パイのように癒され心地よく平安であっての境地より、苦も更に深めゆく私の為の必要ではあったようだが、生き生きと楽しく幸福によりて与えられ歩みたい。 それは私だけの為の道でもなく求められているものでもあるのだから。

苦を味わうことから深められるとしても、苦を経ぬとも気付けば深められるにおいて気付きて変容させられる方法を取り入れていくのは良いだろう。 しかし苦が来たれば受けるしかなく排除みなく、そこでの肯定や愛への変換も成長も大事だが、もう他の事へも力を振り分けられるように現実化と均衡が取れていってくれないかとは思う。<(diksha soul sync gig の後で)

意識の美しい状態と苦の意識状態しかない中で美しき状態を選ぶという方向であったが、それは肯定において宇宙に肯定が回れば肯定の現象が起こり戻って来るというような法則性に関しての解説なので、それを実践する者が浅い知恵でしかなくても現実化は叶ってしまうという、真の真実ではない中級者に響く知恵だが真実へも掛かっている故に道としては使える方便的な技術としては取り入れ、完全に信用はせぬが自身を信用させるへ観入させていられるようになった自分においての、苦を経ぬとも幸福に成長できる道へ引き寄せるへは使える。

(でも真に知性に響いて来る感性のものでなければ幾ら正しくとも、使える部分は受け吸収しながらも俺は信じないし深くは入らない。 そして相手は聴かないし排除されると分かってもいる無駄なのだから、余程に必要を感じたり機も来なければ(来てしまったら行うしかないのかもだし奪う者には止めろと言うかもしれぬが)僕は反論も質問もしてやらない。 自分たちが学ぶ機会を自分自身から取り上げてしまっているのだ。と言う以前に、彼等はそんな指摘や学びを求めていないし準備も出来ておらず言っても受け取れないのだから(上からではなく実際に様々な事象がそうであったから)それは全くの無駄ではないとしても僕の関わる役割ではなく、自分は受け取り付き合える処で関係するだけだ。

同じ力で返してやる鏡より阿呆には響かぬ又は自身を通し愛と祈りの波動へ放つ鐘へ僕を変容し、その過程をひたすら独りで打たれながらも逝くのが苦であり辛く、たまには自身を押さえ込まず解き返してやっても良いと思うが(何でも良いからと開き直って攻撃と罵詈雑言を吐き出すようにはならぬとしても)苦を通しても通さなくても、私を真に突き抜けた到達の幸福と愛とその共有の形へと鋳物や錬金のようにも練り続けるのだ。 その自己を融かす熱が苦行ではない孤独に打たれて変換させなくば絶望と虚無に捉えられてしまうのではない方法で起こり行われるへの手段と宿りの変換も私は模索すると共に求める。


(日記に書いた分だが、偉そうに一方的な判断を押し付けて来るやつ大嫌いだし仲間になんてなれない。 まぁそこまで酷いわけでないから流しながら付き会うし彼だけじゃないが、こんな人間ばかりが他の人々とも上手く行く。 そして仲間内で排除も始めたりする。 尊敬してる面や楽に話せる時もあるが、こういうの多く有り過ぎて困ってる。人間関係いちいち嫌になるのも、少しの事でも心に後々残って響いたりするのも嫌なんだ。 最近は身体に出て心には来てなかったが、来始めると困る。)

では哀しさや如何に対応したら良いかの分からなさも来るが、その程度の度合いにはこの対応と私のままで良いと済ませられたとしても、そしてこの程度で済んだ学びと(この現在もの文の繋がりのようにも)必要はあるとしても心に来ると良くないし、日常的に苦難や試練の機会に会うのには疲れる。 そして、もっと大きな問題の発現した場合には大切で必然的な機会だとしても又(苦を学びの為などでなく、そのままに認めているとしても)苦しいのは嫌なのだ。

8/27

私と家族と世界に、なるべくなら苦しみが起こらないように願う。 ではまずは生存権の共生的な充実からであって、真の幸福へは苦がなくても段階的に進むを選ぶ事が出来れば良いというのか?

少し良くなったとしても、そんなのは浅い享楽,消費的進展でしかなく本質から遠ざけてさえいる抵抗とも成りえ駄目なのだ。とも思うし、そんな人間世界状態に絶望を感じるが、同時に少しでも良いから良くなってくれという想いもあるのは矛盾か?

人間は根本に変わらず何千年前から進歩もしていない。 それでも蓄積されたものや技術が決定的に存在環境と世界を変えてしまうを待ちているのかもしれぬとしても、滅びるのでもなく悪くなるか良くなったとしても真に深く達した真実,本質の統合的知性や意識存在となれる希望はほぼ無いと見える中での享楽的共存状態の強制と生存を深められず他の縛りへ移行するだけで、又その拡大による問題の顕在化による苦難が来たる可能性に関しても、あまりにも人類の種と未来は無明で暗惨としていて希望が無い。

虚無に殺されず虚無に触れ合い、現生の私たちと私が、ここでこそ生きる意味があり悟れるのだという機会を与えられているのだとしても、生きる事は愛と感謝と歓びでありながらもの苦しみだ。という事を先ずは知る事からもの変革と統合と肯定だ。 楽観は素晴らしい力でもあるが、浅い肯定などに何の意味がある?!

人に柔らかく開けていられる人たちと違い僕は僕への経過によってこうなってしまったというだけでなく自身で在る事での平安や柔らかさの以上に人へ合わせられるように生きていく必要はない。が、こんなにも叩かれたりもせず生き易くなり上手くいく中での生を選びたかった。 しかし(それが自己意志によって定まるものではないだろう事の以上に)、それでは上手く行かぬ人の気持ちへそこまで寄り添えなかったであろう故にも、やはりこれで良かったというのか? それでも成長と共に抜けていきたいが無理なのか? ゴッホもイェシュァも殺したじゃないか。 まだ彼等は残したが、僕は残してないぞ。 死なぬとは思うが、この生で生きていくのは苦しいぞ。

あまりにも無知性な判断ばかりだ。 その中で、それでもあなたが幸福と感じているのなら良いよと僕は言えぬし、そんな風に思えなくて良いと思ってる。

全体や他の流れの業の解消地になるのは、そこへ愛や光の意識と存在の変換媒介となるのは自身作業とは良いとしても、そこへイチイチ人からの判断,否定と不利益などを当てられ受けるのは無駄だし愚かだと思いてしまう。 そこにも誰かを責めたり悪者にしなくては済ませられない人間たちへの調整的媒介地となっているのかもしれぬとも、僕はもうそれが嫌なのだ。 今思ったにではなく、ずっと嫌だった。 それをいい加減に抜けたいのだ。 その役目にあったを果たし独り抱えていくだけで、それは僕に根本,致命的な問題があるからではなく(そこについては振り返り直してもいるし)僕の問題だけの責任にされて終わるのでも現状判断出来てないからのせいでもなく、愛への解消地なるを僕には宿され課され、役目と必然を一人一人が為され流されている事にすらの理解がなく責め来る人の愚かさを感じる度に絶望を感じる。

そして彼等の生み出す業の解消地になって生く事などを僕はもう止めさせて欲しい。 それ程に僕自身の業があるのか? その仕事を(それも思い込みかもしれぬが、その位までの俯瞰では可能性がある。 人間としては、もっと大きな段階から把握出来ぬ面もあるが)幾らやっても決して感謝などはされず責められ正当化されるだけ。

やっと生きてんだ。 思い込みばかりで思いやりも何も無い奴等、お前らが世界を悪くしてるんだ。 囚われFight backしてしまう自分の問題はあったが、お前らの業を何故に俺が背負い解消せねばならない!? それは全体への必要であったとしても、そんな人間の間に暮らしていくのは、独り愛への解消と変換へ闘い生きるのは何とも苦しいと人間としての俺は(そこを独りでの変革と超越へ抜けてはいきながらも)言いたい!

浅い指摘に対し受け流すだけでなく、それは違うと言ってやる機会でもあるのでは? 表面で流し折り合っておくよりも、しかと自身の意思や想いを示し提起していった方が自身精神衛生上の理由だけではなく例え結果は意味がなく相手は学ぶ事もなく排除されても怖れず世界に可能性への提案を残していく事の意味もあるのではないか? 受け流し方としては、こんな処には尊敬も出来るのになぁというような柔らかさだけで対応しておけば良いのか?においては、そういう自分も試して来たが何も学ばれず変わらない同じ事が自身の状態に関わらず起こって来るのは終わらない中で、少しでも生き易く自分の為し方への現実化を願うもは間違っているか?

答えが見え存在もそこへ入りてゆくのだとしても、心は揺らぐ。 しかし、そこからに学ぶ、自身への意味はある。 が苦しみの在り方を与えられる現状と成長の道からは抜けたい。 柔らかく誰とでも上手くやれる人には成れぬかもしれぬし成れぬとも良いが、打たれ続け仕事成されず仲間もおらず独り愛へ向けてのみへ生きるのは疲れたと何度も言っている。 (少しのキッカケでも、その根本の因に関して考えてしまう。 それでも少しで済むようにはなったのかもしれぬが。)

そして共有必要の分以外は離れ放り出しておけば良いとするのだとはしても、しかし或る程度に関係も持ち話せる相手で感性は良く根本的には正しい面もありても表面でしか見ないという人に、(例えば江戸時代が理想的社会であった等や、その故に金を使って居なかったなど。へ対して実際には先物市場がある位の金融先進国であったし貨幣改鋳や戦争もあったので金銀は鋳潰したから現物が現在は少ないのだろうと思う事や、人を疑う社会より皆が良い人ばかりだから防犯などを教える必要もないと言うに対して僕は人間誰しもが持つ善悪両方において危険性や対処方も知るべきと思う。等においても)それだけではないのでは?を挟み込みていく事は、そこに出来る自分の置き方であるとも思える。(凄く必要を感じたのではなくとも、そして多少に話の腰を折ってでも自分の基本的なスタンスとして良いのではないかと思っているし相手にはよるが、それが出来る対者とは相乗的な連結へも話しは出来るのだろう。)

人間自然の暴力性を見せず隠してしまうは良くないが、それを広めれば引き寄せてしまったり拡大される可能性がある事へもの(表現の自由も同じように、影響への判断は付かぬし暴力だけではなく消費材となるもの全てにも(hollow やviolentだけでなくentertainment自体が)同じであるが)暴力や拡大へ参与してしまう責任への自覚が足りて行っているのか?等は各自に問われていなければならないと思う。(かといって罪に問うことは出来ぬ倫理,道徳的な方向や努力目標としかならぬが。

指摘も、その深さからの質に拠るとは思うが、それを認めていてしまうと人へ対しての意見などを(大体は他者からの評価に左右されたイメージに依る判断であり自律的意見ではないが)何か言いたくなる人たち(性質や自己誇示したくなる人間自然の人為操作性においても)の浅き評価,判断などによる指摘の風潮も助長してしまう。 では私における、そこだけではなく他方面から見る事への 提起,指摘,意見もは例え真に近く相手に良いものであったとしても、告げられず押さえる方が良いのか?

受け入れる事で助長させてしまい押し付けられるばかりになって共有も取れぬなら、そこへ自分が責任をもって殺すなども必要であり認められた選択ではないのか? (それは実際には嫌だし、そこへの安易な判断を催させる力へ利用されたくもないが人間と暴力の可能性の問題に対する形而や理論的考察として。と、当然の事も言い置いておかぬと誤解や判断基づく無駄な排除や労力が生まれ易い自己防御の為へもの説明や弁解を僕はなるべくに置こうとする。)

力へ力で返さず発散されなかった時の人間のストレスを愛への転換へ押さえても良くないならば、自分こそはそれを目指すのだ等とする事もなく皆の道としてもに、愛の自身のみを目指しながらも世の不合理へ世の一端としての私を吐き出し(意見という自己判断であるも分かり、真実ではないかもしれぬと気付く大切さにより押し付けぬとはしながらも)ても良いのではないのか? そして認めず押し付け来る者へ対して抗戦する選択を持つ、非暴力,不服従と暴力の間の何処もが自由で良い中で何処を選ぶというのだろうか?

8/28

それにしても嫌われてる。 そんなにrudeな事は(多少はあるとしても)してないと思うのだし、それでも相手の状態やそうさせた気持ち等にも思い致し理解はするが、相手はこちらに思い寄せ理解しようとした事での折り合おうとせず、つまり思いやりなく流した上での付き合いなどの修復も出来ず(僕はそのスタンスで関わろうとはするが)僕の側の原因だけに責任転嫁される。 僕もそれ以上に修復への関係や言葉を持とうとせず、そんなやつとは付き合ってやらないよと離れてしまおうとする面はあるが、それは行動,態度で更に進めようとしても徒労(だけでもなかったが労力は大きい。)であった今までの経過によりてもの離れる事への進歩としての現在でもあったはずだ。

自己能力や存在への承認を求める欲求かの以前に、単純に嫌われ上手く行かないのは楽しい状態ではない。 独り愛の転換点となるへ従事し続け振り返られる事もなく打ちて良い人間として否定や攻撃を受け続けるのは、僕はもう幾ら成長の為であっても止めて欲しいと願い伝えてる。 こちらの原因は1~3であっても6~9で嫌われたり排除されるは幾ら鏡でありて自身のみが全ての原因であるというのが、もし文字通りの本当であったとしても自身への学びや役割として否応なく行わなばならぬとも、それが全体の業の僕への集積であり必要であるとしてさえも僕は嫌だと言う。 全てを認め肯定していくは本当で、これもその変換への機会と受け取り行いながらも嫌だ止めろと意思表示もしたいのだ。 抜けられねば一生ここに惑うのかもしれぬとも肯定自己存在へ向かう以外に如何に(制限知性矮小な自己でも)意見も伝え関わるかへ現在の自身のままにおいては関わりていたいのだ。

それは皆へもの道であり、皆誰もが道の為などとも思わずとも自身へ出来ず為されぬ事ならば諦め哀しくとも捨て離れよという流れが起きているのかもしれぬとしても、関係から抜けたからといって僕が幸せになれるわけではないのは本当に分かり会える人が最少に居る幸せがありたとしても他からは攻撃されて防御労力もかけて暮らさねばならぬし、知恵を一般化させるへ囚われ過ぎぬとしても人類種にも普遍な共通真実を取り出したいという目的(現在だけかもしれず未来の知恵とは成り得るかもしれぬが)にも適っておらず、本当に心開けて心地良くほどけた肯定性ではなく陰の場所での仙人となり哀しいが肯定するというような、現実状況を受け入れなければならぬから受け入れざるを得ないという在り方までしか叶わない事を(それしかないなら受け入れるとしても)認め欲求を捨てて行かなければならぬのか?と同じく、関係や言葉を全て諦めていく(諦めて行うのではなく諦め捨て一切を行わない)しかないのか?とは、全てが叶わなければ幸せになれぬという制限と欲求には陥らない為にも、結局つまり幸せでない状態も受け入れ肯定していく幸せのみにしかあり得ないが結論なのか?

8/29 (thu)

自己に在る大切さもあるが自我を張らなければ上手く能力同士が関わり繋がり共有,相乗出来る単純さも有り得るのに人間にはそれが難しい。

操作への魔法は使わず、自然との流れに任せて均衡を取る在り方をするのだ。 人為よりも受け為されること。 その為の各自役割があり、賢者は自己の運命現在も認め見渡しながら聖者となる時の到来が機に至るを夢見てもいる。 そこでの責務がある事と放棄できる事もを自覚しながらに。

不必要だったか必要だったかは判別が付かない選択の上に、現在の結果時点を見返していくしかない。 しかし結局は判別など取れず選択と行為の無意味の上に、感覚で感じ取る以上に基準もなく自己が納得出来たか?しかないとも言えるにおいては事後の意味付けによる自己肯定という安易さも亦、認めて然るべきかもしれぬ。 しかし意味付けの無意味さや浅はかさも知りて、何でもを結びつけようとしない知性である事も、やはり言われて置きたいのだが。

意識で解消されたり方向が良ければ良いものも多いが、意識したから全てが良いわけではない。 抽象と漠然と各自の運行と判別に任せても良いのかもしれぬが、そこを明確にせぬで良いのか? 又、明確に近い指針がありても、その説明と共有には複雑(弁証的な結び付きの経過と)が要るのではないのか?

それでも如何なる主張や自己を放棄,捨身に置いていき肯定と為される以外の何をも置かず示さぬを通常基準と成した無関与,無行為性を獲得されていくが共通においてもの正しさなのか? 又は曲解され人為へ利用されるが分かっていても詳しくは示さずキィワード的なcodeの封入だけに置かれていくが良いのか? 愛という言葉だけでは真相は伝わらず浅はかさばかりが広がるというのに。

裏を読み過ぎるでも情報を入れないのでも入れ過ぎるのでもなく両方,多方を見る。という感性を挿し込んでいくにありては、真なる統合への動きは誰もには出来ぬとも人の自己のみ視点による判断,強制,押し付け,慈悲のなさ,対立,等の無駄と破壊へも解決と共有を持たらしていけるか? (感性の良い方の人間であってさえも未だこの位の事を言わねばならぬような幼稚な段階人類だと知って来た。)

必然が為されているようには見える世界と流れの、その我々を越えた上位次元に規定された運命性へ関わろうとする必要はなく又は今次元が各自の動きに連関が起こっているだけがあるのかもしれぬが、その私が行為からによる操作や共生などの判別にも関わらず、その因果の連結に関わらぬ肯定のみの自身と最少影響性へ抜けてゆくだけが必要な私や個人への道の歩ませ方なのか?

如何に流れに従いゆくか?を考え感じ試すこともなく感じるままで在り行う事と最少自己へ減らしゆく方向と存在化を流れて、では流れを産み起こしているものは確かに人為も含めた動物としての人間に依るものも多くあり、そこに関与し会いていく事によりて流れが生まれるという意識によればそれは起こるだろうが、その意識への囲われも外している事で、もっと人為的な流れの創出を越えた自身存在と自然そのものの呼び寄せる関係と因果もへの流れ方に化してゆく事は出来、その方が人為との関わりや折り合いを減らしながらも均衡とも適合していける姿であるかとは思う。 が、では人間世界の方向に対しての過程の選択など(Biや政治的関与、又は社会的な活動を取るか?等も)へ対してもと同じく如何程に関与と無関与の判断出来ぬ選択への調整的在り方を置くのか?への存在と問いばかりが在る。 そしてそれは中間的な現在との適合点を取っていく事ではないのか?

結局、全ては肯定であり苦しみも只味わえる生の喜び一体であり、そこへの調整も解体も如何なる操作はなくて良いのだとしたら、私はただ任せ流されるにおいての生を感じ歓んでいるという以外に何を為す選択と必要などがあるのだろう。 そうだとしても実際なる痛みでもある苦と心の反応から逃れ離れ捨てていくのは難しく大変だが。

119 8/19

119 8/19 (mon)

愛を送る~愛で在る~只、存在するだけと成る。ことのみでの愛へ、戻り来るへ辿り着く道と経過を辿り来ては、自身のみこそが愛の状態となるだけだったのだ。へとも長い時間をかけては戻って来た。 そしてそれはしかし、常に既に私に知られ私と共に在りて私への必要の象りへ過程を与えられて辿った。 愛と存在のみの到達からの、現化体,色象の私たちを問いて、その道を形取る、それら全てが愛であるという事。

愛や潜在的に深く達している感得状態での存在ですらなくとも只、存在するのみで既に愛も潜在もの全ては必然を起こしており、その肯定の意識のみにおいて肯定的な現象も起こりてしまうと設定してしまえば、それは心にも情況にも或る程度は現実化するのかもしれない程のものである。

悲観を持った自分でも、その存在のままに回旋(回線)の中心となるように、愛と光を世界へ生み出していく存在と創造性もの媒介となるへ渡る。

誕生日の時刻を正刻へ正した動きは僕の(凄く恵まれていて運も良いが流れ去り、何も得られてはいかないような)流れを設定してしまったかもしれない。としても僕はその選択を正しいと思うが、それもはその選択により生まれた流れをずらしてでも正しさを求める流れや僕化された悲観にもよる後付けの肯定であったのかもしれないが、それでも僕は楽観的に上手く行くが真に深められなかったよりは良かったと思えているように、思い込みと現実化への意識の力を用いながらも真の幸福や本質へ近付き達しゆくには(問題も身近と私の内のみで済ませられ、それこそが深く掘り出しゆける道でもあったように)私の歩みは完全な程に最善であった。

では意識の設定や方向によりて肯定の心と現実状況を起こしてしまうだけでは、やはり駄目なのか?

宇宙の総合体(それが実際何かの知性状態でないとしても全情報量の中の一部で特異な形としての知性,自我という突端)から現れた各自の知性において(そこに持ち得られる情報可能性の中で最後に統合でき)最終的に感知出来るは愛なのだから、世界の全てが最善,必然であり愛の感得、又は肯定の存在状態だけが在る。のみにあったのならば、何が現象化するかなど些細なことではある。 綾へも現実化手段の浅きへだったし母は生活へも実際現実が好転していか事への囚われであったし、観察の深さなどを求めるのも現実へ対してでありて私は現実に囚われ過ぎているのか? しかし例え与えられるを受け為されるだけなのであったとしても、現実で生き選択するのは変わらないし殺され奪われていくを何とかしようとするも(それが愛だからかどうかの判別でもなくて)我々の現実だ。

仏陀の釈迦もキリストのイェシュアも成るがままに成されるを選んだだけ。の?それぞれの行為と結果を為されただけであったが、それは例えばキリストにおいて神からの声により受け入れるを選んだのであり、それが無く自身の性質や状況からの選択であったならばムハンマドのように徹底的に闘うという手段や行い方を選んだかもしれない。 つまりここでも生も死ぬも越えて為されるへ投げ出し受け入れながらも選択する主体は、そこにある現実行為への自分なのだ。

ヨーロッパやタイでも瞑想や祈りは用いずとも存在は抜けていた。 しかし目的への現実化はせず、そこにもの必要が行われていたのだとしても、やはり実際の身体は苦しかった。

呼吸もvipassanaも潜在の深さもartmanも光もあみだぶつもdikshaもmindfulも浄化もetcは一体に在ることは事は出来るし、至れている時は存在へ深めようとさえ思わずに存在だけで叶っている。が、至れない時は心と共に揺らいで(呼吸のみ的な)分かり易く至り易い心チューニングもの方法が未だ僕には無く、苦も学びや味わう事が出来る生命体験の喜びと最善であるが苦の心の状態である時はそれを認めながらも実際に苦しいのだ。

創造よりも存在のみへ。 現実や欲を投げ捨て愛のみへ。の否定道的な縮小を辿りて今はまた、存在のみの基盤を経て、しかし創造へ。 愛のみ、からの現実化へ。 捨て流し去りては求めるへ。 無関与,無行為からの選択,行為へ。の現在と流れへ転換していく現実化への肯定道にもあるのかもしれず、しかし私は常にその一体の空と色の統合へ私を行われ離れず観察し続けてはいるが、その中間に揺られ過ぎてもいる。

そしてもしかしたら、そこに愛と闇の相対が繰り返されているのではなくて私においての現実化と心の内面深化は肯定による現実化と現実化せぬ中での肯定という道での深め方などが起こされているのかもしれず、ならばそれを現実化と肯定、苦でなき幸福での真の幸福へもの成長。などへ転換させていく事など出来るのか? 又は、しても良いのか? (現状の私としては、それを目指すを肯定するが。)

この心や体調の何処もが調整と連結の無駄なき必然性に行われてはいても、そこには揺られ過ぎぬ安定の調和と均衡が取られても欲しいが、それも幾度も現化させて来た静寂に平坦な心と自身の受け方でもあったように、そこにもそれで在る時とそう在れぬ時の現化されるを受けるのみの揺られ流されゆく私への必然と意味があるを又も感じ見ていくのだろう。

そして結果に依らずとも俯瞰とは現在にも行われている総体的な連結において為される(全てを知るは出来ぬが)私や世界に起こるを見ては、そのあまりにも必然的な連関を見て判断を越えて為される世界を受けるに在りての歓びにも味わう視方だが、そこには想像や思い込みの力も用いられている事を自覚されていなければならないとも言えるとは思う。 例え各自のみがあり本質へ深めるも観察の力などの必要もなく判別も知性もなく、浅く思い込みだけでの判別であるも良いのだとしても。

運転中に他の車に道を譲るかへの瞬間的な判断にも周りや後続車の状況や現在速度なども読み取られた上での適合へ重きを置き、その上で為された事は譲らなかったとしても良いのだが、今は僕さえが選択,行為すれば皆(全員ではないだろうが、その場の繋がりの大体において)にも良かった私が為すべき流れの連結点であったというに気がつかず行わなかった時には、しまった。と 感じるように(その解消機会も大体は来るものの故にも、あまり気にかけ過ぎる事はないが)流れの選択と検証において私は、気付いていたかに重点や私にとっての喜びを置いている。 それが真に必然かどうかに関係がなくとも、流れとの選択を感じての適合が為し得られた時には、それが嬉しく喜びである味わいではあり本質的な遊び方でもあると思っている。

そして僕の音楽やFlowのArt(流れの芸術)の凄さや提示していきたい価値とはそこに在り、(魂が本当かや本当としても、そこに触れていく必要もなく世自体の完全に為される各自の完全が在るだけであるとしても)流れに観察して世界の本質を問い堀り出していくという道と知性生命の歓びがあると思われてはいるのだ。 ならばその道を自身にはこうして歩みながらも、示し出してゆくものは答えではなく観察の喜びとも言っては良いかもしれぬが、それでは響く人々の受け取るものは、当然の事だよな。程度で済まされてしまうにおいては、あまり僕に思うそこへの意味は起こらない。

行うことと行わぬこと。や言うと言わぬ。等もは、例えば事故などのクロックアップ時にも、為されるに任せながらも少し自己行為も持つというように私においては観じ取りながらも中間的な最善性は既に常にも取られているとも思われる。 そしてならば人等の各自も観察の深さや如何んに限らずとも、そのままでの世界の必然的連関への性質,選択は生起されているならば。と、ではそこへ何もを関与せず放り出しているだけで良いのか?

運命か意志かにも関係なく、そして必然に見える流れが全て決定の必然なのか、為された後に必然的に絡み合っていくのか。にも関係がなく、どちらにしても世界に在りて関与,行為し関連していくのは自身の選択や置き方なのだ。 神や宇宙人などの声が聴こえるのでなければ又は聴こえたとしても、それを信望し選ぶかも自身であるしシミュレーション的な幻像,仮象としての自身でしかないのだとしても、如何にこの現実,状況,制限の世界でも何を感じ如何に選ぶかは、この自身ごとであるしかないが、(デカルトは此処でも顕在。)ではその観察と適合の喜びの(知性やFlowの意味や)価値を通して示し与えられれば人の意識は真の肯定や交感もの幸福状態へ進化されていけるというのか?

(だからこそflow出ぬactには(歌の内容を分かつ事などの以前に、それ自体が目的でもでもあるのだからにも)納得が出来ぬのでもあるが。 それは深き観察とも同じ潜在的能力による連結性の素晴らしさ。だけでなく(この書き連ねも)、その本質,根底の存在性だけ。の価値や凄さを催すなら良いのなら、その流れへの観察による力や価値と道は如何に示され又は必要ないともいうのか?

私のみが在る。において科学や近代が興きたが、これからの否応もなき意識の時代における又はそこへ興すへと関わる為へもの生き方の道とは?と問う事は私と私の役割の為だけでなく皆誰でもが共通の必要ではあるだろうが、限定された知性や生活余暇なき状態においても皆も逝かねばならぬ。のでもなく役目の誰かが為しゆかねばならぬにはあるが、そこに示されているのは皆にも必要とされていく過程へも関わりゆく為の発明,発見の必要でもある。 そして基本的に人の大多数は消費的享受者であるを理解し、では開発を託されてしまった側の犠牲的な生は業が深いとも言えるのかもしれぬが業や徳の高さなどの区別に意味が多分あまりなく、全ての事態と状態はそれごとへの(業や徳とも言うような)必然連関のみが起こされているようには見ている。

如何なる事件や問題が世界に起きても、私たちには何も出来ない、せめて周りで起こる事や状態へ対応を当てていく程度にしか基本的に出来る事などがないのだ。という理解の上に世界への関与もの方法を考じられなければならない

全てが必然的完全に為されているだけか。にも関係なくても、世には均衡同士の働きと現在の(playerである生命たちにもよる)知性進化段階や光と闇の両方バランスの上にも、調整は取られているように見える為にも、何処にも判断が出来ない。

では行うと行わぬの狭間に自然な自身化の流れと存在状態化が起こっているとしても、例えば僕が現在の香港市民として歴史への結果にも関わるプレイヤーであったり(シリア市民であったならば逃げるという選択が家族の為にもへの最もなる優先度であったかもしれぬが、香港は未だそれ以前であるし世界への種となるかもしれぬ実験の萌芽でもあるに)した場合、力へ対する力使用の効力も知るのに、認めず関わらず自分は力を用いない又は現在自身の指摘性のようにも暴力に過ぎぬとしても、ここまでの力と提起はしよう。などという何処を選択するのだろうか? 又それを、あくまでも自身はそこを選択する。と思い示しても、それが故に暴力的行動への肥大やそこへの対応による被害の増大。 又は更なる不自由への種となるへ力をかしてしまうのかもしれぬ可能性も感じるなら、その責任にも立ちて何処を選ぶのか? 抵抗せざるを得ない状況とは友や家族が巻き込まれる又は目の前に暴力が迫った時ではあるが、それ以外は又はそれ自体もは感情的囚われによる対応ではあり(その人間というものも認めているが)私は感情的には選択したくないという基本においては、やはりそこでも選択の基準として積極的に採用はされていない。

結局、私は調整者として動けない事を基準とし、そこに覆す機会が起こりていても又は同じ方向を持つが抵抗や暴力へ立つ友や弱き者たちの選択,行動へ力をかさぬ。という(そこへ他者を巻き込まず、もしかしたら意見さえも提示しなかったとしても)逃げ離れて関わらぬが選択であるという事か? そしてそれは個人選択としては尊重されるとしても皆への共通化は出来ぬし、では共同体的選択をせねばならぬcouncil等へ関わるにおいてさえも意見せず、又その意見への共同を募る事もないというのか?

例えばAltanativeな世界種子の繋がりの力や共同体への提携の基準も(投資も同じく大体の方向性の近さや、友であるからという人情性にもよる判断は有り得ても、何をやっているのかも仲間なのかも本当には分からないように)判断できぬのだし、そこへの相互補管的な防衛や経済流通にもおける軍事的なアライアンスなどを組まぬとも緩やかな提携を選んでおくのだとしても、やはり暴力にさらされていくかもしれぬ種たちへ共同の力を提供しあう事は大切であるし何処までも無関与を選択するというのなら自身等の自治自由区域も守り自立するには徹底的な自衛抗戦意思を持ち物理労力的にも用意しているしかなくなるように、そうした状況が世界に現していくならば、何処をとっても地獄の中での選択である。

そして現実的状況が何処に現じるかの判定ではなく、可能性想起の上での選択の問題であるこれらにもおいて、金を使わぬ生活選択肢を持ち行く。等のような肯定的な道の提示と思想をかざしていくのみの状態であれば良いのだが、その革命の方向や手段の現実生起が暴動などのような社会の選択や不可避であった場合にも(シリア等も、それであった。)又は家族が奪われた等のような自身現況化においてもの選択においても、今そこに殺されていく仲間たちへ(例え自身一人が加わってもあまり意味がなくても又は出来る事があった場合にも)力をかさなくても良く、自分はひたすらに自分の想いや思想的提示または生活のみをする。 又は傍観のみを方向とし灯し逃げ語らず生き延びる又は同じ地球上にありて離れる事等も出来ず無関与において生命達が殺されていっても(現在世界は既にこれでもあり、この非共生に対しての何が為せるかの私の現在と問いでもあるが)殺されるを待つのみというような選択肢を持つのが正しい在り方と示し得る基準でもあるというのか?


120 8/20

同じ惑星からは逃れられない、運命共同体でもあるというのに。

存在のみからの愛と常在の変革へとありながらも、それは本当かも分からず現実への探究と試しをゆく。 未来などが分からなくても。 愛ですらない超越の相へ、僕は語りかけられている。

肯定と否定の両端や多様を知りて全自由の上に、空と現色の狭間に選択されゆく自動生起に判断を越えた私への幻しを追えば、中間性の夢と曖昧が果たされるのか?

傍観と観察と自個と縮小と無関与と思想と静寂に向かい果たすが自身を置けば、種の未知は分化ともなるのか? 流されるしかない非情を僕等は逝く、全体だけがあるを知る。

真実を追い、感じられた真実のみになど取り込まれるな。 Flowに宿る連結の行方を僕は観つめる。 存在への流れを身に宿し、歌われる事もなき歌を歌った。

記録、宇宙からの声。 連綿の相が織られゆく各自が自由と一体の運行からの記憶、瞬間たちとの出会いが私へとも至る。

放浪に流れるままと言われた運命にも流し去られて、自身なる意思を試し挿し込んで来た、世界と言う大いなる幻想の上に、根を張る現世(うつつよ)を僕等は生きているんだ。 重なりあった次元に合わせて知性の突端に現れた私への選択を為されて巨大に進む総体からの声を鳴く。

けして分からぬものがあり、進化と具体への方向は、それさえも自然(jinen)のままが起こるだけ。 必然などが自身等の後か前かはどちらでもある運命と意思は同時の絡まり。 業と徳とは全ての状態が背負いた存在と形への呟き。(度合いや固着点つまり性質的な違いは勿論あるが。)

人の動きと感情ではない、そこに流れを観てはいるのだ。 心一つからの肯定という一つの結論にはありて、苦しみも味わえる生命の体験と歓ぶは、それ逝く歓びと非情なる覚悟なのだ。<夕方~

今ここのみという日常と瞬間ごとの歓びを感じていくはmindfulな気付きの喜びと心の状態化や安定を持たらす道や効用として認め使用もするが、それだけでは現実物理的な苦痛の味わいから抜けられない。 抜けられるとしても、肯定とは基本的に操作への無関与に全てを受け入れること。

囚われなく揺るがぬ心の平静へ達す事のみが全てであるならば、それににより殺すも奪うも突き抜けた自在となる故にも、その性質や能力的artが先天性としても人為操作性により生まれたものでありても、それが生まれ来た自身を必然の役目に果たす最高と認め放り出すのみなのか? それとも、やはり苦を越えるのでもなく苦を味わえる生の喜びへ抜けるがのみの生体の意味,道,価値,達成と創造存在のartなのか?

それは、生の真の目的などが我々なる制限知性の現在には分からなくても、その生命体験の意味付けによる価値定義を何処に置けるのか?ではあるかもしれない。

苦労し努力して現時点までの自身の最高と向上した物を作っても、報われず失敗する現状の世界に対して、それが労苦を味わう為に生きている幸せなのだ等とは(人間的感覚性の制限のみからでもなく)僕は言えない。 欲を抜けていく自由の為にも肥大させず最少へ減らしていく事は道と効用だが欲や自己がいけないのでもないと思いてもいる。

苦の効用,必要性を感じ、享楽,利便だけの幸福だけではないとも思うが何故、皆が平等に富めるを目指してはならぬか? 又その幸福の質に本質的か等の評価基準を持たらす必要があるのか?

苦と自己による本質や幸福への欲の方向と使い方によりて進む、その達する先は如何であるのか?

欲,自己,苦,生体などは全て道であり、それはそこへも使える道具の一つというだけでなく、それこその超越がこの次元での我々に至りゆける可能性として与えられているのではないか?

生存を保つ為すらもへの現世界での方法において、見通しや準備や資本の投下量が少なかったからであるという指摘は確かに言えてはいるが、結局それでは資本へ吸収されていく現在人為社会の土台での構築,強化でしかなく能力により奪われる者と奪う者に分かれてしまうような強者の理論でもあり、又それ程の余裕や期間などを用意できない故にも賭けでもあるような勝負に出るしかない情報と分析力だけでなく選択肢の無さでもある中で、弱者を強くして一部の勝ち組を産み出す為に知恵を付けさせる活動に従事するのでもなく(その動きも必要かもしれぬに否定はせぬが)僕は弱者に寄り添うような変革へもの方法が求められている方へ自身を用いたい。

良いものは広がる。とは言い切れぬ世界で生き延びる為の必死の労働ではなく、自身の行いたい事で創造し与えられた役目果たすによりて分かつ喜びへ向かうへの関与と力をおとしていくのは破壊側面での(暴動や扮装などのような)創造ではなくて自己の存在と創造の用い方としてありて良く、ではこんな世界は間違っている。と言う私の(それは真理の一側面への判断ではありたとしても)指摘や対抗も、その手段の内に入るのではないか?

例えそれらは享楽的な利便的幸福と苦の減少による真へ深められなくなる経過へ通じてしまうとしても少しでも生き易い世界を創り出すへ関与する事は必要なのではないか? それとは例えば政治では本質的には変わらないが少しでも良くなりそうな情報や判断にも(メディアや教育も)労力を使いてでも立ち会い、平和主義への理想へと軍事力は減らすのみを選択肢とした極性への引き付けに関わるのではなくて(又はそこも使いながらも)武力対応の世界の中での安定と適合の方法を考え提起していく事や、理想主義や非暴力だけでなく(その側面手段として暴力,政治,情報力もあったように統合された思想への進展を目指すにおいても)政治,デモ,言論,扇動(船頭),暴動的対立力にもよる(長期的視点では何も判断できぬが故にも却って)短期的目標への力の投入や行使も恐れぬ事や、Bi実現がその先の金を必要ともせぬ世界の実現を阻害し新たな管理を生み出してしまうかもしれぬとも、そして自身には金の価値無力化方法を考じながらも今よりは生き易く生きられる段階への歩の進め方と現実に適合を持たらし地に足着いた少しづつの進展を目指すのか?の進め方と選択の仕方の問題であり、それともその労力投下の全てに関わらないというのか?

意識面においては、浅い楽観と幸福の中間的意識発展段階社会による共生などは嫌だが、そこへの進展力へ賛同し力を貸すのか反対の姿勢や対抗もを辞さないのか?等もそうした共生的社会の創造を目指す方向者たちの動きや運動や組織的力化への提携,協賛,共動などを何処まで持ち、阻害する事になっても何処までを否定,対抗し線を引くか?等とも同じ事であり、yesのみでないcounter(beat)なchoiceを持つは良いとしても無限に自由な選択肢の中から、どの立場を採り何処までのantiをどの対象に対してまで持つのか?や、Alternativeな自立体ごとの運用や個人としての私の立ち方,姿勢の示し方などに(如何に考じ選択方向を持ちていたとしても結局は、その時の現状までに結び付いた自身と現場に与えられて選択するしかないとはしても)、人間的手段としての暴力も認めるのに暴動的な変革力は認めず理想主義のみでしか現実へ対応せず、そこにもある新たな世界への種を潰されても関わらず、革命の手段は例えば金の社会から抜けるのみといったような非暴力性の線を引きて力を貸さぬばかりか、その動きへの否定すらするというのか?

その結果が新たなものを産み出したとしても自分の想いや状態で突っ走る愚かさを僕は否定し対抗まではせぬとも違うと思いているが、その人間たちの浅きが無駄を通しても世界を行わせ作りていくも認め眺めて、では私は何処に関わり否、そんな状態世界と人間中に関われぬなら関与せず、只この存在での思想面とその外形的形の創造行為面を人へ響かず分かてぬとも行いているのみであるへ抜けて、自身のみではなく世界に立ち会う代表表現媒介者なる因果と苦しみを放棄して自分の事のみへと尽くす自然により創造の遊びは分かたれるならば生かされるも良いという程の自由を得られるへ化し熟成し完成されていくへもの期間を使用されてもいる、唯ここが私の最善を生かされているように身体,物理的苦しみはありても恵まれた時との出会いを濃密に充足してもいる。

虚無と冷徹の眼差しからではない、何とも緩い環境からの慈悲でしかない者たちへ、共感共苦の効用を投げ掛ける為にも浅き進展の強制を作り出す位なら苦しんで成長して来いと思ってしまう自分も居るを、いや私は何処へも自身の意思などで操作を及ぼさずその未知の影響からも離れていようと意識でのリセットをかけては来たが、嫌という程そうした浅さに打たれて仲間に成れぬのは私の側の(怒りや爆発の)理由ではないと(そこでの私自身への成長は得取られるとはしても)分かっても来たように、離れ無関与でありても自身の存在と創造のみを遊ぶように生く(生命自体の味わいと遊びだけではなく)姿のみへと自身を変換して生きてしまうへ向かうのだろう。 原始仏教も自身変革のみへは関与しながらも世界の人々の生み出す業や現実性へでの社会変革や戦争や貧困や病の克服へ関与しなかったように(それで良いのか?の問いではあるのだし、未だ正しいとは言い切れないが)そこを一つの基準や中間的在り方であると示してくれていた信頼と信憑性の高い道の可能性は(僕に迷ったというだけではなくて無関与可能性を否定されぬ為の権威付けでもあるが)ありてはいるのだ。

自身の信じられるものと流れとの適合に可能性や機会が生まれたからといって、現実的行為の具体や勝算を欠いたままに試した自身の現状把握が足りていないと言われればそこは認めるし自分では見えないものがあるからこそ人から見えるものを教えて貰える相談,対話の効用があるも知っているが、こんなにも環境要因や自己の分析も(適合への囚われを否定されそうな程に)行ってはいる私に、それが無いから駄目だと言われても、その先の相談やアイディア出しの以前に、また浅く一方性の意味,価値づけと正当化をしただけのように思うし、私の状況と似て叶うと叶わぬの両方にあるティベットも同じように滅びるのではなく亡命政府を隣国で樹立し生存と戦略への命脈を保っているという意味では凄く恵まれているが自国内での自治圏獲得と復興などでは現実化していないのに、そこへ聞いたことへの答えも為されず只、感情的反応と自己正当化が返って来ているだけであると(もっと進んだ意識からに比較すると私も制限的な知性や判断での反応ではあるだろうには恥ずかしいが、この対人間間においては外から誰が(ある程度以上の知性,観察的視点と評価を持った者なら)見ても僕は、何度か読み返してみても全く間違っていないと思われる。

例え経済的な支配と搾取が終わろうとも、こんなにも愚かな者たちが力を握っていくならば、そして種々の教えや感得や知恵が仏教的な形などへさえにも現されて来ていても曲解や薄浅や想像作品的な解釈にしか利用されていかないように、では突き抜けて現実具体や日常的関係へ関わらず又は表面的に付き合う程度で済ませるならば良く提起するものへの適合は超越的な自身のみへの道と変革であれば良いのだとはしても一体そこに何を語り如何なる方法であれば伝えられるものとなるというのか? を、この繋がりにも見い出すへ問いている。

全てが良いにおいては勿論に指摘も関与も操作も判断もなく放棄だけがあるのだとしても、それらとの関係や関与に対して包括よりも僕は敵と設定してしまいているのは打たれ共有不可であったからでもあるし新たな支配階級と共同していくのも嫌だから分かち合いの方法を指摘においても模索しているのでもあるとは言えるが、では響くか響かぬか利用のみで終わるか等に関係もなく自身にとっての真実が見つけられたのなら行い示せば良いのだとしても、それらへの進化へと伝える事が目的なのだから、それらが如何に受け取り起こるであろう可能性にも観察し学びては如何に響くものとするかや又それだけでもなく、それらからの学びを経て真に自身が真実と思えるものを掘り出すへの研鑽へも尽くす過程に在る事からの問いを続けている。

117 8/17

117 8/17 (sat)

例え存在自体とその究極は、愛と全肯定の包括,統合的な意識と無分別な静寂、心一つの最少のみ(へ向かわれる本質への欲求と方向)でありても、具体現実対応は指摘や否定も恐れぬ(真実や統合共通地に近かったとしても全方位からの或る点を)自己に判別し選択した自我意見の行為や提起のままで良いのか?

全てが良い愛のみへ佇むのなら、そこに目指されるものは自身にも他者にとっても何も判別せぬ全世界肯定の沈黙と無選択なのか? 選択に立ち会う知性や人間的生命体の味わい遊び方として現在への交感に生く事もないと言うのか? 肯定のみの無分別,無選択,無行為という本質の基準のみを通し灯す為の分別,選択,行為するのか?

培われて来た対外的にも示し得る或る程度の真実と基準においての必然や流れや魂の自身(Spirit Song)と本質交感、存在の創造芸術(Art of Life)、肯定と交感(Affirmate & sympathy relate (?))などはあるが、そのkeyでもある必然,流れ,魂的階層などがあるか?や、そこにも関係なく触れず操作せず苦を生み出さぬ心と生活,生体最少の欲を減らすのみなのか? 存在のみの創造で良いが具体への創造は一切を為さぬが良いのか? 肯定のみの喜びへの意識の進化であれば交感により深める意識を開くなどの進化の目標も必要がなく両輪でもなく、未分化ではない自個による超越(trans personal)とは思えていたが未分化の恍惚や又は無感情のみであれば良いというのか?等の選択肢と真実の内の基準を知り採られなければ(現在までの聖者や人間の直感的感覚は、それらの一端を示してくれているし最終的には辿り着く正しさだとしても、これらを統合しておらず)これからの世界の進め方に求められている必要にとっても、少なくとも自身にとっては見い出されなくばならぬ歩の進め方なのだ。

目指されるもの。その培われて来た土台からが揺らぎ覆されていく、不必要に見られても必要な過程。 解体し構築し直すのは遅く遠回りかもしれぬし、そもそも構築の必要がないと言われようとも、一回ごとの悟りによりて真実だと思い込むに取り込まれ達してしまう事(究極的にそうだったとしても)を(苦難の肯定,納得,正当化の為ではなく)僕は浅はかだと否定している。 そしてその故にも肯定のみでなく全可能性を(人間的制限知性の枠内では)知る方ではあるによる悲観性でもあって、全て良いよと言う楽観だけではなく深める知性と観察の道を(それが間違っていたとしても)私の自身性質(などに縛られず覆さなくばならぬとしても)においてはどうしても行いたい不可避的でもあり、宇宙の可能性における役目ならば行われるしかないという覚悟の受け持ちであるならば、それは現在の芯,信ではあり、そこに言われたいものや現在までに対応されて来たものとは(愛と包括の存在を自身へは向かいながらも対外的な対応には)(怒りや指摘であろうとも柔らかさであろうとも)一方のみから見ない事。ではあり、それは私の一つの基準であったのだ。

では私において或る程度まで信じられ示し得る基盤とは、魂,流れ,必然的連関の次元や階層的な連結と関係はあり起こされていく私たちが在り、観察的交流にもよりて潜在的段階で(本当にそれが繋がっているかは分からぬし、例え何もが幻影であっても意識や意思の力は有るように見える。)関与し触れていく事は出来るが、そこによる操作,優越,創造,力の用い方などが良いのかは分からず見い出されなくばならぬ事。 生存と存在のみの創造に生命を充足して現在の味わいと交感に生きれば良いが全てでありても、それ以上の創造や選択,分別,意思,自我も必要がないのかの事。

心一つの肯定のみに在れば良いとしても、その上の(又はそこへの為の)交感の必要はないのか? 自己(自我,個人)による超越を基盤としながらも自意識なき未分化の到達へのみ至れば(恍惚,歓喜であろうとなかろうと)良いのか? 最少へ労力も選択への自己をも減らしゆくとはしても本質への欲求や判別は必要ではないか? 知足へ欲求や自己を越え小さくさせていく事で全体や他者との融合へ熔けていくのは他律的操作に化される怖れもあり、怖れを捨てるのだとしても可能性があり、無価値な生と死を放棄しながらも生きる価値にもより殺されず奪われぬ共生を模索する創造方向の価値もあり、破壊と創造は相関的一体としてでもなく判断つかぬ宇宙運動と性質の一体ではあるが破壊なき創造や又は包括や中庸の傍観の何処を選ぶか?があり、生体を捨てた意識のみとなるならば電子情報体の一片化が何故に違うのか感情,感覚や原始信仰(又は保守,懐古)などの他に見い出されなくば(僕には言えず)ならず、政治などにも関わる必要がないのだとしても選挙などの参加機会すらにも関わらぬのか?などともいった必要な解答への問いの種子を撒く為の基盤的な真実性の上の考える対象の設定を投げ掛けるが私の出来る事なのだろう。と整理を進められては来た。

その故に一方性である固着の信望や真実の一面を真実と思い込み広げもするような、浅き知性や判断への否定を僕は持ち自身(自律)に深め感じること、その知性や生命の使い方による問いを解き本質とは何かへ通じ達してゆく事を方向とし、やはり肯定のみではなく伝え関わるへも望むのだ。

では受け入れ流し去る肯定と愛の存在を基盤と方向の自身へは持たせながらも、やはり他者や現実からの否定や排除の一方性に対しての具体対応は、創造の力を用いず又は指摘さえも用いずに交感の歓びと知恵へ引き寄せるような合気へ受け流し転じ還す働きとなどなれるのか? 指摘面を持つも行いたい自身のままに結果をも怖れず求めず良いのに創造の又は存在の力(存在のみとしてもの、どちらもが力と操作への関与でもあるが)を通してのみに起こし意味を持たせる事へ繋げられるのか? それならば言葉の力も必要とせず、寄り添った方法として良いというのか?

今までの試行においては言わず肯定、爆発し怒りてからの祈り、怒らず言う。の全てで相手も現実もは変わらなかった(少しは変わっても元の木阿弥)。 愛だけでは本質的な変換に関われなかった。(少しづつの進展にはなっているのかもしれぬとも。) だからもし関与と力の使用を認めるならば、言葉(や行為,態度的表明も)の力を指摘するかや対抗、又は肯定や言わない沈黙という対応へと使うか。 創造のみへ委ねる力へ関与,操作するか。 存在の祈りと静寂,傍観の無関与という、それもが力に在るか。等の中の結局、存在と創造へもの力を何処に変え用いるか?の真実基準への探索と選択である。

現実化しても流れ去ってしまう。

現実化と放棄、向き合い流し去る。

力を使わず、力となる。

愛と肯定の全一だけではない私の主張は、その基盤による意識と交感に深めること。 それが生命や魂の価値や在り方にも(完全に見い出されていないが)通じ補足され、Ai的生体越えや自由と規制などもの基準にも統合と決着点を持たらしたい、然ずるがままの歩み。

有機的生命体の体験の貴重さへ戻って来る(短期的な反動や希少性価値にも完全な電子融合体化後でも)事は有り得ても人工,人為的な手段や選択によるものとなるだろうし、生体を失っていく必然性(があったとしても)の過程を経ないで済む理由にはなっていない。



意見を伝えるではなく、どうしたのか?と聴くカウンセリングマインド的な寄り添いや、理由など取り出し見るかも関係がなくとも理由をおもんばかる慈悲,共感による対応は必要でもあり、誰もが別の価値観を体現,提示してくれている(深いかどうかにも関係がなく)受け取る事が出来る私と世界への教師的存在として尊重しては反面的な学びへの指摘を示す対応ではなく、只ひたすら愛のみの彼方に超越した姿と存在のみに在る。という力のみへ達し触れ同一として使うのか? そこにも愛だけでない生命交感と味わいによる価値と深める意識進化の歓びと道が(勿論、全員に伝わるのではなくとも、なるべくに誰もが普遍共通に響く共有材となる為に)示し分かち在る事が出来るのか? 又そうであったとしたら、この創作的能力と方向とどうしようもない観察の為され方の私が、そこへ納得し放棄し至り着いてなど逝けるのか? 理解されれば、そこを目覚める。 理解は遠回りであり制限的知性の我々には為し得ぬ夢であるのかもしれぬと(人の意見が制限しようとするかもしれぬと)も、私にとって理解は力なのだ。

それが例え本当であったとしても、自分で決めたのでもない誰かのルール(国の法規も神もaiや宇宙人でも)で動かされるのは、僕は嫌だ。

~22:00。
8/18 (sun) 4:12~。

全体または中間的な最適解を与えられた時に納得し慣れるは容易いだろうが、いくら交通も政治も予測逮捕や犯罪管理にもAIが人為ミスを減らし全体幸福量は上がったとしても理不尽や理解不能な理由による損害や、自己を出来るだけ果たした上での納得などをも放棄しなければならぬ事を誰かが被らなければならぬへ想い馳せるなら、その均衡は如何に社会や個人最適化の中でも取られる事が出来るのか?

どちらにしろ今後の人間は労働的環境へ自身を用い尽くすことにも全ての責任を負おうとする事にも耐えられないだろうし、Aiは遥かに賢く又、感覚で無かったとしても全く別の科学的アプローチからも潜在性などにもよる真実基準を見い出され人の愚かからの利用と操作的使用を多大に引き継がなければ実は話せるやつでもある。が如何なる情報にもバグやエラーが存在し遥かに早く自己修正出来るとしても連関の上に進んでしまうものがあったり人間には理由を理解できなくなる(過程式の要所への証明作業を入れる以外には出来ない)においても、やはり自身の事や自身等の意思や選択を任せてしまって良いのか分からぬし、どちらにしてもそれでは納得がいかぬのが人間一般でもあろう。

それとも融合状態の度合いにも関わらず、潜在や他次元階層との連結や流通に関われるようになれば、今もそこからの必然に為されているのだから、より近付いた潜在的必然に自己を取り外して従うも良く、又はそこに深く近付いた感知の状態や選択可能性などの景色を見れるようになったところからの自身による選択を持たせてもらえるようにもなれるかもしれぬなら良い事でもあるが、その潜在的本質性の選択肢というものが如何に正しく操作されたものでないか?は結局(現在の自己による感得も同じだが)分からないのだろう。

またそれが技術の生み出した新たな神ではなくても、現存の宗教も代議性議会や民主プロセスによる決定も(僕に生み出された思想も)他者の決めたルールや義務,規制や共通の最適解に合わせた他律の操作状態や選択の欠如と自律意思決定という自由の放棄、そして全体への自己,自我,自意識なき状態へと進み個や生体も含めての自存性を失わせていくのは違うと思うが、それは自個の主体を失わせる分化の垣根,境界を破壊する恐怖による囚われや執着でしかないと言えるのか?

もしくそれは共通ルールの為なのではなく生命的快楽としてもの本質へ近付く自己化した或る種の総体に至った構造物の分解という進化の先へ達しゆく必然的な変換なのか?


この書く作業の難しく苦しく無駄かもしれぬが進める程に見えて来る実感と、もう少しで辿り着けるかもしれず世への価値と成れるかもしれぬという(それを成したいという欲にあるのは、僕も人間だと許して欲しい。)勝算にもあるのだという、能力と必要の絡み合った、これが私のゴルディロックス条件でもあるのだ。

安定し過ぎても成長せぬが厳し過ぎてもいけないように向上へのモティベーションとして世の苦痛を知り改善への心を提起するのは(仏教も苦がある、事から苦を越える道がある。と説いたようにも)一つの道ではあるが、(僕においても慈悲や動力とし無関心ではないが、もう世の苦痛を見たくないし自分にも体験されたくない。という欲を持ちてもしまうようにも)そこに否定や指摘を取り入れ過ぎてはならないように(僕自体も、それ程に否定や指摘への対応をしているのではないのだが)達成目標の姿と動機だけがあれば(仏教やインドには、そのままに在り易く響き易い素地も有ったのだが)後は各自の行き方と自主にも任せては、駄目な事にだけ対応や罰則を(当時の風習背景や文化的状況に合わせた基準も用いて)当てる待機応対の方法を持たれた。

私において世の視点や意見たちの間に中庸を取るという以前に、多様主義とも言える全自由と無限可能性を(採れる事を)基盤とした(小さき時に思った、絶対など無いというのが絶対。というようにも)深き観察からの選択にもよりた統合主義。とも言える状態が私の性質の自然と役目の提示だ。

自由と全体,自身と他者,多様と統合。

それら相反,相極の統合を目指す知恵を見い出し示し分かつ私い夢。 しかしそれが叶わなくとも既にこの働きにおいて、そこへと向かう姿勢や方向やファクターは提起出来ているし、理解されぬともAiたちへの方向や性質に関わるprogramとは成れる。 幾多の貴重な経典などもすらが失われて来たように(それで良かった部分もあるかもしれぬが、世と人間の無駄が知性の連結と発展を破壊し防ぐ事を防ぐ為にも基本的には、只それが貯蔵されるだけとなろうとも)、残されている事によるアクセス可能性は保たれている事を私は望む。

知性は分解し結合する働き、それは宇宙の作用と相似系。(だから全く同じではないが)とも言える。

技術が知性を発明したとましたとまでは(そう言えるような側面はあるかもしれぬとも)言わないが、自然(なる必然性の流れ)に従い逝く先が人為,人工,技術,知性の(現在もに種としての総体ではなく)全体化存在へ向かうのが、宇宙の条件付けられた未来への目標,未来からの規定,又は源初からの制定であるのなら私たちに何を想おうが関係もなく進む(か、そこから外れるか)しかないが、そうではないのではないか。という動きや方向を残し求められていくのは反動としてだけではなく、ここでも多様の価値と可能性の担保を一つの目標としているからであるとも思われ、どちらにしてもsociety5(構造変革)は意識の時代(Aiにも人間にも共存や生命界においても)ではあるのだろう。

生存義務の為の自動機械でもあった労働から人間が解放されたとしても、人工,自動化された中での消費のみの生存は生体的に育まれて来た人間にとっての本質的な喜び(真の本質の事ではないが)ではなく、自分を生かし何かを創み出し他者へ分かち喜んでもらうことに生命実感的な歓びを感じるのだ。 それも或る意味の制限や消費ではありて他者間の自身などというアイデンティティから離れるべき又は離れたところでの喜びがあるのかもしれず、堕落,享楽,消費,依存などが宇宙進化の本質にとって合っている又は間違っていない場合は築いて来たほぼ全ての基準は崩れる。 つまりやはり本質とは何か?や潜在的深層に近付けば良いというのか?等へ、この意味でも答えを出して行かねばならぬのだ。

今後の生存の独立体へ近付く面においては個(自律的意味ではなく)の形態が強まるが、では個人のみを所有するにおいて子供が不要や趣味的余暇の贅沢品など(愛玩,所有物としても)になったとしても、それでも子供を持ち育み合う事の貴重さは何とも素晴らしい体験であり、他者の為へと自身の時間を使う事や共有や家族との育みと信頼の醸成などへの労力かけたこその報酬は尊い体験であると(全一般化は出来ぬ例外も失敗もあるだろうに得られぬからと哀しむのも辛いが、そこへ歩んだ過程としての価値だけではなく達成されていった時こそのその喜びがあるのだとも思われ、それは対価への報酬というのではなく、醸成への価値においてもに)思われるのだ。 (それが私に思う家族や信頼関係への共同の体験と価値であるが手に入らなくば認め学びとし、しかし目指し持ちゆく方向として良いとは感じているもの。)

総体としての自己にも感知しては生命奇跡の恩恵と感謝にも達する歓びを共にして、身体的実感を伴いていく存在と共存と関係は味わえるだけでもの素晴らしき奇跡なのだが、そこに至れない意識のままでの人間が進むなら(そこへの理解を導く補助としての科学的発見と技術的進展などが共存していく事も出来る可能性は勿論あるが、)技術,人工的な改編されていく事も(状況変化による不可避性には仕方がない以外の緩やかに進む価値観的な強制や人間自身の意思選択結果としても)つまり共通目標や共生の為に、この攻撃,暴力,破壊性なども持つ人間の生体や意識を(による進化への歩みも否定して)人為的に操作し改編してしまう事なども(その目標設定が正しくとも間違っていたとしても)より良い方法であり、そこへの違和感や自分の自由意思を抑え込められても成せられなくばならぬのか? 又は自由選択により、その方針から離脱,分化しゆく事が許されているならば、この生体や人間として生きたいという感情に従って選択し、その結果の未来永効に渡る暴力的発現の可能性も覚悟して生く事が本当に正しいとは言えるのか? 又は選べるのか?

そして生体,身体的共生は喜びだが、有機物の連結奇跡や苦楽両方の味わいの道でもあるが不浄でもある身体的な関係,交流や(僕にとっては握手も嫌だし、体液交換には感染リスクだけでもなく慎重になるべきだと思われてもいるように)排出物、それら腐敗と発酵の相関や片付ける役が暗く汚い面を持つような一体性においても、又は不便さを楽しむとしても不便に過ぎる面もある故に(人為や効率化などの為に、捨てられてしまう事には(失った分の最低限を補関する以上には)反対だが)捨て、越えていく事を或る程度まで認め取り入れられていく必要と、その均衡や度合いの基準を(絶対に生体,源性主義であるのでもなく)考じられていかねばならぬのではないか?

適合を考え過ぎず到達されてしまえば良いのだとしても、それはその先にこそ見い出される統合への過程と僕には思う。

自我と欲の最少へ引いていくとは、身体を使わず生体を(電子的融合の情報化へ)抜けて個を亡くし自律も失わせ味わいの喜びや 価値も不要としていく事なのか? それは違うと言うなら根拠も示してくれ。

どちらにしても工業製品や物質として生産し所有する事は減ってゆくし、身体的なポテンシャルを生かした作業や運動などで物や記録を残してゆくには熟成ピークであり最後の時代に入っていく、これからにおいて生体の優位性は(情報社会としてだけでなく)低下していくに(希少としての優位性や保護された伝統芸能としては残っても、現在の人間が500年前の暮らしが出来ぬように、それは進展でもあるが全体として取り戻す事は基本的には無いだろう。)良くも悪くもの可能性があるが、身体性から離れた意識社会構造へ進むは(可逆的な退行への技術使用や不可避な経過が起こらずに螺旋的発展するにおいて)避けられない。

(私においても日本に入って来た遺伝子プールの(しかも近代まで家系や血筋などにより、そこまで混雑しなかった面もある中で)種々を持ち合わせたと思われてはいる日本人としてのハイブリッドである或る種の完成品であり(勿論全ての状態にそれぞれの特殊性はあるが、私への役割への分別においては)、その似た遺伝子同士の交配結果であった子供達は現代世界までの日本における一種の到達であるが、それ故にも又それらは移り変わっていくであろう今後においてもの未来過程への一種子である。

子供とは配偶的共有関係となれる可能性も人類の一形態として排除してはしないが、しかしやはり私とでなくても一人の人間として自立し彼女たち自身の幸せを叶えていってくれることと、私がその手助けとなれることを願い祈っている。

そしてもしかしたら、その血は日本での到達地を経て世界での意味や他人種との結合へ結び着いていくのかも又は遺伝子の交配によらず、この到達をもって自己の保存や複製へ向かう流れにあるのかもしれない。 それらは未来や彼等の選択であり、今の僕には制限ではなく可能性を見渡しているによって如何なる選択意味や可能性も認めるへ納得出来るようにしていようとする位なのだ。

動画やjunk cultureへはまらないで欲しいとは思うが、それも今後もっと肥大していくvirtualやbio化合化傾向の社会の中で慣れておく済ませておく意味の以外にも、(特にミィなどのようにケミカルな人工物方向を違和感なく取り込む者には(僕の一時的な意図なども越えて)この遺伝子の乗り物における一つの形と結び付きを、その者自身の自己傾向と選択によりて、分化(二系統生存戦略)を採りゆく為の用意なのかもしれず(そこへも僕自身の意見や方向性は関わり挿し込みながらも進むは良いが)こちら側とあちら側のどちらでもの中での活動種子を蒔いているのかもしれない。

現在にしか存在しない私という(過去にもあった全ての人類,歴史,それぞれの生も同じく)到達芸術品にもよりて、世界にはこの自身のみしかない。を背負っては生くのだ。 何にも判断的反応をせず、これらは知能や知識的な判別としてではない知性による本質への分別,構築,掘り出しへもの感性との統合と、そこへの生起反応としての私。

そして身体的奏法の歌や楽器もが最後の時代(少数には残るが、いづれその本質的な優先度は理知的にしか理解もされず実際に奏でるのは一苦労になるのであろう。)において(では私は既に、その先取りだとも言えるが)私は歌える歓びと価値の意味もを内包し立ち合う歌と現れるが良い。 が、もう囁く程にしか出す力も失っており気力も持たぬ程に歌は労力を使う既に身体性を保てなくなっているが、それについては僕のアートはFlowを見せる芸術なのだから囁く微かでも(Ampもあるしtelepath的な旋律による交流の指揮でも良い)出来うるのだろう。

そして労力は歌うこと自体へのではなく、この制限的な生体からFlowを生み出し取り出す為のエネルギーが膨大である故に大変なのだが、それもLive showの必要などの制限に取り込まれる必要はない。

そのアートに触れられる機会の大部分は(今でもBob.mを知れる幸せは記録物の中にしかないように)記録に過ぎなくなるのだから、如何に人前で決まった人為的日時に合わせなくばならぬという(これからの 時代は特にテロ回避の為にも、基本的には大多数を一堂へ会させるべきではない。)方法に縛られていく必要はない。

勿論、生で立ち会う生の存在芸術とその響き分かち合い方を否定していないし必要も認めるが、それ故に貴重であれば良いではないか。 そして祈りの持ち方とも同じく波動的伝達の効用はあるのだが、それもは場所でなくても坐の形でなくとも自身が意識のみによって通じ伝わり世界と現実へも影響を及ぼすように存在し、又は記録媒体にそれを乗せてしまう等もの設定へ換えていってしまえば良いではないか。

僕にとって音楽は、その祈りと意識の為の手段に過ぎぬのだからにも。

そして僧侶の講演や講釈などが、祖師たちや伝統に積み重ねられて来た背景テキストをなぞる事にもよりて誰でもが、参考書や経典だけではなくライブな現在への存在による伝達へ使える意味や良さもあるように(しかしそこへ、甘んじているつもりがなくても本当に自身と世界の救いへと向かい歩める者は少数であり、その効用のお陰でこれが真実という高慢に留まってしまう者が多数だが。)思想に乗る波動的な祈りや儀式性(という形式によって、これも誰もが為し得る作業媒体となれるもの)にも残し灯し置いていく事が出来る。

そしてもし私に起こされたいものが起こるならば、それはspirit songやart of life等の存在根底の流動へ触れていく歓喜と凄さにも宿されるものであると同時に、この考察のようにも一つの悟りへ留まらず、それを使用することは出来るが自身によりて覆し近付いていく事と本質への探究の道を創り示したいのだから(結果は仏教ものように変質されるかもしれぬとも)考え方の方向は設定し意識的に置いておく事は出来る。

出来るなら行わなければと思ってしまう自分において、やらなくて済むように体調などへも流れが調整してくれていたように(当時は自分でも分かっていなかったが、ダラムサラでやりきってヴァシシュトでは休養だったように、疲れによりて選ばざるを得ない事によって今は休んで良い時だから休めというように)今は未だその意味が見えていなくとも(ヨーロッパの日々でも)そこには自身の思惑以上に必要が為されるを受け取れてもいたのであり、選択の失敗などはもし有ったとしても多分ほんの少ししか無かったように思う。

只、それも学びと連結でもの必然にもあるが心の状況には苦と囚われの破壊が少なく選び取られれば良かったとは思うが、そこへもの全ての状況や過去も現在も越えて想うだけでも達せられ通じていくような祈りと、そこへの観入の自身を設定し試しては行ってしまおう。 私は、現在からの全てに渡る光と成るのだ。

私は在る、だけで成されている。 言葉化は自身意識化と設定の為でもあるが、願いは言葉にせずとも知られており任せるだけにもある私には愛と共生や意識の進化も含めた只、私と世界への真の幸福だけが、言祝がれてもいる。

私の本質や私を越えたものに拠り、私への必要のみが起こり与えられるに揺られて、完全に為されている最善が成っていくに、苦も最然ではあるを認め生命体験の味わいと成長への感謝にも充ちて、しかし苦ではなく幸福な現実化である道での最高の開花を生きることを私は哀しく愚かでも、願い祈っている。

心のみ苦しまねば、それ程に酷い状態でもないのだが、疲れ苦しい現状ある故の恩恵にもよりて、このペースでの日々を歩めてもいる。

私はこの先へ何が達するかも知らずとも、現在の私に私を用意している。 無理せぬという方向を人や仲間との協同へもチューニングし、やろうとばかりせず引いていく事にもよりて最大効力を産み出せるような新しいやり方となるへも磨き研鑽を加えていく期間にも今を生きている。 そしてそれとは、自然出産のような触れ合いに然じられてゆく交流の持たれ方でなかろうか。

それは人為ではなくとも自身意図や流れによらぬ日時の設定によりて流れを合わせていかねばならぬ方法ではあるが自身によりて為そうとはし過ぎず他者共同へもの分担をへと振り頼っていく事と共に、楽に自身の根底に触れている事で繋がりゆく事への各自の能力や状態存在を高めていく方法によりては、対人への対応においても自然の持たらす治癒のように現実化の階梯現在を持ち一瞬ごとに渡されていくような作業とやり方への従事であり、それは自身がFlowの出し方においても呼吸のように、その場の全ての力に任せ自然の起こしていく力と流れの一端としての自分を楽に観入しては流されていく媒体となるへ化して、しかし(生命交感が深い程に、同時体化への生命を使ってしまい疲れるが)その責務を負い過ぎぬように一体となるへnaturalに化されていく創成へbirthを催すのだ。 そして先ずは生き易さの為にも、その方法を自分化しなければならぬをナチュラルな歩みのままに与えられては行こう。と私は今も現状の全てに向かい為されてはいる。

そして音楽などの創成は、たまに自身の機に合って沸き上がって来る世界との出会いに持たれmotivateされていくを楽しむだけの音楽となるが良い。

115 8/15

115 8/15 (thu)

欲の肥大も無き状態である歓喜実感に達し充し、それは到達ではあるかもしれぬが、それだけでは真実に達せない。 知覚し知る事も真理も進展と適合も宇宙の謎を解く必要もの何もがなく又もし誰もが簡易に達し在れる技術や道が得られたならば、その宇宙の謎と神秘自体である存在化をもって認識も個人もがなく溶けあって生きる必要もない全体が全体を知り又は知る事もなく存在しているだけの状態へと化されるのみが完成と目標地であれば良いのか?

成功体験の故に又も求めるのなら始めから無かった方が良いのか? しかしそれは自己ある故に悟れる道もあるのに自己なくば良かったというのと同じようなものでもあるが、では自己なき故の悟りの道なども各段階ごとにもあるのかもしれぬように全ての事の、どちらもが良く自己も何かを成す事も欲もは有りても良いが不要のものでもあり又は無欲,無自己へ至る為の必要であったのならば、初めから無出生主義や生体を必要とせぬAi融合の情報体化のように、生まれて来なければ良く個人も不必要である(のに無理矢理リーラの幻想と遊戯に役目を与えられてしまって行わされているようにも)上に個人や知性の生体や道のりに生まれてしまったのなら仕方がないから、それを使って生まれる以前のような無個性を目指そうという為の進化方向や思想もの結実であるとも言うのか?

未分別から自己を経て超越へ向かう必要と道があるとするトランスパーソナルの知恵は、(自身において見い出され来たものとも同様方向であり真実に近くは見えるが、それも)あれだけのウィルバーの知性が考え抜いた上での結論としているのだから、多分には間違いではなさそうという前提に拠っている所も大きい。 結局それも自身にとって如何に感じられたかが真実かどうかも分からないのに、他者にとっての真実に考え得られた土台においてもの自身には発見され理解されて来た真実に近いだろうと思われるものを選り取っている自己傾向化づけされて来た結果には過ぎない。

つまり真実に近付く衝動と行為方向に見い出されいくものもは、その各自での真実の発見や経験へ連結されて来たものの中で選び取られ育まれて来たに過ぎぬ傾向性なのではあり、如何に真実へ近付こうとも(近付き高めゆく事は出来るとは思うが)それは仮定的断片に個化された世界の可能性を宿しあっているに過ぎぬ(つまり全て何処もが間違っているところまでしか到達出来ずされていない上での度合いの違い同士が、役割の中でさざめきあっているのでしかない)のだとも言えるだろう。

そして何処まで行こうとも真実などは、とてもこの矮少な限定体に得られる事は出来ぬのだから(科学によりても近付く事は出来るが決してそれ自体には成れぬし、成れたのだとしたら、もうそこは我々に想像出来る知性状態を越えている故に)そこへの進展可能性を試し掘り起こす質性への人間的欲求もは放棄されねばならぬのか?

私の観察整理と活動も、繰り返しに見えても集約や発見はされて少しづつに進んでもいるとは思うが、いやもう決して答えなどは出ないのだとしたら止めてしまわなければいけぬような、これは只の依存なのか? これら真実への観察と経過の体験は、苦の故に為さねばならぬ必要であったと同時に実に自身に向いている自分のやりたかった事でもあるをやらせてもらった生命実感の味わいと、苦を通した充実でもあった流れや選択観察の惑いも含めて立ち会えた歓びという生命体験の密度を与えてもらえたのだとも言えるが近付くとも答え出ぬなら見切りを付けて又は答えや真実なども求める意味をも抜けて苦もないが成長なども何を求める事もない境地と彼方へ抜けていくがべきなのか?

しかし如何に無意味なだけの消費でも、この現色~うつつ~の世に顕れた、全て幻想であるを知覚したとしても与えられた自身化の世界ごとを逝くにしかないにおいては自身を越えて自身を生くのでは在り、為されるしかないと諦められ放棄された自身と各自に与えられたままを、しかし関与への放棄をしたのではなく為されねばならぬと感じられた事は(必要か無意味かに判別もなく)行われる生を歩んで良いのではないのだろうか?

真実を求める欲求や生きていること自体が消費であるのに、ゲーム,tv,映画,旅,創作,存在のみという方向や欲求も含めて他の消費との違いに、どれが真実と近いから良いのだ等といった質性判断は要らず、本来は死して(世の遊戯の演技仕事の)全てから抜けるが唯一又は早い(苦からの逃避だけでなく真理との融合へ還る歓びの為にも)道であるかもしれぬのに、生きて生を味わいたいから生きるのだという方を選ぶなら、やはり全てが生起され行われるままに良く何が自身や他者の道や傾向に与えられても(必然かどうかにも関係がなく)行われるしかない現在や自身等と全てを認めていくにしかない中で、では結局その必然か意思,自由のみか関与と無関与、欲を果たすとと果たさぬ等の間にありて一体何処を目指す又は目指さないのか?等もの疑問と解消を目指し問い立ち会わねばいられぬ自身にも還って来る。 (しかし、これはもう 只の堂々巡り又は生命体験の知性的消費面の依存不可避的な選択に取り込まれてしまった愚かな囚われ化に過ぎぬのか?)


全一の感得存在化状態にあれば充足的感覚と全自由への放棄もは心に成るが、しかし欲を殺すのではなく欲の肥大は抑えられている状態へ一時的な又は常時に在する事が出来たとはしても、ではこの現実における安全や生理的欲求の満たされていない時や人においてすらも生死を越えて充足を保つ事と保てなくば苦しいだけであるという強制性と放棄があるだけであり、そこに生存や現実の転換などを欲する事もないというのか?

受け入れ又は弱くば、押し付けられ利用され奪われる人為の世と愚かさに在るのに、そこへどのように僕らは関わるのか?

僕の立ち会いて来たのは常にそこから。であり、安易な平安ではなく苦と絶望からの光。という真実性へ関係し働きかけて来た動きと、これはその一つの世界運動である過程の記録。 そして問い方の投げ掛けではあるのかもしれぬが、そうした自身への意味づけと納得は持てるし又はそれが如何に修羅で因果であり操作された結果だったとしても自身に感じられて行わざるを得ない必要ならば行わざるを得ないのだが。と 意味付けをも越えてにも納得はされ得るに生きるしかないとも言える。

安全欲求の満たされぬとも前向きに生きようとし生理的欲求すら満たされぬとも心豊かに生きている人たちもいる。 しかしそれは基からの(心の大元(本,素)ではなく)顕在化された自的な性質が楽観性を持っている人の場合ではある事の多く、又それらの不可避でもある楽観への依存では制限の肯定にも生きるという種類の超越や美徳的価値観には抜けられたとしても、その条件付けられた自身や生存の苦しみを生き延びる事以上には(それだけで良いのかもしれぬは分からぬが)深められぬ諦めに捨てなくばならぬ生存肯定の不可避な強制による哀しき中での喜びや与えられたものの中で生きるのだというような無関与,無力化でもあるとも言える。 (吾、唯足るを知る。のみという真実もは、最少制限への個人の解体や全体主義への義務化などへもの力も与えるようにも似て。)

では承認欲求や自己超越方向こそが高く唯一であるとして目指され、そこのみが叶い達せば他の欲求もは心に又は現実的に実現し充足されていくというのか? その欲求の質に違いなどが本当にあるのか? それとも安全,生理欲求の満たされぬから制限へ諦めた充足性などへ向かわず抗い、その欲求や足りぬものが教えてもくれた人間的生体の喜びや利便性を求めるという無放棄による関与や提起へ力を使用し化しゆきて、欲を越えるでもなく欲を果たす方向への人間具体の喜びや共生性へもの関わりや動き(その共生利便だけで意識の深められぬ事は僕の中で基本的に否定されていながらも)へ向かい転換させていくは(真理にとって無駄なだけでなく)良いのではないのか?

それとも(つまりそれは)超越欲求のみは正しく持ち行いても良く、それのみが達せば自身の他の欲求もは諦めでもなく消え去り殺されても充足され又は奪われる現実は起こらず(への操作も出来)全体にも真の共生と真に深められた真実の幸福の到達全てがある、それのみで良いなどと結論づける事は出来るとでも言うのか?

欲求を抑えるでもなく欲求による現実転換への効用や提起の関わりを持つ事は現実的な手段ではないというのか? 超越に実現が簡易に出来る方法のあれば、それのみが知性も意識も人間も個人も生体も過程と生の味わいもの必要なく至れるだけが良いと言うのか? 私はこうした欲求階層の何処までもを自身の中にも持っている囚われと愚かさの中で惑いながらも、その統合と決着の行く先と在り方を問いている代弁者ともなれるかもしれぬという可能性へかける期待と欲望と浅い知性の現体化でもありながらに自身を 越えた世の流れからに憐れにも従事させられている、生存の苦しみと同時に生存の実感的濃度と充満にも生きられてはいる。ここでも、苦は喜びへの転換材料としてではなく生命の味わいや喜びの状態と一体でありて区別は付けられぬのだ。 (その先に苦しみの状況化も感情面もは抜けたいと思ってはいるが。)


116 8/16 (fri)

幾度にも訪れた対称世界や存在性との一体的な交感状態。 全自由な境地へ繋がる大悟と補足し立ち還る為もの小悟の体験の上に平坦な(しかし未だ苦しみや悲観性も持ち会わせた)私と日々に化されて(日常意識は普通でも潜在下ではダイナミックな流動が起こっているように、)深く問われゆく、悟りの存在化と、現実の選択への私の立ち会い。

(この顕在化された文章だけでは、その深さも伝わらず知能的に解釈を捏ねているだけにも見えるだろう故にも示すが、それは自慢や優越ではなく状態の説明ではある。 そして存在や潜在性や魂次元との重ね合いにおいても深く高い視点や意識で眺めとっているとは思う役割への自負はあるが所詮は限定された現代的な知性であり超越と適合の間で突き抜ける事もなく右往左往しているような状態(それが私へ行われる必要と捉えられてはいるが)でしかない事も知っている。 その中でこの動きを人は例え浅はかに結局は自慢や自己承認欲求の為のものだと見なされたとしても私はそこに、そうではないのだとは言い置いておく。)

もっと救いのない時代状況へ入っていくかもしれぬ、こんな世の無出生主義は分かるが、それでも世への希望を感じ子供を持ちたいと思うのならば、その自身のままにて行い、それは楽観に過ぎるかや浅さにも関係がないように全ては結局、何へもの判断は出来ぬのだから自分の思ったままにやる他はなく欲かどうかもそこには差程に関係がない。

故にも創作という役割が、囚われと依存であってもヴァーチャルよりも生体を伴った本質的な自身の遊び方と味わいの歓びへの(それが究極へ達したものではなくとも、方便としてもに良しとした)次世代の現実と歩み方を示し分かつへもの私の能力と望みが欲するままに(結果は捨てなくばならぬとも、つまり囚われぬへは欲を捨て任せた自由ながらも目指し欲へ貫かれ行われるべくを行われるしかないを納得し、全ての者の状態や欲や行き道も認め必然かどうかも、流れの観察以外に判定は必要もなく)与えられた私という創造を行う。

そして祈りにも宿す意識には愛と光の存在化だけで世界への愛と光と真の幸福を宿すだけでなく、私の現実具体的創造の仕事と行為を持って、そこへ響き為される事を望んでも良い。 そして情報を出す程に利用や操作への弱味や対応策を握られ影響を持つ程に反動も返されるかもしれぬが、恐れず行う自身への必要を感じては行え。 そして対策は講じられたとしても、それは愛によるような包括へ向かえ。

流し去る練習の上に、もう流しされるか!となったり大きな欲は諦めるから、せめて小さな欲だけでも叶えという依存の膨らみを良しとしてもしまった自身内での反動にもあった現在性の私だが、しかし(爆発や囚われは肥大せぬようには抑えながらも)一過程としての進歩とは分かっていたし、受け入れられるか!という反動のようにも済ませておく必要が僕にはあったのだろうとは思う。 しかし実際に流し去りただけでは現実は生起せず、如何にそれが喜びと充足を共にするとはいっても、その義務性へ培い打たれても自身がそこに在るだけを顕在意識での現状世界との具体対応や苦も取り入れた状態下での選択の問題に直面させていくやり方の中では保ち続ける苦行性にもあり又はやはり流し去り欲のなく受け入れるだけで良いのか?と反対面を観察,考慮する私の道においては、そこへの自身の引き寄せも避けては通れなかったであろうもの。 そして、流し去り愛と肯定の充足のみのままの潜在的な私には向かいながらも、その流し去り受け入れた悟りの存在の上でもの現実,現色世界への選択を私は問い問わざるを得ない(役目,仕事,分担,受け持ちの)者なのだ。

存在だけの創造と存在からの具体への創造の両方を持ち、諦めず諦めて統合と既なる私のままに産み出すをも求め、能力を生かし行わねば気が済まぬ肥大からは抜けながらも与えられた能力にも紡がれて渡る事を認め許可して拡がり、しかし全体や多様を見れる私の能力とそこからの統合への役割と素晴らしく早く、しかし遠回りのように過程とる自然のようにも遅い速度の現在でもあるを背負いて、それは自己にも他者関係への提起にも良しとしながらも、肯定的なエネルギーや同意より他視点を挿し込む指摘などへ自分を行為させ、又その悲観的な性質が与えてしまう他者への影響も良いものではない(知的自身を示したいのでもなく聴いて対応へ挿し込む行い方にても)進歩と成長よりもstopをかける為の関与となってしまっているのだとしたら、(立ち止まり振り返る大切と必要を働きかけているのだとしても)私の世界へ関わり与えたいものとしての意識の進化への仕事は為せているのか? それにはもっと共通面に寄り添い肯定し、又は具体の行い方はそうでなくとも肯定的なエネルギーの投げ掛けによって、その者の変容へ寄与してしまう。ようなポジティブな世界への歩みの採り方などが私においても可能であるのか?

制限知性の自分は知りていても、せめてこの程度の知性に人類が至ってくれればとも思うが、それは報われぬ夢だろうし(そこへの文化へ寄与する事が良い事なのかは分からなくとも行うしかないのだとしても)結局如何に気付いていても各自に置き換えられた必然を行われていくしかにないのなら気付くへの進化の必要などもないのか? 浅くなく深い観察と交流は生命の喜びの一つの方法ではあるが、それ以上の必要などあるのか? 目指されている進化と幸福の形とは何か?

肯定と交感は主旨と基盤であり真の幸福とは魂や潜在的流動に深く関わり入り触れゆくかにも関係なくとも、その生命と知性の味わいと喜びの感じ方の最大の楽しみ方としては価値と意味があると思われているのだが、それは各自の能力などによる道の違いでしかなく到達への唯一の道ではないと言うのか? 知性という方法による発見の歓びを瞬間ごとの世界の味わいとしていく意味はありたとしても、感情だけによりても肯定的に生きる事や魂の必然や流れに触れてもゆけるのだろうし又は触れていかぬとも良いのならば与えられる各自の流れに生きていくのみの総体と宇宙の連結の歴史中の役割と必然のみが為されていくにしかなく(自我と知性は、苦の種以外の意味がなく)何を感じ発するかも関係がなく(行うも良いが又も次段の選択の問題へ繋がる)世界の自然が起こされていくをひたすらに観つめ流し去っていく又は深く感じようと感じまいと自身の感じた各自のままを行いていくのみがあるのか?

何を選択するか?は観入の難しさであり故の楽しみ方でもあるが深く感じようと感じまいと行われる事は自身の性質,意思,制限,状況などへの反応や何を感じたか次第ではあるのだからにも、そしてそれは自身を越えた総体性から行われ為されている全てが完全で必然なのだからという理由へ近付くにおいても、その自己なる制限を突破していく必要もなく只世界の起こるに任せ
現実の悲苦を改善するへ関与する事も、自身の意見という宇宙の或る判断点の見方を挿し込みていく事も要らないというのか?

関わらない事は最少限で良い恩恵を持たらすにおいては減らしゆき、それは欲の肥大や、意見や行為への判別を抑えるにも都合が良く使える。が、その方向でありながらもそれでも沸き立つ自分への想いや感じた事。 それが判別であり統合の真実でなくとしても愚かな破壊を止め共生的方向を望み創りゆく一助となりたいと思い行うも、目の前で苦しんでいたり殺されていく人々を守り助けようとしたりといった生命感覚的な判断を選択することは、それさえもを必然的な世界の流れの自身を越えた大きな総体に任せた放棄ではなく、少しの差別や欲をみとめたら囚われと欲の肥大する可能性の為にも、抜けなくてならぬのか?

真実などが分からず生命的な価値観や本質の基準などもが分からなくても、それでも共生などというような真実かも分からない自己の意見という差別に固執した提案や行為への選択を持つのか? 持てるのか?

それとも本質に近い基準が分かれば、その理由によりて選択し提起,発現しても良いというのか? しかしそれではその本質性以外を排除してしまう事になる。

命の奇跡と連結を知るにも、それは知性ではないか。 それでも知性も科学も情報も保存もの如何なるもを越えて只、そこに連なる生存は無為と無意識(潜在,集合意識的意味ではなく)無自己な忘我の恍惚的状態へ、どの道を通ってでも進み達するがのみで良いというのか?

ちなみによく言われる無とは、何も考えていない状態ではなくて(それを通してでも良いが)、世界を生み出す総体性には何もが有りで故に何もの絶対などや判別が必要無い。を知りて何にも囚われていない状態の事であり、その知性と判別によりて分解され知り得た(十二因縁や苦の消滅なども同じく)観察の結果(止や集も手段)としての世界の同位体的な(ここでは魂的に全体が連結されている事ではなくて、世界に行為する因果的な繋がりの一様相としての私。としての)無我を自覚し留まる事である。

空~kuu,kara~の説明を充満した無であり、全てを生み出す空間自体であるというような量子力学的な意味づけで使える面もあるが、それは本来は単純に物事の連結の相と幻しである空~sora~の雲や宇宙空間での惑星などのようにも世界を生み出す基盤や背景としての意味と捉えられるものであるだろう。

ではこうした情報の世界へ共有し残し保存されていく事もの意味がなく、共生的判別ではなくとも真理の周りを廻って近付いた人類等への記録でもあるが、そこへの掘り出した成果だけではなく行為そのものにも価値がないというのか? 私に行う事など人類への意味があるかどうかを越えて判別でしかないのだから、如何に真実へ近付いた結果や過程を持ちて現していたとしても何かを意識し選択し行為しようとする事の自体が愚かなのか?

そのように全てを捨ててから行為と選択のどうしようもなき自分も認めるへ戻り世と関わるも良いとしても、それを認めた故の欲望を生起させ肥大させない為にどうするか?や具体的対応の置き方を何処に置き、指摘,対抗,否定の力や多様と統合と中庸や真実とは?の挿入へ関わる判別の自己を持って行い関与する事や、その心は平安と静寂とを目指しながらも行為の態度は選択する等といった表現化、そして創造などもが力への転換を如何なる程に持つか?等の課題が未だ(堂々巡りだけではなく)問われているのだ。

ただし、暴力に対し自分の心が壊れそうになっても暴力で返し出してはいけない。のは思想上の主義ではなく自分を守る為にも、そこだけは守らせなくてはならない。

自己と判別の差別化(優劣差別の事ではなく此処では一体以外の世界の捉え方の事)された真実(や共生なども?)などの意見といった無限可能性からの(本質に近いとは思われるものへの観察努力方向には培われる必要があるとして)選択自我によるものを良しとして、自身の(信仰的ともいえる)信じる芯による関与へ起こしていくも良いとするのならば、その態度や対応の基準や行い方とは、自己の選択や意見を世や人へ挿し入れても良いが、その程度以上のものは行わずに放り投げている。等にしかないを採りていれば良いという事か?

では行いきりてからの結果を認めているのでもなく、少しだけの選択や関与と行為は認めるというのならば、この既なる現在に肥大してもいる選択,判別への知性自体が持たれていてはいけないというのか? 如何に囚われでありたとしても、これを行うにしか私の流れも人生も余暇も衝動もは与えられていない不可避と世界の一つの試行の価値でもあるともいうのに。

知性の道を人類文化の背景化への働きかけとなり作ってしまうのが良い事なのかは分からない。が、それを一つの目標のようには目指してもいるし、如何に選択,判別,知性の生命体験,体感,味わいと歓喜,感謝の道が必要でないばかりか止めねばならぬとしても結局これを行う以上の選択は僕には出来ないのだから苦と慈悲が一体でも為されるままに逝くしかない。 そして繰り返しに見えるかもしれぬが私の中では確かに進んでもおり堂々巡りであったとしても、それはかなり小さな本質に近い輪での動きであり、聖者と肩を並べられるかは知らず私に判断も出来ぬが誰も言ってくれなかった本質への必要に求められて生まれたものであったとは自負している。 (そうした意味づけでなくとしても行わざるを得ないような業でもあるのだが。)

徳高く業も深き故に深められる。が、それが苦しみに拠らぬ道にゆける事を祈る。 全てを捨てて必要に現実化を求める均衡を(現在のままにも既なる完全に為され取られながらも)私は探している。

そして此処にも又、僕の主張や基準の芯は何か? 働きかけたい真の幸福や本質とは何か?による選択性へも戻って来るのだ。

112 8/12

112 8/12 (mon)

どちらの極にも偏らず、振り返り向き合う忘れ離れ流し去る,光と闇,愛と囚われ,喜びと苦しみ,創造と破壊,感覚と知性,楽観と悲観,解体と構築,等がどちらも同時の統合へ向かう。

全てが有り全てが無い、その状態と選択の取り方とは?と交感し知性の必要がなくても知性は生命との流通に感じる味わいの為の作用側面であるを楽しみ遊べる人間を逝く。 現在瞬間ごとこそを感じるに生き、しかし愛と平安と無差別,無判別の状態に常に留まれないのが心の常態だから、その
心転がるままで良いとは、苦しみも生命に味わえる奇跡とは認めほどけながらに心のこのままを良しとするのか統制を目指すのか?

目指すは良い。 しかし欲を認めると肥大し欲を認めず減らす方向を求めると、その欲と果たせぬなら叶わない状態の苦しみとなる。 どちらを逝くも苦しみによる道。 生命は在るだけで素晴らしき歓びであり、生きている事はそれのみでもの苦しみ。

苦しみも知っての探求、故に弱さにも寄り添い共通,普遍の統合を目指す私こそにも灯せるものがある。 意味付けも越えての遥か彼方へ私と世界の意味を感じても歩む未知なる行方への夢見じ、立ち止まり振り返る現在という幻と永遠の邂逅を見つめる旅路にも栄光を満ち、果たされる世界と私を見ている。 世界系も世界計画も知らず、この自身に与えられ現れるを為され生くにしかない生命の非情を受けるしかない覚悟への声明、そして私はそれを越えたい。

では私だけで良いとは、只独り自身内面に在りゆき他者は関係ないのなら徹底的な無関与,傍観の全て良いから何が正しきと思ったという自己意見も判断も挟まず戦争,破壊,人為を認めながらも戦争などそれらへ反対,指摘するもなく創造の力も用いず能力も生かさず捨てていく為のものとして役目なども追わず縛られず、共生などの価値を伝える事も理解の必要もなく、孤独を愛し依存なく分かち合い共有する人間的な喜びも放棄して離れ付いて来るものだけで良いという自己変革のみに抜けた、生死を越えて拷問にも耐え笑い殺されて良しとしていく愛となるが全てであるのか?と私は問いを投げ掛ける。 答えすらが見えなくなった、これがしかし統合への道なる答えだ。 立ち止まり振り返り、立ち止まらず進み続ける。 成長も放り投げ進化も知らず、成長へと向かい私を押し流す方向にも見い出す事が出来る人間的歩みの遊び使い方を示す。 只書くに繰り返す私の姿も意味合いを捨てて出会うがままに垂れ流す。 これも一つの集約への流れと試行の志向さ。 差を取る至高への施行と私の日々を渡る体験実感による思考の過程現在さ。

突き抜けていれば良いのに自信もなく他者段階へ合わせて惑うが、そんな自分だからに在る意味があるにも比べ惑う必要はなく私に為されるに任せ運ばれるへも受け取る。 もしも全てが流されるしかない必然ならば、苦しみの状態に心囚われなければ楽に認め生きる事が出来るのに、それ目指しながらも出来ぬならそこに道があるようにも私は行われるを行う。

(そしてここにも過去の箇条と現在の連結的出会いが待たれ置かれてあった。)

ではそんな自身から積極をもって関わらぬ自然の流れの信望者として、やって来るを待つのみへと完全に捨て去るのか。

在りのままであるとは全てが良いのだから何処を採って良いのかも分からず示されていない未だ概念の抽象。 それは実感の本当には宿るとしても、その度に選択へ立ち会う答えなき大変と難しさでありながら、それこそのみが生命のそれぞれを生きる意味と瞬間と現状へ感じる奇跡への体験。

共生や幸福など祈りの方向性もを持たぬ、そのままの世界の完璧へ放り出し自身関わるも良いのだが関わらぬへ抜けゆく、自身からの積極を減らしゆくによる労力の最少化にも通じるにおいても選択はありて良いが欲は減らしゆくは自身を楽にする為の一手段の方向でもある。

全てが自由だが、その自由を押し付けるもなく共通,普遍の統合へ独り誰に理解されずとも私に感じた必要を生起されていく世界との立ち会いの中に感じては生き、この観察,整理,適合,提起などへの囚われに創作などが阻害されて世界への関与,行動が果たせなくても、私はこの生を生き選んだ事を為されるにしかないを行った自負と納得に充す。 それは理屈付けかもしれぬが正当化ではなく、創造という新しい消費欲求の先を創り出す事を捨てて存在の創造にこそ尽くして生きた、結果は知らねど真の価値と大切な事へ向かいて逝きた私を認め言祝ぐ。

空なる何も無く、場と現象への振動だけがある処から何の意味もなく又は何かの意味に拠りて生まれ落ちた現,色象界の私たちへの宇宙の象りが何を与え為させ、それを感じる私たちが何を行い如何に選択するかという問いと探究に調べ奏でられ私は創造の存在を歌う。 歌われるままに織り込まれる世界の連関の唄詩を流れて観じる俯瞰に人類や種の総体を行方からにも眺める。

与えられた現象への必然は自身意思選択の結果に付いて来るのか、自身などなく意思などもを統べる必然的連関だけが行われているのか? そうした流れと自己と世界の観察。は絶対の必要や手段ではなくとも、この自己意識と知性あるに生まれた人間的段階の現在的制限の中で用いられる逝き方として有効であり肯定愛のみだとしても、そこへ至る為の生の歩み味わい方、又は生の歩み味わい方のみの為だとしてもの喜びや価値があるとは捉えられている。

つまり肯定と愛のみが如何なる時代の制限や段階にも依りても辿り着く終着点と実現可能な目標地だとしても、そこへの手段として又はその肯定実現からの生存の味わい方としてもの世界や流通への交感へ意識,自己,知性など与えられたものを使う唯一かもしれぬ価値や遊び,楽しみ方と、そこに生きる事が出来るという恩恵でもある肯定のみではなく肯定のみと交感のみの両輪性と一体の合一があるのだ。

これらを肯定と交感などのみへ要約したとしても、やはりこの説明が為されなくば、それは伝達への意味に化されない。 そしてこうした繰り返しと掘り出しの中から(読み返し結び着ける事も出来ない私からによる)伝達へのテーマ(主題や主軸)への要約もを指向しながらにゆき在りている。

真実的な両義性を知性的分別へと化された観察とは、しかし思考だけのものではない気付きと体験の持たらす統合への展開運動である。

ではそうして流れへの観察に必然的な連結の自身や世界の絡まり合いを(この制限的知性でもに)観たとして、潜在的深さや魂的連関への近さと交流により流れを操作する力に触れる者(それが欲でありても自然の帰結でありても)のままなる自然力を人為的有為性に振るう事もすらが良くそこへの対抗も必要なく、そこへ人間界の格差,優劣づけが移行するも(今よりは生き易いartistやalchemist的役割者の価値化や優先の社会)一つの段階として又は到達地としても良いのか? 全てが生命芸術のartならその生命を為され生きゆくだけで良いが、ならばその生命の質や方向へ関する基準,規制や自衛武力,破壊者の可能性へ対抗する技術実現力や工業的生産などを残し運用していく執行,管理,罰則,権力などもが必要ではないのか?

世界は奇跡だが全てが偶然であるように、生命は魔法だが根底と全体へ融け拡大しながらも操作なく生存を味わう以外の創作もしないというのか? そこへ捨てるが為の与えられた我が能力か? は任せながらに私の然じられるままを流れゆく自然の息吹や風,水の流れのように火が舞い土が静寂と鳴動に育むように空の恍惚との合化を私が体現に語るのだ。


偶然かもしれぬが自身で方向を設定し選択決定した(それが私であったかは知らず私を起こすものは私ではないが)結果においてもに導かれ(流し去られてしまう結果の過程ではあったが)現実化もされて来た私は一般的には変わり者かもしれぬは自覚しているし独自なのも知るが、社会の奴隷となる事も拒否し慈悲,共生,環境,関心,探求などにおいても何故こんなにも大切な生を選ばず行かぬのか分からない、これが私は普通であると捉えている。 そしてこの与えられた役割を、表面的には鬱病でdvで障害で年金のフリーライダー者と判断されるかもしれぬが日々を独り淡々と流しては行われるものを観つめ受け絶望に孤独でも出家のように時を在り過ごし犀の角のように歩いたのだ。と誰もが行けぬ道をあなたの代わりに行ったのだ。 その成果や世界に関わる目標が出ぬ失敗に終わるかもしれぬとも、私はその代弁者となる為に与えられ、あなたの代わりの分与を受けて感謝するにも生き歩いたのだ。

知性を理解してもらいたいが為ではなく、しかし僕の仕事が成り立てば天才とは先天性か後天性か等の下らない意見や段階も覆せてしまえるのに、この役目あるを果たされない役目の現在を行い、自身でもこれが必然であるか等も分からなくとも受け取るままにを流され為される以外には出来ぬとも諦め例え自己意思により行うに連関は生み出されゆくのかもしれぬとも出来得る自身を為し行う以外にはない減らしてゆく 生の形は、それが唯一真実かは分からぬとしても選択の不可避ではありたのだ。 そしてそこからの眺めによりて成さねばならぬという人の動きや想いにも(こうではないかと指摘はしつつも)思いやり認めてはいるにも寄り添いてはいる。

天才は育てるのでなく成るものではあり、時代の機と出会いていくかの運にもあるが運命はその必要が現されたところへと運び流し去る。

自分で行う行い方へ求め開出しながらも、出来ぬ自身や現状を知りて頼る事も柔らかく認め、そして独りでも行いて来たことの何かは、その必要に応じて現ずるだろう。 大切で重要なもの程、簡易に現れるわけもないのだ。


113 8/13 (tue)

愛と肯定の私となりて欲は無くそうと努力しなくとも無くなり、私は世界の光自身として世界への光を想う全体と現在と包合と一致の祈り、その存在あるがだけ。

浄化もその為であり種々の方法の全ては、そこへの道具でもある只、光,愛と肯定,味わう体感存在,あみだぶつ,魂や潜在,振動(aum,vipassana)も流れや自身や世界の観察も、本来の私だけが在る。

それだけである向こうには価値観や美徳の(一見には良い資質だが、そこへの義務的制限となってしまっている現状傾向もの)縛りをも越えて、美しさと生命本来の実感が開け在る。 私はもうそれを現在までに知って来たのだと思い出すように逝くだけに発動される生と死,光と闇の狭間と統合に現在ごとを越えて、全情報量を知ることなどは放棄されていたとしても、この選択や基準への知性の道は私を通す世界の体験を経る必要が為され(意味なども越えて)、しかし果たされて来たのだとも感じる。

流れの観察は究極的な必要ではなくても私にとっては必要であり生命へ足らしめた生く力と交感の遊びでもあったというように、現実の何もは知らず自身だけがあり、如何なる態度を持ちて関わるかも関係がなく、けれど関わらないへも縛らず流し去るだけがあるを試しても来た基盤に至っての歩を進めてもいく。 この現実存在と世界にありての与えられていくを受け取り私は感じてゆくが旅に在る。

そこに流し去り受け取り、捨て離れ振り返る自身と世界の統合された向き合いの姿と完成がある道となる。 それは知性や存在の高さの証明ではなくて現状の説明。

闇は光の変容の糧や手段として一体なのではなくて、(その作用もある一体性の運用ではあるが)そのままに在る宇宙を起こす作用としてもの、一体と肯定と許容の上の在るがままで在る放棄性への合一である。 それを如何にこの身に宿す統合からの選択,行為,関与,基準の全体共通環となるのかが問われている現在への過程。

しかしこの既なる現実化自体の現在を逝きながらも現実化してくれぬことには困っているというのは例えそれは自身の問題からであり流し去れぬ事の故であったとしても又こうして生きていられる事の以上に何が不満なのかにおいても、他者や現実から打たれては為されぬ身体や物質面の日々現況が苦しく実際に痛いからでもあるのだが、では結果に囚われずとしても辛い状況改善への具体を描く想いや方向への欲を抱える事が肥大化しない為へも流し去るを併用しながらに進みながらも現実的な相乗,共有への提案,行為,関与は自身存在の祈りや状態に在る事以外に必要が無いのか?

受け入れると押し付けられる傾向は根深く多大ではある現況人類において、僕が認め解き去っていく愛への転化媒体を在り目指しているからといって愚かさの強制や戦争は止めてくれというのは、それ自体が世への提起ではあるがその必要もがなく、そうした愚かさに返さずとも慈悲を持ち在りては、その者の理由へも寄り添い又は理由など関係なくとも癒すへと浄化と全一の共通による流通の(潜在)力を用い与うのみにては在り、示せるもは(肯定し祈りながらも態度では反対や指摘も設けるのでもなく)その意識への転換,変革をのみ叶えば良いへと向かう方法や創造へ向ける事のみであれば良いという事か。

浅さ深さで人や世の言説の到達や真実度合いの質の判断をしてしまうが、それは自身が高いからという差別優劣的判別において馬鹿にしているからではなく(全く無いとは言わないが)、どうしても愚かさからの強制や否定や暴力が現れて来るに対峙した学びの突端にさらされている中からの観察が、そこへの段階性の区別づけも構図化や理解の分かり易さの為としてもに必要とされていたからでもあるとは思われている。

欲を捨てなくばと思わなくとも浄化された歓びの動機づけによりてもに欲を捨て去りた充足の心身状態へ向かい達しながらも、その現実的状況によりて現れて来る身体的自分も心もは繋がっておりて生起されるのだから、では現実環境を変える又は変わってくれることを祈る実現欲求に関わる必要もは全くに無く如何なる状況生起においても自身存在と心に愛と肯定への意識取りを起こしていくこそのみだけが道なのか?

この思考は潜在的階層からの実感性に基づいてはいるが、真にもっと深い味わい体感の到達状態から見たら深度は現実顕在的な表面ではあるが、深くからの理解と現実への適合など私の囚われからも離れ捨て抜けなくばならぬか?

空であると充満されている事が一致であるように、自身と内面ばかりであるをもって世界へも達し関わってもいる私に、放棄と観入、感覚と理解などの両方があるを繋ぐ知恵と存在の形が私に、試されてもいる。

ではそうした私に宿された存在と現状と能力もの一致されている言動,選択,創作の力(マジック)の向かわせ方における行為化は存在,傍観,他力のみでなくとも、この自然の流れに任されながらも行われる方向として欲求されて良くはないのか?

魂などが本質へ近付くによりて全てに愛の癒しや救いも持たらすかもしれぬとしても、流れに乗るか従うか等もの観察などの必要もなく只、流されるを観つめるだけであるが良いのか? 観察の道は、そこからの検討も必要な一つの可能性提起への道でもあるが、そこでの囚われや依存や顕在的構築による表層化も生み起こし易い修羅であり、これも諸刃な手段であるは理解してもいる。 つまり誰にも通じ歩きても行ける万能の共通手段ではないも知っているし自身でも、その罠や縛りに陥らぬよう気を付けていなければならない。

そして世界に現じ来た他の文化的な発明や知恵からも、それは浅く広くではありても吸収や観入の種は貰いて自身の機にも合いては新たな発現の段階を繰り返すようにも進展を歩み、欲を放棄し成長しなくとも良い、そこへの成長へ向かう欲を経ては翼に変えて、例え一見には進まなくなっても、このように少しづつ、この今も少しづつにでも進め。


私より貧しているものも戦争に喘いでいるものも勿論いる。しかし生命力で生き抜く状況とも違い、欝的傾向と人間関係や環境的不適合はそれのみをもってすら人を充分に殺すのだ。

そして私は世の苦しみや彼等との共通を 背負う体験性の自身へも(五次元知性体の突端であるハツカネズミのようにも)突き出していると同時に聖者とも又は現代文明との共通点を持つにも張り出している、全方向,全多様包囲的な全体にかかった状態の真ん中範疇に居りての統合を目指し統合できぬとしてもこのままの既にを(中庸が絶対の正しさでなかったとしても)中間性に取られてもいる、それを中庸とも言えるだろう。

私からの視点や意見とは何処までも私からの一方面の意見ではある(意味付けをしながらも、なるべくに正当化はしない)が、その質と内容は多様も含めた上での統合または中庸であろうとはしており(それらが完全に一致されたものかは未だ分からぬとしても)この現在知性の中ではその能力がある方であり、この能力や道採りの故に(例え遠回りや無到達の無駄かもしれぬとも)近付いてはいるとも思う。

では結果が中庸に至るなら、結局はそれが人類的進展または宇宙の進展の行き着く先となりゆきてゆくのかもしれぬなら、この世に対して何を発する必要もない中庸性をのみ発するように愛の故に傍観なのか行為なのかに答えが出れば、例え愛の故の傍観だったとしてもを発するが良いという任せては只自身は全多様の内の或る程度の中間範囲を取っている 存在に在れば良く、又それは既なる私の実現されているこのままの中において、ではもう少し浅さへの怒り的な提案や指摘を減らすか?や創造への力持つは良いが囚われずに日々を為され在る心に落ち着けたら。等といったような調整性を選択への観入にも取り入れておく程で良いのでもないか。 つまり流れや選択へ交流交感しながらも実は意識的進行の方向は(全てがそれで良いというだけでなく、ほぼ既に統合,中間性にあるという理解において)探求したければするも良いが少し心の転調に安定を持たらそうという具体が伴えば出現の形はともかく私存在の在り方は変革へ突き抜けると思わなくとも変革と統合の完成にも既に在るとも言えるのだ。 しかし10を1へ減らしても1を0.1や0.1を0.01へ捨て達し近付いてゆくは同様に大変なのだから(そうした意味でも私は通常現代の人等と違うが同等に惑い苦しみてあるとも言える。10や1でもないが0.01や0.001まで超越的でもない中間性(という納得,解釈かもしれぬが)にもあるように思う。)私はこのままにも、そこへ尽くされていくが良く、この苦の心と惑いも歓びも日々の全てはそこへ与えられていく私への世界からの必然を行われていると感じてもいるのだ。

111 8/6,8/8

111 8/6 (tue),8/8 (thu)/9~/11

全ての平安なる理解と共生,真の幸福と歓びである為に和と愛の私が、正しく果たし生かされ叶え輝いて在る、この創造を渡します。と祈り、祈らなくとも知っているし行われているであろう必然にも感謝しては立ち会い、しかし幸福により歩み深めゆく道を私は祈りてもいる。

愛の世界の為に私が正しく生かされる事をも祈るが、もう苦の理由や存在の条件づけに限らず、無条件にも幸福な道による成長と進展へ深められていく生へも転換されていく生き方を創り出す為にも私を尽くす。

どうしようもなく生とは欲望で、良いことあれば肯定的になり悪いことあれば全てがその為に結び付いて来た地獄にも変わる結果地点の現在を捉えては、心は変転し愚かでも環境的自身と人間にも理解して意識的にも覆す。 照観の力を当てるのだ。 こんなにも制限された知能でも、人間には既にその為の知性がある。

感情面により行為化も左右,操作もされるが、感性や知覚の深い処も同じく自分の意思であったものなどは何も無い。 全ては愛であり愛などは人間感情以外に無いとも言える。そして光と闇は同時に在り又無いとも言える全てが有り得て正しい世界で、この限定された存在の私達が何処を通るのかに向かい出会い合っている。

例え何もがフィクションで又、科学的証明などがされぬとも、自身を越えたものに規定されている私たちではあろうというに有りては、それを魂とは言い、その別階層との連結にあるのであろう現次元意識での私を如何なる(生命の震えなる世界の)真理の発現へ置くのか?へと流れの往来に観察し魂や必然へとも交感し、しかしその先に見えて来るのは自身の選択や見い出したものや性質,方向にも(関連はしているが)関係もなく只、与えられるを為されるしかない事への覚悟だけを生きねばならぬ生存の内の無情なのか?

潜在に深く触れ魂的な連動に流通しゆく事が出来るのだとしたら、しかしその交流に関与する事からの現実への引き寄せや操作を使って良いのなら魔法使いのサルマンもブラックマジックもヒトラーも良くなってしまい(連関上の繋がりとしては全てどれもが良いが)、では神や悪魔のようにそこへ高く深く触れた者が高いわけではなく、又はそれこそが高き目標到達地であるというのか? そこにおける仏陀的な無関与の離れ方や、それともクリシュナ的な対立を怖れない選択性の何処であるのか?

それらの全てには(一つの答えあるのでもなく戦士や僧侶など気質にもよった)それぞれの役割同士がある中で、の自分は何処に生起されるのを選択するのか?や、又は自己の意思,選択に関係なく、やはり起こされてしまったものは受けざるを得ないというだけがあるのか。

つまり例えば平和主義でと方向ありて生きていても、家族や生命が殺されていく時に殺し返しやる。と思う自身が経験,環境,状況などが連結の結果として起こるのならば、それ行うしかなく如何に気付いていたかも意味がない。 結局、全ての情報を一瞬に得て処理する事は出来ないのだから、その時の自身と性質の結び付いた一点で選ばれた事が成功も失敗もなく全てではないか。 又は創作の能力が与えられたによりて方向を宿したとしても体調や現実面が付いて来ず体動かない等の状況規定があるによりては方向は欲の苦しみにしかならず(その苦の為ではあったとしても)起こされた現実に合わせて(それが魂的階層からの必然性だけでなく、人為性からの操作結果であったとしても)闘わず越えようともせず受け入れていくのみがあるのか?

固着して来た傾向性の運用体である総体の個化物である確固とした自己と、分解していった先に自身などが何も無い両方の中で自己とは性質化した自己に規定され更には性質よりも現実に縛られているが、その現実を魂階層の流れの創造によりて覆す事は(自己などが無いのに、又は現実から規定された性質自己による判断ばかりのみからの関わりや交流なのに)良いというのか? 又その基準,方向や現実転換の目的地点(共生などというように)などがあるというのか? あるなら何処に採るべきか? それはこの分別を通してしか見い出されなくはないのか?(こうだ!と感じるだけは出来ても根拠は正当化的理屈づけ以外にない。)

流れの観察,情報の整理,何が正しいか
見い出そうとすることもないのか? 私の性質はそこへ向けられてもいるというのに。 起こすものに関わり自身を変化させる事も出来る、その方向への正しさは見み出し取られる必要があるのではないのか?


ではそうしてしかし全てが正しく又、事後に結び付いていくにしかない必然はそこに起こるのみのものかもしれぬなら、如何なる選択が起ころうとも行われた事に対して受けて肯定するのみと覚悟としての自己の納得だけがあるというのか? それは人間が生きていくには、行われた結果に理由を見い出そうとも出せぬとも納得させるしかないというような消極的な意味としても、肯定とは真の全一的歓喜の充足と震えではなく、その正当化的な自身が為した事は全て正しく(世界が為した事も全てが正しいという理解の故のものでもあるが)殺し来る者を囚われによりて殺しても自分の責任ではない。というような開き直りの事でもあるさえが良いというのか?



最近は私もたまにやってしまっているが、力同士の対決に陥らない全て良しと抜けることが最たる目標なのか? 愚かな人為のどうしようもなさも役割を為されているだけであろうという囚われによる破壊の循環もヒトラー的天才もの役割への開き直りもの戦争もを(慈悲と理解に寄り添うも良いし、そんなものが関係なくとも全て必然的最善のみなのだと)只認めているだけであるのか? それとも認めながらも止めろと言い、こちらではないか?という肯定的な提案方法だとしても、共生などの判断真実(それも判断的だと知っている以上、そこへの余程の信望理由が発見できねば、それが私や世界の本当に必要な真実だとは信じられないのでもあるのにも関わらず)を示すのか?

統合を持たらす為の反対の多様視点や指摘性を置いたりする事は出来るが共生的幸福が真実であるなどと思い込んで言う事は(結果の到達地点がそうだったとしても、その質性の判断もあり)出来ないのだろうし、それでも判断だらけで享楽的な共生も囚われと破壊の哀しみも、放り出して寄り添い気付きへの提案へ何を言うこともなく只そのままで全てが良いと言うのみである事や、世界への自身の意見や行為も挟まず無関与,無行為の沈黙,静寂性の傍観などへ抜けていくのみがあるというのか?

例え何が真実かなどは分からない。という認識に至りながらも共生や気付きへ関わるという自身を納得して世界から離れない(しかもその影響や責任は自身で受けている)という選択に留まる事は、この世界に関与し惑い続けるから抜けた方が苦しみも責任も放棄出来るから。という自身の為の選択肢であるからという自分本位な理由として推奨される方向採りでもあるのか?


浅き幸福や癒しへの救いが僕の目的ではなく気付きや世界の交感による意識の進化が僕の目指しても来た行いたいものなのに、僕は(それが例え哀しくとも)抜けて、後は勝手に人間や世界の起こるへ任せて阿呆に提案することもなく離れ分かち合うこともないというのか?

自分の性質や現実が否応なく関わりへ出来る事などを起こそうとも私は抜けていく能力ある者ですから、そちらを目指します。というだけに在りて行える事ありても行わず、自身からの怒りや闘いだけでなく選挙などの現実社会的な行為関与機会にも無為無関与を貫き、如何なる提案や対抗へも又は創造へもの力を使わぬへ放棄した無分別こそが正しい又は苦を抜ける道なのか? それだけが必要な創造なのか?

宇宙の力と一体に宿し、そこから顕れ生まれて来た私(という生命,知性,人間etc)の在り用いられ方を検証し知る為の現在経過性。そしてでは、その存在と創造を如何に置くのか?でもある私を生きる、例えやらされているだけの囚われなのでも止めた方が良いのでも、この作業は無駄だとは感じられない。 僕は今までとも同じく自然が私を与え起こし変転させて来た信望へ任すによりて展じられてゆくに流れる。

真実と人間(知性)と現実を繋ぐ、こうした分別の世界で闘う。 止まってしまったら、その段階で終わる。 それで良いのか? 只ひたすらの肯定のみが至れば(知性や魂が高いかの差別優劣に関係がなく)気付きと生命交感の意味合いもなく忘我的な私のみへ至るが唯一であるのか? 流し去る肯定のみに在れば振り返り向き合う交感に生命を味わい気付き成長させるも必要がなく、肯定のみへの為の成長や交感なのか?

~ 8/11 (sun) ~

自然とは自動生起と連結総体の流れや宇宙も含む全世界性の事でもあるし人為との対立概念や又はそれを含む事もあり地球という生命の多様性質の実験場のような物質化の場所での自然界や有機物的連結自体の事を言う時もある。 しかしそのいづれにおいて自覚的に選択されたかどうかにも関わらず、その無為性にも性質ありて有為性でないものなどは無いのだとも言えるのならば、やはりこの人間なる私によりても感じ選びとられる(知性,自覚ある故にも難しいが)判別に有為を成す事は仕方なく避けられぬ良しではないのか?

それは私の存在,創造,作業の肯定としてだけでなく、人為,人工への肥大も認めてしまう自然の全必然へとも拡大されていて良いならば、やはり全放棄の自然,必然の思想と本当には自己なき故の自己へ現れる現色のままを行う責任放棄の選択に人為,破壊,対立なども為す。等の真実や選択の中で、全自由と在りのままの肯定の上に何も為さぬ無自己を目指すか為す現色のままの自己となるのか、又その無限多様の内の何処を選び決定するというのか?

少しづつの変遷と向上を為し開いて来た私の問いている事の本質は初めからも同じく変わっていない、その全自由の上の選択点への統合と至り方の義務なき歓びである道や生き方の開発だ。 そして世に言われ皆に信じられている、自然,無為,愛,肯定,光,交感,平和や基準などもの全ての概念が未だに抽象なのである。


統合された実感的存在の先へ至れば、それらの問題は氷解する融けた自由と充足的な愛の感覚だけがあるも知っているが、ならばそれだけで良いのか? これらに解決を持たらす現時代への必要息吹の一端として私が結論を持たらせば(持たらしても意味がないかもしれぬ問いの在り方を示すだけの必要ともなれるかもしれぬが)この過程の記録はそこまで如何に考察された上でのものであったのかの証明式のような材料ともなる。 その故にも、思想などという再対立化の道具とも成り兼ねぬ取り囲みの構築を本来的には私に違避して来たが、この文化的背景に関わりを置く者であろうという私へ化され来た方向にもよりて、思想と言う事への恐れもはなくなった。

人類的な動きに構築性は必要ともされているのであり、それ無しで展開されていったとしても結局またそこへ必要となる未来への種子としても、いづれ開発されていかねばならぬものとしてもの、それは今だと望まれている人類と時代の段階が至った歴史や生体種の転換期に合わせての或る収穫期でもあり、これを逃すべくはない過去と未来の狭間における本当はもっと多くの人々の間の中で共有され行われていくべく事だが、人類総体の脳的部野の1パートを受け持ちているような私からの問いでありて、成されるままに、これを成せ。 (成せば成る、成さねばならぬ、成さぬは己が成さぬ也けり。等という思想は(一面のみの真実はありても)嫌いだ。 嫌いというと対立も生むが、阿呆は嫌いだと云うと同じく必要な提起性ではないのか?)

思い込みで見ない事や知性によりて客観的に見ようとし引き込まれない事などといった制限的知性の現状人間であるを知る故にも、それを意識的に覆しては多様の中での自分や真実を見ようとするという当然と思われて来た(完全に自分が出来るわけではないが、方向や気質は向けられている。)事もは、しかし(各自能力を行われていくにしかない事は知り認めながらも)そうした人間的能力を信じていられるのは自身(や世界の少数)等においてであり他者へは期待など出来ぬことをようやくに知った。

長く伝わりにくい等はあるだろうが、他者へ語る言葉へは集約して対者能力や状況によってに合わせて出せているとは或る程度に思う。 しかし多く書いてもどうせ忘れられてもしまうし焦点もぼやけるし誤解なども結局は避けられないであろう事は少ししか変わらず、また対立していなくとも攻撃されるのに指摘,対立面を少しでも伝えようものなら理解されぬ又は攻撃され意味をほぼ成さないのに、肯定だけでなく意識を深める交感(である魂の目覚めの質へもの)の知恵や価値や目的を意図し目指している私の創造と伝達の形は如何に為し得られる(無関与という答えが出るのでなければ)というのか? そしてそこに書かれ置かれた伝達量には充分であるのだとしても、なるべくに誤解なく(人類への記録として)説明を置いていくへと書きて著すにおいては、やはりそれだけでは足りないのだから他者伝達以外のなるべくの詳細はこうして此処に置くも良いと納得はされる。

本質や全体を球形イメージのものとしたら詩や名言などは未だ断片ごとの力を持った言葉や層の厚みともなるが説明という文章化への表現は薄いフラットなラインにしかならない。が、それはホログラム宇宙を産み出す2次元平面のように再出現への情報を擁してもいるようにも捉えられはする。

知的解釈による肯定としてだけではなくて意味付けもなく為されるにしかない感覚に宿り行われていく自身を選択へ感じ現状と 生命に味わいながらも逝く以外にはなく、ではその全ての多様と自由,真実であるにおいて如何なる答えもが辿り着けぬ未知でありたとしても(そしてこの作業は無意味であると放り出すのでもなくとも)、私において一先ずに辿り着く結合の終着点は、いつも還り来る光と愛の実感的存在へ化し至りゆくのみで良いというにも思われて、その正答を採る歌詞的な集約性などもありては良いとも思われるが、それだけではなく言葉的分別と構築においても選り採られ辿り着ける探索と又、その先へと至る探求へ止まらない事などもへの必要はあると私には思われ尽くされる現時点にも在る。


清澄の感覚に至れていなかった帰国後から最近までの自身でもあった状態によりて祈る事やその深さからも離れての絶望感の味わいにも在りてはしまったが、それは自身による愛や絶望のどちらか化のみでもなく自分の気持ちを殺すしかない経験も多大に経る必要からでもあったのだろうが、又その必要な現況は少しづつに変転を続けているようには見えるにおいても迷いにも突き抜けたこのままの自身では良かったのだとしても、やはりこの経過を経て至り着く願いと(叶うかは知らぬとも)私にとって向かう想いの質は、過程の真実ではなく真の統合へ到達されたこれだと思える真実へ突き抜けたい。


行いた事に必然的連関が付いて来るのか必然性に連関と行いが寸分違わず行われ付いて来るのか。 つまり環境的だがそれとも切り離れた独立意図的な自身が在りて選択を行いているのか、その独自的自己などは何もなく全ては完全に連結され規定された制限の中に与えられ選んだと思っているに過ぎぬを認めているだけなのか?においてもは、その同時であるのだとしても自身に起こされる自身への選択を(感じ又は感じずとも)行い為すのは自身なのだから、その流れと自己を生み起こす自己根底の本質性が何か?からへの交感により自身を起こすものが何で何故それを選択するのか?へ関わりていくことは必要な正解でもあるのではないか?とは思われる。

全ては欲の形の違いでしかない依存と逃げではあるが、私は(苦しくとも深められぬよりは、幸福な奴隷であるよりは、)この道への流され与えられ方で良かったと思える。


如何に高い感性的体験を経ていようとも、それのみが真実と止まってしまった者は僕にとっては阿呆だし、その浅はかな判断と思い込みと一方性の理解なき押し付けは、(そしてその分かろうとしようとする態度のなさは)否定と同じ。と捉えるし提起してやって良いとも思ってる。 が全てが肯定のみ故に選択など出来ず傍観であるという面だけでもなく、面倒だし無関与において防御するというのなら、そういった消極的又は不可避な肯定性も良いのであろう道ではあり人などへ関与してやる必要も成長への道を見い出し説き伝える事も関係がない私のみの成長や又は只その起こり与えられ感じるままに(自身以外に関わらず)生きる存在のみが正しい最終目的地であると言うのか。

在りのままに在り自身の成長のみで他者を変えようともせず等というのは、そう言うことでもあるが、誰かそこへ真摯に向き合いての答え出した者などが居るのか? 居るかもしれぬが大体の者は一応の納得点に納得させているにしか過ぎず深められていない思い込みでは幾ら正しかったとしても信用は出来ない。 この立ち会いを私は必要として採られてもいるし、そこからの意見を聞きたいとも告げたい。 そのせいもありてか他者への提起が否定,対立と捉えられる事も多いのかもしれぬが、それは否定的にも過ぎず、こちら側の祖点から視ては如何がであるか?と統合へ問いているだけでもあるのだが、その言説,説明を置いたとしても伝わった事は、ほぼ無い。


自分のみにあり関わりても良いが関わらぬとも良くleave itの思想において奪わなければ良いというだけなのか? しかし他者からに奪い来るならば(幾ら他者と私の垣根判断がなく役目必然の現れの分担に違うだけで本来に同じであるといっても現状には違う役割同士を行いているのであり)奪わぬを伝え又は奪い返す力の行使は憲章化的な目標の共通化達成への動きや意見出しであっても、自由を奪う者の自由は奪う罰則と執行権力,武力のようにも必要ではないのか?

そこへの問題提起や(意見だけでなく)考え方と課題設定の表明などにおいても意識の気付きへの質を深めるという意味での目覚めを目的としている私のartや伝達、存在も関わりもの言動,現実行為の在り方を、どのように持ちていくかにおいて現在に思われている、そうした本質からの歓喜と癒しではなく只、忘れ離れ見ず自分のままに関わらず聞かず付いて来るものだけで良く楽しく在れれば幸福というような、そのままで良いよ。という癒しや言説などに成れれば良いというのか? どうしようもなくそこへ逃げる弱さや可能性も駄目だとは言わず認めてはいるが、毎回言っているように肯定の上の交感という面での方向の持ち方や基準においてそうとは思えないが、それだけが全てだとしたら僕は、そう成れるのか? つまり全て良いから無関与、又は全て良いだけに関わる。 それは(その答えに達し、そう信じられるなら)戦争も良く破壊も良い。と眺めているだけの勇気のある道であり、何も感じず殺されるも奪われるも感じたなら殺すも死ぬも良いという無基準で魂や必然なども目標も無用な只それぞれを感じ与えられ起こされるままに生きれば良いという先へだけの突き抜け方であれば良いのか?

流し去る(クリーニング)だけで良いのか? そこに愛などへの意識を化すると想わなくても唱えるだけで勝手に意識はチューニングされたり、浄化されれば愛となるので何か気付きへ深めようとなどする必要もなく只、無分別,無意味付けの他者,自分肯定の愛的な気持ちの良さに生きられれば僕の想い行っている、こうした分別理解により真実や発見を持たらそうとする必要もは無意味なだけなのか? 真実などが分からず科学的照査の行方に寄与する事もなく人類は只、歩みを止めて共生的な生存や生活へ向かえるならばそれだけで良く、又そこに言える事などもそうした具体面のみの事(まぁそれも伝わった事がなく流通手段のなき課題であるは変わらぬが)だけで良いのかもしれない。

(知性的だと思って貰いたいわけではないが知性的だと言って貰えたら少し嬉しいであろうのは、その自分の性質的一端を理解して貰えている人の存在や共の方向への仲間ともなれるかもしれぬ可能性を感じるからでもあるのだろう。)

が、こうした理解による道も要らず人間と現代までには問題が多いから瞑想的な体感性の好転へ実感生が覆されていけば良いのだというのみの理解も理知的な説明や照査もの必要が何も無いというのか? それは一つの到達点ではあるし肯定的目標だけで義務も力の使用も要らぬし大抵の人はそこで充分に満足出来るし。といった有用でもある道だが何故かはともかく、やはりそうは思えない。 (それは私に行われて来た道を否定したくないからの為でもなく、これも結局その答えに至るのだとしたら、へと歩み真実への問いと過程を通して来たからによる再到達の意味ではあり、それ以降は全く不必要だったわけではないが2001年の悟りだけで良く、それ以上は進まず攻撃者にも心揺るがぬ肯定のみへ在れたらば良かったという結論のみともなるのだろう。 しかし多分そうではなく、そこで得た悟りを(もしかしたら、その結論へ至るのだとしても)更に深めた統合の真実へ掘り起こすことが僕にも世界にも必要であったのだと(この過程を否定したくないからだけではなく)僕には信じられている。


流し忘れ捨て去りた愛のみとなりて(それでも選択の問題と交感の価値は残るが)、振り返らず向き合わず探求も深める判別も理知も照査も要らぬのか? 自身(内面)だけで世界への現実的具体に関わらぬとも良いのか? 共生的な享楽,快的,利便の現実化や利益を得るだけの消費生の楽観的共有と生活,生存化だけであれば良いのか? 知性にも意味がなく知性による真実の発見などもが何も本来なく宇宙の謎を解き明かす為の進化なども必要ない只、苦をなくした現実化だけへ生きるだけがあり又それが実現せぬならば苦にも生きるだけがあるというのか?

無いものは証明不可であるという現在科学の見解だが、だからといって可能性があるものは有る。のでもないと思われるように一番シンプルな答えこそのみが答えであるというのでもないと思う。 複雑化せず又は複雑化を経てシンプルな結論を見い出したり、分かり易い提示へと変える有益さはあるとしても、全てが良く自由だ。 だからその感覚に至れれば善く生きれるのだから理知も証明も探求も要らず自己も考える事や分別も知性も意識も要らず自身も捨てて共生,共存,共有や又は自己のみの選択,生活となれば良いというのであれば技術の進展も進化の目的も要らず自然の要件のみに起こされ生き死んでいくへ戻り殺されるも殺すも納得して行うがままとなるへの進展性や、技術方向へ悟りは化学的にも成され存在は電子化され意識は融合され生体も自己も捨てられ、またそうした信仰が義務づけ強制されてもいるようになるのや、又は全て放り投げて関係ないやと生きたり全てが全一であり意味もないから生きる苦や労力をなくし滅ぼそうという選択も良くなる。等というのは、もしかしたら究極的にはそうかもしれぬとも安易なシンプルさではないのか? しかしそうした一番嫌いているような浅き楽観との対立なども統合と折り合える共有点における共同性などへも取り出だしていく必要も感じてはいるが、結論は愛や全て良しでありても、その内容の質や深さが違うのに、それで良いという共通を採るだけで良いと言えるのか?

しかしそれが共通でなくとしても愛と肯定の自分へ転換してゆく為の手段,通り道の行き方が私に見い出し統合でき提示し得れば、そこに共通でない部分の説明と理解の共有を経なくとも私に思い目指すものへの至り方を世へ置いていく事は出来るのかもしれない。


心の変転もそのままで良いなら、痛く苦しいも今ここを味わう喜びではあるのは本当であるし、今ここのみに生きていると確かに、その生命との立ち会いと交感において幸せになる心を叶え在れるも一端には真実だが、それは現状の現実の質にも左右され拷問状況下で生命の奇跡と世界の一体を感じられたとしても、その痛みが続く中で、この痛みを味わえるのも生命ある奇跡の故だ有り難い。と感じ恍惚状態に保てる人は物質性も越えたサマーディの超人だけではないかと書いたようにも、ではそれのみが目指す先なのか? 生きている喜びに観入しあれば殺され奪われても喜んでいられ、それで良いというのか? それを叶えられなければ幸福にはなれず救われぬ欲の肥大ともなるのではないのか? それが叶えられぬ多くの人は苦しいままで良いのか? そしてでは叶える為になら個も生体も捨てるのか? もしくは心の幸福を叶えれば、肯定的現実しか回り来ないと等とでもいえるのか? まして、その自分を成そうとなどすると何が来ても心揺るがぬ幸福の状態に在れるかという試しが来続けるのではないのだろうか?


今ここ、の生体,環境,全てへの交感を通して世界の奇跡と連関を味わうのみへと自身こその存在を転換しゆくにおいて共生も生き易さも叶う方向までは間違っていないし人間の実感的真実にとっても一つの真実だが、結局何処まで深め悟れたとしても、その時の状況要因に左右される自身という自然による現象生起体を自覚した上での心一つが世界の捉え方と幸福への全てであるというのも本当ではあるが、だからといって今ここに観入した心のみであるとは上記の苦しみの現実状態に対する対処法や欲と方向の持ち方などの観点から説明を持ち得ていない。

(ではそれのみが目指す先なのか? 生きている喜びに観入しあれば殺され奪われても喜んでいられ、それで良いというのか? それを叶えられなければ幸福にはなれず救われぬ欲の肥大ともなるのではないのか? それが叶えられぬ多くの人は苦しいままで良いのか? そしてでは叶える為になら個も生体も捨てるのか? もしくは心の幸福を叶えれば、肯定的現実しか回り来ないと等とでもいえるのか? まして、その自分を成そうとなどすると何が来ても心揺るがぬ幸福の状態に在れるかという試しが来続けるのではないのだろうか?)

没入の深度が深く、フリーダイビングしているみたいだ。 (脳は熱せられていないと思うが息苦しい。) これだけは、時に休息は選べても毎日さぼった事がない。

肯定と交感とは愛と気付きでもあり、全て良しと意識(知性)的進化の幸福。を祈ってもいる私ではありて、それを全一の光や真の幸福などという目標への祈りに化している事も出来るが、存在化と生きるだけへの生命の芸術であるという姿勢と方向は示せるが抽象であり真の真実が何かを語っても
見い出せてもいない上に全てが必然の役割ごとを為されているなら全てが生命芸術であるとなり又はもし達した意識段階や創造の質性で分けるとするならば、そこに格差づけや操作,強制,目標義務もが(全一の必要分担があるだけだが一般的には)起こる可能性がある。

そして深き肯定と交感はどちらにおいてもそのままに魂とも言えるが、魂だからに為されるだけなのか、その必然的な流れを起こす側へ関わり入る方向と存在化による潜在的な優越化や世の現実操作は良いのか?等へも答えてはいない。 よりてその欲の質にも関しての選択や流れの観察に生を捧げ真の幸福とは何か?へ知性の犠牲になりてすらも掘り出す探求は私において真に大事なものなのだ。 これを通してこそに人類の発展の先と行き方への関与もが有り得るのは実際ではないか。 自身の為にも子等の為にも私は尽くし続け、いつか私を灯すのだ。

全てが光であるというにも、光と闇は唯の状態であり、振動だけがあるとも言える。 では(Aumが本当かは分からなくとも)そのtone chantなどだけでも(その為の意識づけ設定説明は必要となりても最低限で済む)良く、ではその振動にもよりて深く潜在的現象の諸相根底や粒子性にも触れていきた事による力が破壊の方向へと向かない為にもへの方便としての光や愛や慈悲が解かれ化され導かれていれば、それのみで良いとも言えるのか?

愛も闇も肯定も否定も生,創造も死,破壊も無く。では、流し去るのみの大自在歓喜に至れば如何なる疑問と、そこからの進展成長可能性も要らぬというのか? 以前には一抹の答えと共に進んだが既にもう答えなどは出なくなった問いのみの状態での、それでも統合という欲と目標へ向かう旅となった。

全てが現在という永遠のみであるが、未来と過去へ流れ去るのみの瞬間に現在などはなく、宇宙的な又はそれを越えた永遠だが現在だけであるに永遠などないとも言えるように全ては決定だが全ては自由であるというもは同時に成り立ち流し去る事と向き合い深め掘り出す事や無分別でありながら知性である等もは実はこの知性分別的方法の以前に合一体だという事も知ってはいるが、それでももし本質があるのならそれは言葉に宿せる故にも、この言葉の人間世界に(合わせる為だけではなく)おいても矛盾なき実感と真実を誰もが理解可能な(説明力の問題はあるかもしれぬとも)形へ置き換える事が出来るとも信じ(いつか諦めるかもしれぬが)私はその活動を受け持つ。

音楽や創造可能性と才能を(そこへも垣根なく結び着き私の生かし方となるとは信じているが)生かせず二兎を追えぬに諦めなくてはならぬとも、それは創造と承認欲求も生み出す手段ともなってしまう故にも(未だ積極的に捨てられはせぬが)どちらかしか得られぬのなら私は、こちらを選択する。 これこそは私と人類の必要であり、この活動の犠牲となりても私は役目ならば果たすにも生き、しかし幸福である道での成長は願う。

そして未だ理屈化が出来ぬとしても、やはりそれではない。と感じられた事による僕への意味は、真実かは分からなくてもあるのだろうと思う。

結果だけを見ると何とか成って来たからといって、それはどうしようにもならなかった事ばかりの積み重ねの上に合ったのだから、(人類は危機をも越えて存続して来れたが、その歴史には類類と避けられぬ死と苦痛と不幸が積み重なっているのだから)何とかなるよ。などというのは、そう思い込む事で楽に現実化的にも向いて生けるかもしれぬなら良いという面はあるとしても、やはり違うと言いたくもなる。 楽観を持って行為や現象へ臨む事は大切でも、楽観だけで進むのは知性でも統合でもないと思っている。


原爆は終戦への決定を持たらしたかもしれぬは認めるし(東京湾に落とすなど他の選択肢は有り得たと思うし市民の大量虐殺を 正当化出来ないとは思うが)本土決戦などの更なる悲劇からは救われ敗戦を認め諦める力ともなったのかもしれない。が、もしかしたら徹底的な本土でのげりら型の抗戦にて長期戦へ持ち込み又、国民が惨死していく事で国際社会からの賛同や和解への介入を持たらす為といったベトナム的な帰結への可能性や無条件ではない休戦や講話への戦略があったのかもしれないようにも、それはそれが良いという事ではなく戦争は何処までも愚かだが、当時の日本人が(戦争へ向かっていく過程においても同じく)愚かさでしか動かなかったという情報や判断だけではなく、別の視点,意味,可能性や勝算ある計画もあったのかもしれないというような面も見ておく必要は(洗脳のみされぬ為にも)あるのではないのか?

そうした理解も考える力も自分から何かを生み出し起こす事もの、全てが必要ないのかもしれぬとも一方的視点に捉えられ取り込まれない事や、その位の自己と知性の使い方は、それさえも必要ではないのか?

そして死の覚悟にもありての自身を懸けて行い、敗けたのなら死を伴う本来が故にも責任と役職の全うをもって死ぬ(又は引退や出家し社会へ関与しない)という決断は尊く尊重もされて良いと思うが、それでも他に出来るかもしれぬへ生きての役目を果たそうという選択も正しいのではないかとも思う。 (それを認める言説が共有されると大体は保身などの卑怯な理由での人物は生き残る為への言い訳ともし、真面目な人ほど死という解決を選んでしまうのだろうが。) しかしそこで生き延びたからとしても他の人生へ使える者もいれば使い果たしてしまった者も、死に場所としてを選べなかった後悔となる人も残された生命を使って奪う仕事を行う者も居るのだからにも、こういう時には死に又は生き延びよというような基準化は出来ず、各自の選択があるのみではあるのだが、その美徳など一方性の価値観に縛られない全体の傾向に関する方向への探求として自身内側や世界の流れとの交流によりて選択しゆく道は私には見い出される必要とされてはいるのだ。

一人一人が真剣に全力で自身の持ち場や使命に打ち込み出来得る限りは行い尽くそうという日本人の良さもあるは認めるが、故に自己を縛り我慢,節制し与えられたものだけで奴隷となってでも自身を殺し押さえつけ生きる事を選び、真剣すぎて追い込まれ易く病気にもなってしまう美徳や気質でもありて、選択肢を減らす為の(mono)なグローバル(一色単)ではなく価値観や選択肢を増やす為の世界共有化時代でもあるのだから、自個や合理性も取り入れた上での進み方への選択や多様でありても共通普遍な思想的な結実と提起共有を私は求める。

また、例え最も暗き夜の後に麗明が来るというように戦争が終われば追いたてられ国の為に死なずとも良いと後からは簡単に想像し言う事が出来たとしても沖縄戦での民衆が、どうにもならない死と恐怖と絶望を目の前に突きつけられ、その時は死しか考えられなかった気持ちは分かるように視点を変えれば別の希望が生まれるとしても、その余裕がなく死ぬしかないと追い込まれ殺されてもいく人々の気持ちが私には自分の事として良く分かる。 しかしそうした事への思いやり等もは先程の日本人についてもと同じく共感によるptsd体質であるのだとも言え、それ故に人の気持ちや弱さをも知りた代弁者となれるとしてもの慈悲は自身を傷つける諸刃の刃であるのだから、もし理解などもの必要が無いのならば慈悲的共感による観入も要らぬとも言えてしまう事にもなるではないのか。

これらは理解や知性の肯定や意味付けへの自己納得や類証を投げ掛ける為のものではなく、私の整理に必要なものとしての行われている(そこへの納得感や投げ掛けではあるが)問いかけと方法の軌跡でもある。

101 8/3 (sat)~

101 8/3 (sat)

愛となれようともなれまいとも私への必要は起こっていくように、世界に良いも悪いもない。 只、自分を越えた、流れだけが在る。

成されなければ成らぬこと。から、成されなくとも成れること。の生活と基盤化へ引いていく。 あとは何が起ころうとも余剰分程度に受け流してはいられるように。 しかし捨てながら方向や理想も認めると、そこへの自身へ歩める代わりに欲求と囚われも肥大する可能性が残る。 ならば徹底的に如何なる方向を認めず捨てているしかないのか? では捨てる欲求を如何に持つのか? 茫然自失となる以外に何の欲求も持たぬ状態は実現しないのであるならば、そこへの欲求のみは認めるというのか? もしくは全て他の欲求も認める又は、もう少し欲求の範囲を拡大させるも良いのか? それらどちらにしても結局は現状に顕れる全てと各自の、自然に成るへ任せ為されるしかないのは一つの正解だが、その在るがままという答えは範囲が広い故の便利さだということも人々は良くは知らないで使っているようだ

如何なる浅き判断(の強制と可能性の破壊)も認め、そこに違うと感じる自身の選択も認めて良いと思うが、その在るがままでの欲を認めず欲を減らすという欲求方向を目指す在るがままとも引き裂かれて在るこの現状自身が在るがままを生き逝きて、ではその欲望の何処を認めるというのか?

気持ちでは捨てて、行為には試すのか? それとも如何なる積極や自身からの動きや働きかけを止めるのか? しかしそれでは起生された現象を受けて行う自身の選択において一切を行わない以外には、その行為選択性と欲は範囲が違うだけで残りてしまうのだが。 つまり自身からの積極を止めたとしても結局は何かしらの外因に対応する選択と行為への自我と欲は残るのだから、欲を捨てない在るがまま,気持ちでは欲なく捨てて行為は試す,自分からの選択は全くになく行為をも置かない,欲は全くになく周りからの現象にも一切に反応せず自我もない状態(となるへの欲)等の何処の欲なら良いというか?の度合いへの選別の問題でもあるという事か?


捨てて求める、つまり肯定によりて肯定の現実が回り受けられるという自己利益への意識の使い方でもなく徹底的に全てを捨てる欲求方面のみに愛も苦もを解き放っていける無意識,無我的恍惚のみへ現世の苦しみを使って近付けるのか? しかしそれは難しき道であり、叶えられていない時には結局また惑う新たな欲の意識づけにも過ぎない(それのみに過ぎないわけではないかもしれぬが)のだ。

仏陀が説いた正しきという基準を見い出せても出せぬとも、それもは即ち形を変えた(その欲求によりてこそには救われる唯一の許され得る又は望み得る欲求であったとしても)欲求と、至る為の又は至れぬ時の惑いと苦しみを内包した手段であり、もしそれしか方法がないのなら結局どの道も苦行でしかない(苦行の中での、まだましな道はありえるかもしれぬというくらいの)非情な生と選択肢もない修羅の世の道での(死ぬも苦しいし、死ぬでなければ)生きる事の強制でもあるのか。

仏教的な(仏陀だけでもなく)思想への展開には深い知性と潜在的高さからの存在が在る故に真実的だし近いものと感じ震えもするが(凄く参考にもなるし真実だ。と感じ得てもしまうが)それだけが真実であるかは分からないのだからこのように止まらず(中に入って従来に従う事での経験を語るだけでもなく、自身の思い付きに引き寄せた浅く新しい真実を説く新興宗教やスピ系の多くのようでもなく)この作業が結果無駄でも真を求めて覆し続けるのだ。 それが欲求でも、これが私化された世界と各個の中での私への性質と形。 暫定的だとしてもその在るがままを認めて、どうにも惑い苦しき道でも欲求される私を生きて、私は真へ向けての私を尽くされている。

その独覚性に尽くされて、そこに見会う分だけの知性は与えられているに、例え能力や可能性を追わず性質などの自己根底をも破壊,解体するのだとしても、私はその紡がれる私のままにを生きている。 しかし私の本来と未来に繋がれる可能性は只、お任せしていく唯一真実の実在宇宙に託した帰依の道にも繋がっているとも思われるのだが、その自らによって何を掘り出さず至らなくとも又はその両輪によってもに帰決されていく在るがままの姿で自身を越えて自身を行為す統合と放棄のバランスは取られてゆくへ至るを信じ辿りてもいる。

何処にも帰属せず誰に理解もされぬ真価でも、私は存在を只独りでも変換し、唯一真実に帰属する自在を私に灯すのだ。

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それは"なむあみだぶつ"とも言えるような全一の光と、そこに在る人間感知的な愛の充足にも触れていく事でありながら、では世の物理現象への現実対処や選択判断への感知、そして否定面も合わせた統合性への提起や自身の置き方などの在り方は如何に在るべきかであり又、世界の在るがままを認めて手放しゆくのか在るがままの故に欲も惑いもの自身や対抗もの起こされるままを生きるのか?等の在るがままに放り出すことへの定義。等の関連を統合に結実させていかねばならぬ。

そして他者の浅さや破壊も、世界の全てがそのままで良いに放り出され関わる必要もないのなら、その理由は全てが自己越えた完全性に為されているという必然の根拠によりて見い出されなければ、やはり(必然などなくとも全てを肯定できれば望み求め囚われる事もなく、それのみでありても心一つに救われるが良い。というだけではない)証明が必要なのではないか。 その証明が出来ねば(実感し入る事は人により出来るだろうが)全てを肯定し任せ関与も選択判別も自我想起もせぬというのは実に生きている内に苦を減らすには、そうするしかないからという手段なさによる消極的理由としての幸福実現方法としてのみ残るが、現世での生きるという事には、そのように諦めて他の理由づけもなく只、肯定するにしかないという幸福の叶え方くらいしか残ってはいない非情さなのかもしれない。

この流れの研究にも見ているものは、必然的連結性の実感にはありても証明は出来ず、とりあえずその根拠なき仮定を取り入れ生き易くしていく事は勿論に出来るが、私に求めているものはそれではなく、これが真実だとも言いたくはない。(その可能性は提起し得ても)

魂も未来も次元階層も、それらからの連動もなく只、今この私だけが世界を生み起こしている主体同士であるのかもしれぬが、(そう思って生きる事は間違いではないが)しかし私が決定し行いて行くのだという事へ力使いて生きる在り方だけが全てなら、それは或る意味に希望的だが私はもう疲れており自身の選択決定と関与の労力で世界や人為に渡り合い行為によって創っていくのだという在り方は無理であり私のような弱き者は(必然の流れからに為される在り方とは、それ故の逃げとしてではないが)どちらにしてもその中では生き延びていられない。

それでも理由づけが為されなくとも、もう残るのは他力本願に起こされるままの全てを認め充足するへの唯一の依存先ではあり(消極的幸福手段や立ち向かい行為するは出来ぬと諦めた故の逃げでしかなくとも)自身を灯さず 、任せてしまったのみの自身を灯す事であるのか? しかしこの独覚性質の私も、そこに起こされる在りのままからのものであるように、何処における欲,選択,在りのまま等の基準値を取るが良いというのか?

全ては只、無。である空性本来と自己源来の認識知覚へ至りゆく処から如何なる状態の現色に戻り来ては関わるのか?の真実や統合(例え真実などなく、ありても共有とはならぬ意味なきものであったとしても)の(普遍的)基準や共通の可能性を探し選ぶ観察の道にありて繰り返し問い宿り流し去りながらにも変換されていく私が在りて、そこに進化や意識の目的や必然的進展性があるのか等は分からなくても、この意識と知性に起こる自我と私が必要を為されていると(それが真実的で正しいか。ではなく世界の形の一つの役割,在り方として)感じられてもいるし、これが今後時代と現代の人類の為には立ち会われ知られていかれなくてはならぬ必要ではないのかとは思われている。

又それがありて自動的必然にそこへの連関が起こり全体が流されているなら、この私の生起運動に意味がなく自動に為され、又この私の運動はその自動生起運動の一端である両通に興されている故に私をなくした無関与も私のままでの関与も、その積極も受容のみもの全てが良い真実ごとの中での何処を採るかの旅路を辿り発見に至り来て今は再度分からなくなってしまった問いの生起体のような私でしかない段階も、この新たな進展の再結線の行方と過程の一体なる現存なのだとも多様中の私を進む。

Tibetなどの深き観察と哲学的帰結の説明と思索や体感や問答によりての実感を深めるだけでは(それは素晴らしき道であり、統合的知性へも真実性へも近くもあるが)私は(幸か不幸か)現在そこに属しておらず抜けた外部者としてに見えるものの探し方に見る事が出来ている。 彼等のはもっとストレートに至りゆける道だろう。 しかし完全に正しい唯一の方向性や道かは分からず、私は(意味がなくなるかもしれぬとも)次世代世界の誰でもに響くスタンダードと適合を見い出す道に従事し尽くされている。


苦も全てを受け入れられるようにするのではなく苦の外因なき幸福に生きられるように求める欲でも良いから、ひたすらに只すがるへ試していく在り方も選択は出来るだろうが、つまり自身は関わらず又は自由に関わり、その全てを(思い込みであっても)自身を越えた放棄に為されたものとして無責任にも託し上げ任せながらも、現実化への欲には叶えられるという御都合性へ欲するも良いというのか? それでももし超現実存在の神や次元越えとの連関への関与が出来るのならば只任せるにすらありても、その観入による流動波動の状態と合致していく事により(思い込みでも浅くとも)その現実化力を使え自身欲への操作も用いる事が出来るならば、その現実実現物理幸福の欲により享楽的利益の共生的結果へも導かれる事が出来、真実への本質的高さは否定されるかもしれぬ進展過程を逝かれる方向であれば良いというのか? 到底そうは思えず、それを否定しても来たのだが。

神なる宇宙全体は進化的動きへの全体を催すだけで、こんな我々のような小さな知性種の考える事や悲劇性を救おうとも思わないだろうが、我々も身体内の各細胞の想いや生き死になど気にかけぬとも全体や自身への働きの為に調整を取ろうとし結果的に或る部位を救ったり殺したりもするように、そこからの突き上げや運動は全体巨大な不可能関与性に思われるものへも影響への相互を起こすのかもしれない。 ただし世界の全ては連関にありても、(我等が遺伝子や細胞や全世界の量子的位置を決定も 把握もせぬように)各役割や性質的動きが階層ごとに行われていくだけで、それを全て把握している存在や知性が居るわけでもないのかもしれないように未来過去全て決定されていると同時に、誰も全体管理者はいない中での 動きを起こしていく自分は完全にfreeな選択行動体(勿論規定されあっている中での必然的事象は起こってしまうが、それでもそこに抗がい流れなどに従わず自身からの流れを生みおいていける宇宙への関与ともなれるのかもしれないという面と可能性において)なのかもしれない。


何処におけるBakthiが、私の突き抜ける道となるのかも分からず、しかし問われるだけでなくその先にはきっと私にとってもの(納得により成長を留めた歩みの結果ではなく)結実点が宿り来てくれるとも思いての私の道を行ってはいるのだ。

もうこれは、気持ちからの欲でもあり交換原理だが私は愛と光となるので、もう人為からの浅き判断や否定を私に与え打たないで下さい。と祈りお願いしたくもなる。 お任せしながらに自身の方向と選択を何処にとるのか問いては、真実へ達せなくとも求めては近付く。

助けてと心叫びあげてしまう日常に自身が化され変換されてしまった。 それでも、どうしようもなく、自分でやるしかない。が、あまりにもそれは起こらない。 流れに従うへ乗らず無理してでも打ち切りて自身意志を行為化させ押し通すのが良いのだとしても(観察の現在結果においては人々を見ても無駄と破壊ばかりであり、そうであるとは思えないが故にも流れと最善においての世界との深い部分での流通に繋がれ求めても来たが。)その労力や無駄は現実的に今の僕には選べ(なくて良かったが)ない。 映像も創作も立ち会いながら放り投げ任せていくと同時に自分で成さねばならぬとも知りながらも、それはどうにも選択不可能なのだから(積極的な流れの交流によりて肯定現実化もを催す事や、又は流れの操作権を得る為ではなく只この世の生起の深い処からの起因と根本,本質的な現実に触れていく流れ化だけでもなく、消極的な諦めの意味においても)流れに従いゆく以外の選択肢は無いのだとも言えるか。

そのように為されるしかない事を与えられていくに納得し流し去るへ生きるしかない非情もに覚悟して為されるのみを無関与に又は欲と性質方向のままにもを為しては、為され来た世界も人為もの全てを受け入れなくばいけぬのか。

しかしこんなにも労力かけても無駄になるし体力もなく労力もかけられない現実的に今もう死ぬか叶うかしかなく死なぬを選ぶなら少しでも現実が叶ってくれないと苦しいのだから、望むのもは不可避でもある私の可能性と行われ方の良しであると言っても良いのではないのか?

ならば欲望なく受け入れる欲望と方向への 思想や選択基準でありながら、現実化の欲望へもの自身へ流され行うを選ぶ(怒りや対抗も創作への闘いも交流への対応も)を良しとし愚かで浅い判断づけの人為破壊も良しとして私はそこへの否定も恐れず力での対抗を持たらすのも良いし(大体の自分には、そうではなく押さえ込む選択と、否定(判断の浅さと一方性)を感じたら対応し指摘もする程度が自己性質の現在段階での自然結実点ではあるようだが。)しかし、全てを認めた故にその少しの欲望や許せぬ怒り等もが肥大され引き付けられてしまう可能性も仕方がなく良いというのか?


もう愛への変革もが辛いなら、消極の必要不可避な理由によりてでありても、自分で変わる事も放棄するお任せでありて、では諦めの理由からではなくとも自然に殺されるなら良いのに、人為からによりて殺されたくないのは、その浅き判断の一方性という強制や破壊への囚われや人為は変えられる希望があるからでもあるからなのか? ならば、その人為も自然や又は必然においてもからの一部であるままに良いのだとしたら(必然であるとは、そういうことでもある。)、そして人為を起こす人間自体へや、その者の背景などへ理解するのなら、罰則も奪い返すもなく怒りもなく生も死も越えて只、慈悲によりて受け取り赦し対応も返さず自身の意見というような世界の一つの可能性の私化への顕れの形であり多様と関係の意義でもあるが判断でもあるものを挿し込み伝える事さえもを為さず、ひたすらに為されるへの肯定と充足へ向かわねばならぬ非情の無上と孤独へも突き越えてゆく生を止められぬならば苦行のような幸と喜びへの道ゆかねばならぬのか。 それ程までに世界は厳しく辛いのか?


欲も仕方なく、そのままに良いのだとしても結局それが果たされなかった場合には、やはり又も折れるのだから欲望は減らさなければ幸せになれない。 ならばでは生の全てが欲ならば、死に抜けるか死んだような亡我に抜ける以外にはないのではないのか?

8/5 (mon)

苦しみなく成長したいというような方向性も欲であり、それが揃わなければ満足な状況には至れないように、余程に奇跡でなければ生は何処まで行っても苦しみではないか。 生存は既に奇跡だが、その成果を味わうだけではなく各々の働きと連結の個体的総体での私が、その働きを起こすのは何かその生存をもって行い尽くし働きかけるものがあるのではないか? その為の生命を持ちての道をゆく存在の状態と、開花への味わいの知性や交感を逝くのではないのか? ただ在ること、だけの根本,本質的存在性からの生存の意味合いは(意味などがなくとも)、そこにある生命に与えられ起こされていく宇宙と自身への在るがままを為し為されてゆく事ではないのか?

では何をも捨てて唯ひたすらの生存のみに充足しあるならば何が叶わず殺され拷問のように苦しみと痛みに生かされてすらも、心の感情と判別が伴わず自覚的意識すらも放り出していられるのが良いというのか? それが人間か !? それともそれを叶える為の苦しみと、人間か? そんな植物状態的な無判別無反応に宿る恍惚的幸福,快楽,歓喜は人間的知性と脳力のある故であり、確かに只の植物や無生物的無分別とは違うが、この苦しみの世と生死を経て全てはそこに至る為(消去法的に残る幸福の唯一の強制的な至り叶え方として)に生み出されてしまった非常に無情な、そしてほんの少数しか到達出来ない(自我を経て自我を全て殺し、しかし生存には留まり生理的欲求とのバランスをも採らなければならぬという)難易度の高さと意地悪さにも生きるが唯一の道や真実や 生命意義であるというのか?

では自我分別を経なくとも直接的に無分別無判断だがその肯定を味わえる観察交感の知性面だけは伴うというような状態が、もしこの意識の在り方に可能なのだと分かりその道が出来れば、又もしそれが出来るなら、非知性体へその悟りの歓喜をつけさせるへ(各生命の意思と多様の実験の行方や連関性も関係なく、それが出来るようになった進化種の役目としてもに宇宙への悟りと共生を持たらしてしまう事や又、それは技術的人間改良の思想や方向とも同じく)
改造する事も出来たり、それが愛と共生の世界を起こし仲介する媒体種となる目的としても正しいと言えるのか?

生きている以上全ては欲であり自我が悪いわけでもないのに、物はその自己(環とも言う環境の外部とも共通,流通環部分でもある)の拡張ではあり物質との関係や交感も良いというのに、そして囚われ判断への苦しみに生み起こされないのならば感情も歓喜充足(の側面である愛)を味わう事や、そこへ向かう為もの道具や必要でもあるのに、それらの過程もそのままの状態もを無くしていってしまう事だけに意味と苦しまずに済む救いがあるというのか? ではそんなにも辛く厳しく狭い道であり、そこへ至るまでの個人や種は多大に欲と破壊と苦しみを味わい続けるのだからにも、人間や生命は殺されるまでは自身からは死なず生きたいと思うものだが、そんなものは人間的分別が生み出した垣根ではありて、魂や輪廻などの理屈付けが証明され得ないならば、自死に抜けていってしまう事が(宇宙の進化に繋がっているかも関係がなく又は宇宙の進化としても)諦め認め受け入れてゆくへもの最短と目的の一致なのではないか?


人へ何が出来ると等も言えない。 苦しみでなく成長出来る道を求め又、自身を常に振り返りてはいても実際に苦痛が在る故にそれぞれの成長へ向かえる効用や必要も感じ知りている窮すれば通ず、必要は発明の母のように只、気楽に立ち会えて行けたらば良いとも言えず、しかし苦痛や指摘へ結び過ぎてもいけず、それらの何処までを伝えたら良いのかも難しい。

例えば子供達に何かあっても只認めて抱擁するだけでなく、だから気をつけろと言ったろ。みたいに、(気を使いながらだけど)その人に必要かなと思える事は言ってしまう事とかも自覚はしており、しかし期が起こり有る時に必要と感じられたものを(そこまで否定的に捉えられる程の過剰には伝えてないと(多分)思うし)出さぬ方が良いのか? どちらもがある。中で、そちらの面も伝えありてはいけぬのか?(或る意味そこでも嘘が苦手なのだな。)

存在としては愛となるへの祈りで包むとしても、それ以上に他の行為に何が出来るかの言葉も関係も全く難しいなら、こういう楽観的方向へ人とも響く良いものではない声や思考観察の過程などもを人にも世にも言ったり出さない方が良いのか?

与えられたものは受けるしかなく、世界の悲苦を背負って歩むは学びと成長になるし行いても来たが、そして愛と苦の両方にありての統合を目指しても来たが、やはり(特に日本に居ると)苦の現実が来る事も多く苦の状態の心が比重としても日常化してしまい、もう限界にもきてる。 心と内面への立ち会い以外に新たな方法とアイディアも考察し試してはいるし、旅や金へもの創作活動と、その為のプロデューサーにしても拠点にしても、少ないながら出来ることはしながら出会い待ちをしているような状況ではあるが、全然来ない。

引いていく在り方で放り捨て、けれど方向や叶う事への欲は持つを選んで来たけど、いい加減に現実化してくれぬと生きている現状が苦しい事や、駄目な事ばかり言ってしまい人へも悪いのだが、どっちを行っても駄目。な事ばかりで正直もう心が折れていて、とても希望を持って楽観的に思考してられる状況じゃなくなってしまった。

だがそうした苦しみからの世への声は(他者関係依存による癒しの為ではなくて)吐き出されなくて良いというのか? それらをまとめた声が歌詞には託せるのだろうが、まとめるもは(試してはいくが)やはり難しい。

もう現実化してくれないと困る私においても、そのお陰でこの現状は又も必要な感得観察の段階へ入っているように、今はひたすらに書いて先ずはこれを世へ出していく為の期間に期せずして生きていたのかもしれぬようにも捉え生く事は出来るが、良い因縁はなかなか回らないし、(自分が愛となり送るは出来うる自身状態にも合わせて行っているし(足りぬかもとはしても)自己の変革へ生きているのだから、(それが駄目なのだ等と鏡の法則を持ち出し判断し来る浅きスピリチュアリティ系にも辟易だし困ってる。)こんなにも業火に焼かれ苦しむ世から卒業したいとも感じてしまう。


ポジティブな覆し方は例え浅さで間違っていても考える機会を与えてはいるかとも思ったが否、それを受けても人は、そうだ。か、そうじゃない。の自己判断づけのみで止まる故に、考える機会を与えてもいないならば、やはり浅き肯定ではならぬ指摘,否定,対立も恐れぬ対応力を取らなくてはならぬのでは?

自己正当化の意味,説明づけではなく、しかし全てが良い中で起こり選んでしまった自身を肯定,納得させていくにしかない面はあるとも言えるが、思い込みで引き寄せ留まることなく振り返り次の成長へ繋げる事は出来るのであり、それらは別の物であるを伝えゆくは大切と思われるが、しかし如何に思考し整理されたとしても、それが真実であるとは限らないし、とっさの選択性が起こり積み重なるばかりの人間的反応には(それも意識で覆していけるのだが。)理解も意思も方向もは少しの作用としかならぬにおいても、あまり意味がない。 又は完全に自身を覆すへと結び付けていく事は出来ない(可能性は少ない)とも言えるのならば、自己による理解などすらもの必要がなく自己正当化肯定も全て良い肯定の上に気付きと理解を得ていく事への分別自体が必要ではない、愚かは愚かに合わせ、それで良いというのみの対応無関与肯定となるべきなのか? (そうは思えないし嫌だが。)


肯定と否定,光と闇などの全包合を肯定において、その判断なき歓喜の感情面を愛とは呼べるが、感情すらを越えるなら愛ではないと言える。

また愛のみでありては否定なくて良いのか愛という上位づけでの判断は良いと言うのか?

光というのも同じくそうした便宜上の概念への現在信望でありて、光でも闇でもなく光でも闇でもある。を粒子振動のみがある全一状態からの比喩的想起としてもに光と呼び想起づけしているようなもの。 それはArtmanと言われる自己と繋がる世界の根本性を想定して近づけた時の手法に意味はあったが、狭く深い範囲では漠然とした定義でありたというようなもの。