junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

155 10/25

155 10/25~

幸福(物理的)に真の幸福へ深め達する。と同じく、楽に在りては自在に為される私を目指すへ(傾向,性質各自の方向を)設定し私に目指し想うは、私と世界の愛,光,真の幸福,歓び,調和,共生,自由自在,の全てが自然に完全に最高に果たされ生かされ叶えられ輝く生命瞬間ごとへの立ち会いの現在と交感への感謝と充足の(達成方向の)存在へ生きること。

僕において話す能力しかなったならば表現者として社会に認められ、その場を与えられなければ成されにくかった(全く方法が無かったわけではないが)ように、書く事から話せる事へとも向かう現在の過程性は(その結果が本当に出現するかは分からないとしても)僕にとっては良かったようにも(現在地点から見た判断ではあるが)思われる。

たくさんの足りぬところや偏りもあるが、実にバランスの取れた存在へ辿り歩みているようにも見える私の現化体を通して言われたい事とは様々なバランスの統合者性がある中で、これが最高(私への最高、ではあるが)の到達だと言いたいのではなくて互いに絡み合う各自の役割との中で生きているに偏りも含めた自身同士を置いていくという価値や何が統合的で優勢的な人間の姿と到達性であるか等といった人々の判断や思い込みを解く事へ働きかけられると嬉しいとは思う。 そして各自そのままで在るを認めながらもその、そのまま。の質や形として原生的文化の担い手たちの存在性に関し向かいて生きる姿のような自然の価値や人間的善性の方向へも見い出しては本質的な生命使用性の復興にも響き繋げられたらと思いもする。

進化の自己言及性のオートポイエーシスというシステムにも組み込まれたホロン(全体を構成する要素がそれ自体、全体としての構造をもつ場合の、要素,部分としての一つの全体。全体子とも言う。by wiki)としての各部野素子としての我々が在りて、この恒常性(ホメオスタシス)の一環を形成する触媒と機能している。 それを私は、私たちを種子や全体中でのミームや流れと連結の媒介などとも呼ぶ、大いなる流れが全体に一致して動き連めかれ繋がりているにおいての私と全ては一体の運用であり、連動の起こす流れを時間という経過に視てはいるが、その流れさえもなき振動的現象だけが全体にも貫いている。


(以下3段,松岡正剛氏の解説文,)<
動的平衡システムとしての生命系は、入力と出力の流れのなかで持続的に、ゆらぎを解消しながら自己維持するシステムたらんとしている。

生命系の各構成要素は全体を維持するための目的によってそれぞれの位置と機能が示しあわせていると見た。そこには、部分は全体に関与することによってのみ機能する或いは全ての部分は互いの原因とも結果ともなっている。

(エントロピー相転移)
階層が安定しているとき、生成のプロセスの産物そのものが生成プロセスを自己触媒的に調整しうるというのがハイパーサイクルで、ここでは自己複製的な構成素の自己とシステム全体の自己とが重なってきて、そのことが階層分化を促している。 これらの自己組織化理論は、ゆらぎによって新たな秩序の形成がおこるということ、階層は自己生成されているということ、そのようなことが可能になる自己の境界の決定には非平衡開放系という状態が関与しているという見方が有効であることを天下に知らしめた。
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11/1

僕において映し示し出されたい創出とは、存在そのものの生命に映り込んで来る本質的な質のようなもの。 だから僕は自身を撮し、そこに宿る価値を感じさせたいとも思っているのだろう。

熊谷守一(勿論上手さもありてのものだが)の示したものとは、その創造物においてのクオリティによる評価を基に残るか無駄かを判断されるのでもなく誰もが、その者であった存在の質によりて判断,評価されるような芸術の形を生み出したのであったのかもしれない。 (如何なる判断をも持たぬというのではなく、その創作物自体より、それを産み出した者の存在性と質が問われるという事ではあるが。)


年を取る(どの感性にも、その時の価値と貴重さと真実が在る。事において、優先化区別~priority~されるわけではないが)事は、実現出来る手段を備え(しかし技術的な面での意味だけではなく)違う諸相事物を生み出すへもの俯瞰的な本質と思われる視方への高みへ進む経験を深めながらも、子供のような純粋で直感的な洞察の感性もを鍛え率いていられる経過体であるにおいての創作的段階や師事される導きてと成り得ていられる価値も有る。

思いついた自分にとってのアイディアを試す事がクリエイティビティではない。 欲求と本質的感覚に明瞭な垣根が付けられぬ(付けられるかもしれぬが)ように自身想起の追求を全くに否定されるものではないが、やれることはやろうとすると同じく、それは資源や生命の消費的な活動と拡大へ(消費と創作に区別なく一体であるとしても)費やされてしまうどころか、ほぼ本質的なものを生み起こさない現在経過までの人類性に対する方向性への警鐘と提起だ。

何が本質と言えるものであるか、への一つの基準として歴史的な転換の意義が有ったかどうかは(picassoのように)(ある事もあるが)結果でしかなく、それが基準なのでもなく、如何に苦しんだからや熱量というのでもなく(結果的にそこに含まれる事もある)モディやゴッホにも感じたような、その存在の質を数値化する事は出来ない。 又そこでの差別化を進める事は、その存在への正しい対価を得られる為には良くとも優性や優勢的な判断,区別に使用されても良くはない。

血脈的な優性性というのは(dnaが証明したように)(しかしその差別的観点と判断は人間と時代による価値観に制限されたものではあるだろうが、ここでは人生に深められ継承されたものに深められたものは在るという意味で、有るを)認めざるを得ない。故にも文化的に高貴な血筋というのも有りはするのだ。が、だからといって例え優先順位を付ける必要性が有り来たとしても(その時に、文化的,進歩的な素養を優先させるというpriority付けは確かに有効さも有るが、そこだけでは汲み取れない多様の中からの価値はanomalyとして取り込まれる以外には必要ともされず)、排除される大多数の一人一人が持つ人間的感覚の価値は捨てられ遺棄される事が正しいと言える(彼らはそう信じているのかもだが)選択であるのか? それは、それ以外の選択肢を始めから放棄されてしまっているから故の選択肢への彼らが肯定ではないのか?

11/4

情報管理された部分以外に出て来た情報を放置しているのは、陰謀論などとなった方が信憑性を薄らせる効果もがあり又その点と点を結んでも全体を結ぶ決定的証拠にはならないからでもあり、それがあるという事を臭わせ示しておいた方が力への恐れと絶望,無力感を生み出せるによって反抗力を押さえる警告(ブラフ的な面でも)や排除力を生めるからでもあり、(それらは最初からの計画だけでなく結果論への用い方と力側への吸収であったかもしれないが)又は内部者からリークされぬのは、やってる本人たちが(洗脳的教育によりても)正しいと信じているから。だけでもなくその状況自体が、リークされた所で人間社会的な運動や現象化への末端でしかないに終わり、そんな生命かけた結果がタブロイド的情報の一行的な人々の娯楽刺激の一端でしかない(大多数にとっての無関心と関心は情報的消費材でしかなく、それは特別な関心者たちにとっても繋ぐという娯楽作業(そこに意味がないとは言わないが)ではあり、それ以上の力とはならぬが大半以上の常ではある。)無意味さを、結果としても自然に教えぬとも雄弁に物語っているからでもあるのかもしれない。

ではそれらとの対決や否定による提起手段ではなく、直接的利害同士の(幸いな事に、やられたから対抗対処するしかないという状況には(社会や人々の世界から間接的には打たれているが)陥っていない自分と状況の優位条件~advantage condition~を生かして)その部外からの闘いであり、しかし融和的な提起の在り方へ向かう事へ自身の生かし関わり方を見い出してゆく事も出来るのではないか? (それは例えば意識の進展へresourceを用い、破壊によらぬとも進められれば地球には同居しながらの黄金共生時代と誰もがの利益を生み出せるかもしれないというincenriveづけを与えるように)相互と全体の利益への融和,統合的な方向性の提示を持たらす事も(例え政治や発言的な関与の自身性へ基本は置かず、その存在の方向だけで在るに世界へと関与するのだとしても)結果に繋がるかは分からずとも目指し得るようには思う。

しかし彼等が、破壊の故に天国を作り出す為の活動と信じきっていて正義の為の悪を為す役割と使命であると自覚して(その後の栄光もしくは泥を被る,つまり天使へのルシファーの帰還もしくは悪として罰せられること)を分かっていてもの覚悟に行いているのなら誰もそれを否定も判断も排除も(対処も対抗もせずという意味ではない)出来ず、彼等が問答無用に彼等の計画以外のものは殺し奪い操作,管理可能下におけば良いと納得,割り切ってしまいているのならば、そこに為す術もは無いのかもしれず人間的な心への働きかけもは、彼等もが持つ信仰からにとっても意味を持たぬのかもさえしれない。 それでも、そこに如何なる提案としての自身に成り得るのか?は立ち会いゆかれる価値が(結果への意義があろうとなかろうと)在る。

こんな時代でも生き残れる素養を発揮し、自分等を守れるか?へと次世代の種となれる者の自動的な選別へ試されているのかもしれぬという可能性もは有り得てもおり、そこへ金持ちは資金投入し易い事や貧しくとも意識的にそこへの自己努力や資源投下して結果的にパンデミック宇宙線などの遺伝子変異にさらされても生き残れたならば合格というような基準もが(あまり他者へそれを分かち伝播させ、つまりその総量を増やさせないならば良いというようにも)有り得ていないとは言えないのかもしれない。 しかしそれでも、生き延びては次世代種子ともなる意識の進化と生活状態の共生的進展への過程を灯すへの活動や関与や提起へもの私には成りていたい。

そしてその傍観性は私達のみが生き残るのだというような傍観性へ抜けた者たちとは違い、世界への直接的な対決性などからは抜けながらも統合でありながらも且つ共生的相乗の幸福可能性へと(それが本質かも分からず囚われかもしれぬにおいては自身にも問いゆくとしても)向けてゆく生き方としての挿し込むような静かで存在基盤の故からの提案と関与と闘いだ。

愚かで変わらぬ人間というものの全体量を減らさなくても良い状態を想像し目指す事も出来る方向性として提起する事は出来ても、しかしあらゆる全包囲的データや情報の統合と結果が(過程的連関の意味合いではなく結果としても正しい)否応もなく、人類の縮少が必要であると(洗脳性以外の真実として)証明されてしまってもいるのだとしたら如何なる提案もは無意味となる(自分にとってだけでなく伝えようとする他者内での意味合いにおいても)議論または可能性の掘り出しと研鑽もの不可となるのかもしれないならば、共生的過程などを望み判断する小さく愚かな人間的知性の私が既に無意味で対抗力としかなっていないのかもしれぬ私こそが、正義という判断と愚かさの代表でしかないのかもしれぬ。

11/5

しかし私は、自身の真実と自由を願い統合の共通と共有を求める。

救い難い衆生を救う環境,時代,文化的な背景の転換によって、根本は変わらぬとも生命の質に関する時代を進める事は出来るかもしれぬへの希望や可能性の提案は可能なのかもしれぬようにも、それが共生などへの囚われであり正しくないのかもしれぬとも分からぬのだからにも、そこへ資する私を置いていこうとする現生時代の私での関与に在り行為しゆくもが亦良い。 その行為の内容を、存在と愛のみの方向と実現に拠りてもに堀り出し対応し実現しようとしゆくもが良いともするのだ。

その瞬間にしかなかった奇跡に気付いて、それが過ぎ去ってしまったならば又それも良いのだけれども、ではその時すべきものがあるのかに気付こうとはする事。 それを流れに乗るか合うか等とも呼んでいる、その意識での気付き以上にすべき事はない中での、ではその選択や行為(動作だけでなく、そこでの意識の起こり方もである)へもの気付きへの立ち会い方ではあり、(つまりは気付くのみの立ち合いと、その気付きによって何を行うか?においての)主眼は流れに乗り行い繋ぐ事(動作的行為に起こる結果性,それは副次物であって)よりも、単純に世界との交感媒体と化した私存在で在るを生きる事とも言える。

つまり存在に感じ世界に明け渡され流され任され行わずとも生きる事の基盤へ捨てながらも、しかしその感じたままの自身を何ものにも縛られず、生存のみの創造と生存からの創造自在を繋ぐ私へ向かうがのみであり、それは愛の実存化によりては起こる方向と自然の私化された生命の形と世界の奇跡だ。

制限の中での遊びや創作の生かし方などもは(締め切りありてに追われなくばやらぬ人の基本性質のようにも)確かにあるが、人為的構築性の縛りの増大化現在から抜けていく自由を、私は私と全ての生命に求める。 それは自由選択の意義や価値の事ではなく本質統合の方向へ向かい生きる事が価値として在り(各自の道のままに)育まれる生命の、自己最少にも受け取り行い流れながらに自由に感得される自己感覚のみに奪われずとも生きられる最大化の事であり(それは本質の為の自由な現況という意味でさえもなく)最少の充足へ向かい触れて生きる事との同時にのみに在り得る選択,行為,生活,状況と自由の同居の事である現在の私のような生き方(それは仏教的な減らしたからこその、それ以外に道があるかは知れずとも肯定のみになれたらば心の自由と充足は成る。という意味への制限でもなく)を(各自の歩みや性質のままでありてもを)往く状態であるを知りて来た事での説明でもあるのだ。

私はこの生存で在れる事を自身にようやく認められるようになった。 私の真面目さは破壊と壊体を通さなければ至れなかったであろうように、疲れが故に休まねばならぬ状態から、気持ちが良いから休もうと認め在れるような心身状況となれても来たのは病気と制限からによるものでもあった。

苦しみは成長の為の必要ではあるが唯一,絶対の道ではないのかもしれず、しかし共生的状況の現実化による享楽性のままでは真の進歩は制限される新たな制限でも在るのかもしれぬが、ではそこを技術が埋めるようになるとしたらばその変容は如何なる程度のものとして認められ人為的構築性を組み込み生体的連関からの離脱を認めるというのか?

欧州の一部が意識の進んでいるというのも人間の根本が違うのではなく単純に、社会の成熟度としての周りや環境的な因子によるものも大きい(勿論、自個が立ちているかや、自身等で作り上げて来たものの経過の違いや進歩の度合いは有るとはしても)に過ぎない。 その場所の波動的な要素は(長野では良い活動や先進さは受け入れられず後追いの中間的な心地好さのみであり又は続いても、それらも小市民的な繋がりと生活以上には開けず吸収されていくのも、しかし爆発力はないが落ち着いている良さのようにも)それぞれの場所や役割の必然性や多様の分担があるにおいての否定はなく認められているべきであるが、その 各地の性質,波動や多様独自性にありても共通である統合,本質的な意識の開花への方向と生命へ繋がりてゆく事は求められても良い。 それは人間界の諦めと投げ出しと共に捨ててはいない関与性と同じようなものとして育まれた各地の多様の中からの良さを取り出しては伝え繋げる交易のような交流への流通を担う意味と価値でもあるのだろう。

日本人の変容は著しく激しく洗脳的な操作が故のものでもあったが未だ独自性を残してもいる、そこに在るvalueのように退行と進展は同時でもあったのであり地求人となりゆく素養を身にも就けて来たとも言えるのだ。 それは田舎の洗練なき固着性や縛りと素野で和やかな温かみとの両方を知り越境しては共存しても在る私のようにも相反と共存を同時に受けている解体と進歩への過程取りが絶妙に行われて現在に結びついている(保守,懐古性としてでなくて)奇跡の世界の連関結果が私化や現時代化されているを観てはいるのだ。 それは全ての時代と段階にも顕れるものではあろうが、現在此処に結び付いているものが既に大変な奇跡の煌めきであり、流れ去ってしまうのを勿体なく感じるように立ち合う妙智の観察へ生命現在を費やし吐き出しているとも言える現状況化なのだ。

最近の若い者はと言う視点や判断は確かに浅はかな自身等の作り来た状況への保守的反応である部分も大きいが、それだけではなく実際に生命的な本質性や交感能力などでもの経年劣化が起こりている事を感じる事からの警鐘であろう事にも目を向けねばならぬ双方向同時の真実を視い出している視点が問われ発出されていかなければならない。

全体最適解においては正しいかしれぬとも個別最適解においては犠牲にされる現代の不自由性が、しかし個別自由と効率の最大化へ技術が向かうのならば、そこには独存へ繋がりを切られた生存と性質が育まれてもしまう。

では不便さは確かに世界との自身,生体,感覚的な交感と流通を生むが、しかしそれのみが正しいとも僕には思えない中で技術の正しい使い方であると思われるガイドラインと不可侵な規律性が構築されていかねばならぬとしたら、そこには又も自由以外の制限と罰則,武力,管理などによる規制性が生まれてもしまう。

人類の進み得る道は現在から全く正反対の分岐であるが、その方向を選び得るのだとしたらばstar trekは一つの解だ。 しかしAiとの融合が押し留められたとしても環境や状況への適応の生体は変化を避けては通れないであろうとは思うが。 いづれにしろ人類は破壊文明ではなく、その任を受ける事も出来る才能もあるが、そうした方向へ生かし得るのか?への、このようなfictionの力にも(それが本当の未来予想図ではなくとも理想による現在の道呈の為へ)描き示す事は出来るだろう。

11/6
しかし例え黄金(期と呼べるような)文明が起こり得たとしても共同体や文明圏の自衛問題と同じく、その自足や共生が外部からの又は内部からもに侵害されるかもしれぬ可能性があり続けられているのなら、そこに武力,規制力を持たせておく事は、例えその場が共生的でありても周囲世界が破壊や混沌である事へ放っておいて良いのか?等にとっても同じく必要ではないのか?

それは現在の覇権国家的な統治下に置こうとする動きではないとしても、良いものと(という判断だが)思われる達成を他文化と共有する事や破壊を共生へとグローバル化させるユニバーサルな統治機構へと拡げる動きの必要性も認めるものでもあり、逃げただけでは暴力や搾取の力を止められない(最低限に可能な手段ではあるとしても)のだし、追放では破壊者達の共同体や他文明への侵略主義の助長へ力を与えてもしまい兼ねない。 ならば有効なのは管理,執行の武力と、それを背後にした交渉力の担保などでもあり又は罰則の持たせ方などでもあるのだろうが、個人の死や個我が希薄になった世界での個人的選択への責任の持たせ払わせ方などもは希薄化し(支払い義務などによる責任は国家的仕組みが保険的に肩代わりもしてくれる中で)制限力にならぬばかりか、死刑という個我と個に属する記憶の削除や刑務的な奴隷労働という極端さを排除するとしたらば、そこに残る期間による服役などとは現在へ関わる可能性は失われるとしても未来へのタイムマシーンにも過ぎなくなったり(冷凍保存や情報的関わりの禁止によりても、しかし独自生存可能な生活環境下で生きるに慣れていて、しかも人権侵害されぬ状況であるならば)し、ではその更正への動きとして思想強制する事もなく又、自己断片化したprogramの(記憶や継承)ミームを増殖させぬようにし自然的経過を人為管理に抑制する事も等もは、一方からの強制的な執行力(例え、それが間違っていても多数や全体の最適解と思われるものへ個人を抑制させる武力(自体ではなくとも)のような強制力)を是認してしまう方法であるとして完全な方法とは(過渡期の理想状態に寄与したとしても)成り得てはいない。

意識の進化と、そこへの環境的整備,進展が備われば、それだけで自然に触れさせる更正,交感の生命力を取り戻すへ育む事や北欧(スウェーデン)のように柔らかな刑務の方法は自然にも在り得るが(又は決定的な黄金文明への転換などもは得られ得ないと諦めての一旦現在ごとをbetterへ歩まていく実験にしかないのだとはしても)その人間内部に内包された根本を、決して繰り返さぬ状態や絶対非侵害の文明へと徹底的に帰化,帰属させてゆくには不足なのだとは言えよう。

例え経済至上的な主義の原理から、価値が転換されゆきたとしても、それだけで解決されぬものが有る事への考察であり、それは究極の到達点を求め過ぎなのかもしれぬとはしても理想は描き求めなくば、そこへの可能性も示せぬし特に私は自身にしかと理解されているもにでなければ自信を持ちて伝え提案する事などは出来ぬのだ。

与えるばかりではなく罰則を与えたりする文明の方向などもは次の世界の姿への現在岐路においての伝説的な継承方向性に宿りてしまうかもしれぬように、私はこの思考実験によりても見い出されるprincipal的な指針を自身化するへ創り出さなければならぬという(それが本当ではなくても)自負を持ちての世界への立ち会いとなりゆかねばならぬ私に立ちてはいる。 未来の思想を私に宿さねば、それは示し得ぬミームなのだから宇宙的な視点での文明の形を見据えてに拠りての提案となる必要があるのだ。


究極的には肯定主義であるように愛のみの一択ではあるかもしれぬが、それを必然性に任せたままだけのような自然至上主義として人間や生命種の運行や宇宙の2極相反の働きのみへ任せて殺され奪われるも認め居るだけで良いというのか? 自己防御もが無き逃げるのみの文明の姿と破滅的文明種の拡大を阻止する事もなき放り出して(侵害されるかもしれぬ)束の間の現在のみを生味わいて生く事のみが正しいと言うのか? それでも自己と、その共有,共通,共鳴関係者との間だけで流通し高める意識と存在の力だけに在りて向かう事だけが、私等に出来うる事の(行為面でもの)全てであるのか?

又それが例え如何に本質に近かった事へと寄与する手段であったとしても、金儲けや消費材生産への才能はクリエイティヴではないと判断なども出来るのか? 全て能力や性質は与えられた恩恵と役割として為し果たそうとすれば良いというものでもないが、現世界と人類において搾取を基にした又は搾取でなく平等な機会の分配などへと向けた動機でありても、その経済,政治,交渉,デザイン,情報,編集,戦略,実際戦闘への武力や管理etcにおいてもの能力によりて動いている社会の相や各自の才能があるのならば、その組み合わさりと連関における意味合いが進行されてもいくのであり、それらの能力を成そうとさせぬ方向ではなく良い使い方と思われるへ転換させていく事は、(僕の創造を経済的な流通にも乗せるのか?への囚われとしてではなく抜けていながらも)有りても良いようには思われているのだが、それでも経済的原理を全くに利用も価値付けへ力貸す事もなく離れて対価をも得ぬような自存の在り方へと向かうがのみが正しいと等と言え経済的成功に拠る経済以外の価値への提案,転換でさえもがなく、脱した最少自由性の塊となるへばかりへ己を用い使うのだろうか?

生み出したものにより対価を得るのではない社会原理と成りゆけば、しかし貧する者を減らしたとしても、自身を生かす(自身と生存のみによっても生命の価値は尽くしているが)事によりて富める権利や得られる可能性もが潰えてしまう。ならば、その報奨や報酬系を刺激せぬ動機は自己の創造と他者との共有,分配というような依拠へ(それを通した承認,自己確認欲求へとも)依存する事ともなろうにおいては、それをも抜けねばならぬ面からすると不完全なのではあろう。

僕は自身に行われた存在と結果を持って、その他者からの承認面にとってもに人から良い方向に導かれたなと思って貰える意味で、感謝されるような人間になりたい。 つまり承認欲求であるかは分からぬが、(それを外したとしても)陰徳を積むばかりでなく実際的に、あの人は良いものを私や世界へ産み出し与えてくれたと思って貰えるような、実際成果の結果を出せるような人(と、その創造)と成りたいと思うのだ。

それは金でなくても良い動機ではあるが、皆が同様に自身の求める必要にとって自由を開出し最大に生かせるようになれる恩恵を平等に得られ富める事を望んではいる。 その新たな社会原理(原理など必要なくとも人間界には必要とされてもいる)を人間各自の方向性や模索方向へと照らす為にもへの私の提起があり、そこへの答えは必ずしも完全に出されていなければならぬわけでもないのだ。

人間界と、未来への現在地点でもにおける価値を生み出す為に現在の私が何を出来るのか? この立ち会いと観察の活動従事や創作,拠点などの求めと流れの他にも費やす事が出来る、私と適合の流れの用い得る方法などが出ても来るのだろうか。とも時の流れに合いてゆく身を浸してはいる。

本当にそうであるかの現実的結果には関係なく、次世界の方向性種子となってしまうかもしれない自身で在るという自負と責任においても、この真実への考察を続ける。


10/14(月)~今後具体の流れ方vision

市内で民泊,即ち長野区に住まい。
or初めから山の拠点で勝算あれば良いが、先ずはビジネスを軌道に乗せる。

翔ぶ為の着実さと、ここで賭けに負けたら又も全てを失う。 これは人生に3度あるという中での2ndチャンスかもしれない。

山と街を繋ぐ場所と、ずっと思っていた。 その機会が、やっと巡って来た。 民泊の 成長産業で基盤を作る。

不動産は落ち目だろうが、インバウンドは伸びる。 日本が駄目になる可能性もあるが、そうではないかもしれぬし、その時の活動関与の種ともなれる。 今が投資好機だ。 しかし資産の投下量や経済的運営の才能(デザインや広報なども)がなければ、軌道に乗せるも難しいのだが。

これが進むのならば、バイトも旅もせず俺は冬も含めて、これを用意し創るに向かいて、もう始められるも良い。 外国人への何かがしたかったのもあるし友達も呼べる。 しかし物件の流れも待ちながら旅に行ってくるは過ごし易さの過程採りにとってもの選択の自在性でもあるのだろう。

物件は街中候補,2軒は有り。
しかし利益率は(5割~管理委託すると更に)低いので、値段設定を高くしても回転し人が来るような立地(しかも貸主や周囲にも理解あり問題のない)そして、売りとなるような付加価値付けが必要。

融資なら,1.2%/年率として4700y/100万y辺りで、500万の物件を20年,23000y/月でpayする。という事らしいが、山でなら融資ではなく数年を賃貸で払い終えた時点で買い取りと同様となる。という条件設定が効くと良い。

戸隠,飯綱or八ヶ岳エリア(又は北海道)等で山が見え広く開けていて人少なく(後ろは国有林のみのような)安い処、が希望。 且つ、川ありて温泉もあると良い。という条件を設定している。 (peru,nzも良い。)

街中であるのなら、自分等も住み込めると良かったり(部屋数必要)特色としてのwork shopやイベントや飲食もあり、直ぐに過ぎ去ってしまうだけの人との交流でもないco-livingが民泊より良いのかも。 山住まいであればartやashram特化も出来るし掃除も各自にしてもらい作務へのpoint制にしても良いし基本はキャンプ場民泊としておくも良い。が、それだけで経済的基盤が成り立つか?ではある。

物販,work shops,ギャラリー,ライブ,山歩き,(ガイド),学校,馬や陶芸,etcも出来、旅しては仕入れて来ても良く、free boxの着物などは祭りで使用も出来る。


僕等-ルール作りと経営管理
(茶,薪,犬馬),

立丘-(管理費人件費,利益回収率,物件,等を聴く。)

kohji(?)-陶芸,炭,

  • 管理人(予約管理,宣伝,フロント,英語etc,リネン,),
  • 交通(夕方,山へ、午前,街へ),tour,

倫子-インテリア,
母-ガレット,薬膳,シリアル販売,
メグ-oil,
文香-massage,yoga,

等で、皆も繋げる。<リーディング>
1.山民泊-感謝し暮らすには良いが厳しさもあり勧められず移動(流れ去ってしまう)、つまり、その経験や挑戦に納得は出来ても経済基盤出来ず。という事か?

2.街民泊-我欲に見えても奉仕となっている情熱的に動きて扉が開く。

3.南米-社会道徳から反していても行動し、それがないと自分らしく元気で輝き生きられない(美徳への学び)と共に欲しいものが得られ行きたい場所へ辿り着く。

以前の占いでは、
8/8~1ヶ月18日=9/26、拠点。
~2年16日=2021 4/24、創作仕事。

もし9/27のakiから拠点の流れが繋がったのだとしたら、創作仕事の軌道に乗りて経済的心配なくなるまで持ちこたえられれば(経済的に成り立たぬとも)良いが、それは宛てにはならぬ予測でしかない。

流れを見るにも先ず(1.2.は置いておいて)は南米の旅で自身が何を感じ得られるか。であれば良い中で見ていけば良い現状ではある。 (しかしその間、進まないであろう映像の編集作業はどうしたらば良いか?)


102頃,8月前部での、私の暮らし現実と具体のビジョン。

家,エネルギー,薪,創作(動画),
聖者,茶(cafe,サロン)(ws),ライブ,
道場,庭,キャンプ場,(祭り)
馬犬,炭,陶芸,

(遊歩道,公園,アスレチック,
忍者(performance),
学校,(美術館,ギャラリー),
観光tour,送迎,映画ロケ地,
半自給,蕎麦,浴場(温泉),
技術開発(空翔なども)etc..)

体力もなく出来る事も少ないが、これらに繋げられる自身の夢に向けて歩める土台となれる場所に入りたい。

これらテーマをまとめて人にも説目し易くするには?

それはshala宿,庭,キャンプ,聖者,寺,カフェ,自給,コミュニティプレイス,家作り,ws,等の中で何処に主軸を取るか?でもある。

生き延びて創作者としての発信へ向けていくとしても、やはり年金以外にも旅用にも金は必要。 ならば先ずは民泊から?

しかし先ずは居住とアトリエ,cafe,イベント空間,庭,薪林,犬etcからで良く、
聖者,創造,場所作り(とイベント)等との生活が出来るようになっていけば良い。 そしてテント張り放しやゲル借りるなどをキャンプに貸すか始めても良いだろう。

が、ベースとなる家はなくてはなので探しているが、どうせ他の場所へ流れ求めて旅に行ける程の金も体力もないし北海道も屋久島も船などで遠いし余程の流れ来なければ今回は、もう何処かへ求めに行くのではなく最少の範囲(県内)で、そして子供たちと近くで足場固めていたいし(創作の仕事で回るような旅にも今は未だ行けないのだから将来の移住を見据えていくにも)やはり戸隠飯縄エリアに一度は住んで、本当に合っているか等も含めて試し知りておいた方が良い。という事で、

やはり候補は豊岡の古民家と森、(湧水跡地や)展望苑などでキャンプ場。

戸隠別荘地(~将来はキャンプ場,スキー場,ガールスカウトの森etcも視野に)。

又は大井辺りの民家,ログ,杏の家辺りや(小川,伊那谷,)八ヶ岳(富士見)、

(北海道なら上士幌,旭川などの上川郡、~八雲,(北斗や七飯,)室蘭など)になるのだろう。

乗倉,開田,飛騨山脈
屋久

その中での今の可能性は、
古民家と森、もしくは展望苑などでのキャンプ場。か(湧水跡地、)戸隠別荘地も。 (大井,伊那谷,富士見)

しかしそれらも潰れていく。
事業計画を建て融資を受ける?

八方塞がったまま、どうしようもないのか?
それとも捨てて将来への基盤の為にも、
出家(台湾,インド,nz)
タルタン寺,戸隠修験。
蕎麦屋林業,竹細工etcでバイト。

求めないことへも又も求める。
死んだと思えば何でも出来ると言われるが出来ない。なら、やり方を他へ変えるか?

それもは新しいやり方と、そこへの希望という欲望を転用してるだけだが、それでも(しかもこれしかないという望みでもなく自分意志として希薄で消極的なのに)現作業も捨てて身体活動にも無理させて他を試すのか?

山の暮らしに移れないなら別の労力と金をかけて生活水準を落としてまでも希望ではないアパート等へ入るのか? それが現実に足つけた、とりあえずの対応なのか?

一足飛びに求めて来たのでもない。 でももう何年もで疲れた。

体力も気力もなく出来ないと思っているが、それは自我と欲の惑いが捨てられぬからなのか?

苦しいのは叶わないから。の欲であり、死んだと思えば生きていられるだけとなる。としても実際の現実が痛いのだ。

環境を変えて身体も使ったり平安方向だけでなくアドレナリン活動を取り入れたりもすることも良いのかもしれぬが、しかしそうした生活状態への望みへは状況は動かない。

自身の行える事、を果たすのに固くななのか? 自身を明け渡して他者,利他の為などへ生命を捨てて生きてみること等なのか?

結果などの為でなく、もっと徹底的に捨てていくのか。

何て欲も業も深い凡夫だ。 こんな生に何でなってしまったんだ。 でもそれも与えられた生の味わいという、悟りの味わい。

凄い創作を見せる事で創造の消費へ膨らますより、人の心や弱さに寄り添える仕事となれることが求められている?

名誉などの欲求の為に追い求めているのか? いや役割を為したいや、可能性や能力を何故に活かせぬや阻害もされる事を認めねばならない?などの欲求ではあると同時に納得への問いと模索。

この作業の為であったとしても心が、依存の対象を変えているだけではあるも知る。

自身への変革も出来ぬのに人へ教えられるようにも(道場など)結び着くわけがないとしても、しかしあまりにもこの自身現況と生活の以外に何も出来ない。

いやこの探究自身が変革と救いへの方法と呼び声だ。

自分も望みもを捨てて死んだと思えば東京でライブ活動などへ向けて生きるも良いか?は、いややはりそんな無駄や破壊的手段へ自身を追い込ませていくのでもなくて出来る範囲でだが(この切羽つまって来ている状況でもの)、楽しいと思える理想への方向に生きてやらなければとヨーロッパでの学びと挑戦の結果も踏まえてにも思う。

では日常の進み行い方においても創作一つをとっても行うべきことは多いが、ずっと疲れているが基本状態の中で、これ以上は良くはならない前提での出来ることを組み立てていった方が良い。


拠点も中途半端な処を手に入れて手を入れるより結び付く最然へも任せて焦らずとは言っても、それでは創作活動や経済状況の叶わねば起こらぬを求め続けねばならぬようにもなるし、現状生活の苦しさから抜けたい想いや緊急的にも抜けなければならぬ必要が迫った場合にも困るのに、このように探す手段の、人,net,不動産屋,直接現地探しetcが全部ダメなら、どうする?

やはり予定建てや家族や南米なら映像作品にしたかった事やパソコン機材などもどうするか?なども全てを捨てて、冬にはPeruへ行ってしまう。が、こちらでの流れ来なかったならば僕の性質的にも求められている不可抗力な流れであるのかもしれない。

旅中の映像,

150 10/16

150-2 (?) 10/16~

在る,のみの生命と自然なる存在を味わい感じ生きるという創造へ。

神も魂かも関係なく深く交感し、味わう事が生命の歓びであり、それが慈悲,共生,全ての繋がり,なる私と世界の自身が一体だ。

故にも真実の自身への自由であり、そして自由。だが、奪うな。 知性ある故に侵害せず調整者となれる最少において生命を真に楽しむ幸福の行方を叶えられる。

命も名も金も要らぬ、心の自由さによりて大事を為す事へも自身を捨てて(又は自己の欲と大義,奉仕に垣根もなく)行うもが出来る世への関与者でも在るに足れ。

人の評価など、時代によっても移り変わるもの。 認められるような出しまとめ方が出来ぬでも時の趨勢に任せ、時代の必然が起こるにも放り投げていてしまうも良い。

そして一部の創作的な成功者と、その目指し方ではなく誰でもが行ける幸福な生命の叶え方の道としての在り方を(それのみにも囚われず)同時にも宿しゆきたい私の次の段階が実り出しているのかもしれない。

では創作者でありて世へ広がり関わりたいのは意識の進化と変革の為の希求と原動力でもあるが、もしそれを外せば拠点,旅,家族などの為でもあるvisionと自身性質を生かした生活への必要を 繋ぐ為である金(又は金が無くなれば代わりの実現手段,しかし人間関係に頼る労力手段ではなく)を求めてもいるのであるのだから、そこがクリアされれば響かず良いものが広がらぬ世界へ共生,相乗,意識の変革仕事と役割能力を生み置かれたいと望む事さえもなく捨て去って隠居的な遠目に世を眺めながらも悠々と自然に在れるがばかりの自己生を奏で叶え在れたら良いのではないのか。

そこを目指しては音楽や創作の共有手段が如何に成されるかへは、その生活自然からの帰結に委ねている泰然自若と悠然を構えた姿にも由る次世界種子となりゆくを置きゆくが良いのではないのか。

僧侶や仙人などと言った肩書きもは判断の為に(も使われてしまうが)ではなく、その者の設定や性質,傾向性を示しておけるものとは使用出来るように私の在りたい在り方を灯す為への使用となれば(それは名前とも同じく必要もない又は、その意味付けに引き寄せられ過ぎる事もなくとも影響は及び個人や性質の識別材料ともなるように)良いのだとも言える。

自分にやらぬで良い事はやらず、徳を積む機会へ奉仕しなくても徳を擦り減らしているわけではなく又、言う事は言うようにも自身のままでもを行いながら、しかし増長はしない。 各自に出来る事行えば良いのみではあり、自身は愛へと化すのみへ融かす、存在への仕事を続ける。

個人主義と利己主義は勿論に違うが、利他の喜びもが利己や社会でもの功利の為でもあるといえるなら、その自己利益原則を世界の(最大ではなく最適的な)幸福へと生かす動きは可能でもあろうが、それだけでは容易に又も自身利益の追求欲求へ吸収されるのでもあり、また利他は利己よりも快楽が大きいとはしたとしても、どちらかではなく人間はどちらも持つものであるが理解の基盤に持たなくてはならない。 つまりは利他的な幸福追求への利己や個人の道が共通化されたとしても、利己的欲求は容易くも復権するのであろう事や一つの基準への規律で押さえつけられぬ事を含めた多様自由の上の統合普遍とそこへの動きが見い出されなくてはならない。

如何なる設定にも関係がなく流れが起こり行われ現実化へ実現されていくだけであるのなら、つまり方向性の設定は自身の進み方における現在への納得(依存的な期待との区別はされるとしても)条項程度の意味や影響しか持たぬのか、もしくは積極的な効用価値を意識の力として持たせていられるのか? 現在へと化され宿り来るvisionや流れとの連結生起は、その起こるであろう未来からの抽象や大枠を含む(曖昧にしか見えぬが)さざ波のようなものであり、現在への設定はそこへ対応しているだけで、その設定や方向により未来が起こっているわけではないのが基本的な理解にもあるが、しかし意識によるキャンセルや現実化もは起こりているように見えるようにも、では自己への想起や意思が全て未来も含めた時の連結,統合運用からの生起でしかないのか、自己意識や意思,設定方向が未来への関与や働きかけを生みている余地や部分も(又どのくらいに)残りてはあるのか?

自己に感じられる運命などは現在の自己選択へ関する為に宿り来た真の運命的決定ではない変換可能なものでもあるだろうが(ではそこへの連結に何を想起させるか等を何が決定しているのか、魂的な主体性の意思が行いている等と本当に言えるのか?でもあり)又もし、その運命というものが(あるとして)完全に(もしくはもっと明確に)把握され分かってしまったら、その知性体である私たちは全くに運命の奴隷(今でもだが、分かっていても逃れられないという意味で)として寸分に違わぬ一瞬毎の決定を行われていくにしかなくなり、ではそれが潜在的にも達した真実であったとしても決定や選択の惑いもないが、その喜びの味わいや自己意思,人間的意識の必要がなくなった存在へ自個を無くし何も気付くも考察するも意味を持たぬ生存体となる事が幸せであると言えるのか?

ならば、それが潜在的本質に近い知覚ではある存在でありたとしても私たちにはこの(現在と生命と世界の奇跡的連結への感謝を催す以外での)世界の不可思議の理解へ達し流れと必然生起の全貌を知る人智へと越える必要などもなく、惑い流され続ける人間でありながら人為の剄を抜ける分だけへの宇宙や生命全貌への理解,共通と発見が有れば良いのみのバランスと又は現在もに(危うい均衡と進展だが)必然的な動きと均衡は最早の既に完全に取られている、我々はこのままの為され方で自分や利己と思われてもいる各自への生起の中で、自己を越えた総体に流されているかどうか等への気付き等もが必要なく人為にも為されている完全のみが在ると(多分そうだが確証はないのに)信じられ委ね放棄しては個人としての現れの我を、感じたままの現況に行為し連ねられるのみを自己意思もすらが ないのだという理解の上で為されるのみがあり結局は自己も全てが無き上で、この自身に感じ表れた事を欲望かにも関係がなく行うがばかりの宇宙素子と一端を動かされるのみの非情に費やされる私たちと各自の責任の取らされ方など(カルマ的ではなくとも人間相互の中でもの人為自然にも連関される)があるばかりに任され、ではそこにはその自身が如何に感じようとするか?のみへの方向や感じ方の手段(としてのart)だけが在れば良いというだけであるのか。

ではそれが自身と生体を持ちいて運ぶ在り方への肯定でもあるが、その感じ方とは結局やはり宇宙と生命の連結的奇跡や生体,現在,生存と為される事の肯定や感じ方、又は魂的な次元超越の階層などともいった真実性(が有るかも含めての更なる深さ)へも触れてゆく為のものではあって、潜在や深い本質と流れの実体に触れていく事は運命の非情または運命の操作へとも通じ繋がっていくものではあるのならば、その意識レベルが上がっていない状態で技術が達してしまう事は幾らその過程が正しく生存の 本質と歓びに基づいた方向へ採られたものであったとしても、つまり流れと生命の本質へ如何に感じ生きてゆくか?はそれ自体が、生存も生死もを越える方向を内蔵しているのではあり、その結果が生体のみの生存へ還り着くのか又は何処へ行き着くかを現段階の(倫理とも言えるように、人類の方向選択へも関係する)基盤と関連へ発見し構築し示さなくてはならない。

ではその複雑にして完全的に催される連結を知りて為されるしかない絶望性に自個をも失い生きる選択肢しかないのではなく、連結を催し操作する精霊,聖霊的な階層の存在へ至る事が我らの方向や目標であり、それへ至る為の手段や技術が人間にも内包され化されているのかもしれないならば、いづれにしろその人為的操作段階に関われるだけの意識の進展,変容が過程採りの必要とはなるが、それは技術の進展度合いに関する意識の持たせ方でしかなく、そこには人為増大の抑え方などくらいがあるだけなのかもしれない。

10/19~

では次元を越境,超越した魂の段階へ潜在を掘り出し達し、それ自体となりていくのか、それを知りてそこからの流れに流されるだけの人間と生体の現在的な自然統合点を帰還する目標地として設定し、変転するのみの法に任せず人為発展を拒み保持するという人為に在る又はこの現在性への変転を既に化されて来た人間生体性の中でのみの変転ならば受け入れるというのか。の、目標想起や設定次第で方向は全くにも異なる。

そして方向とは自己意思生起へ宿るものの全決定である面からは自己も方向も無いし必要もないとは言えるが、そこに宿り来る(必然や総体がありてもなくても)想起性における自己が何を選ぶかに拠りて起こる(又は何を選ぶか?自体の為にも)現実具体は方向が作り出している効用や利用価値や設定の力として(進化が、どの生命レベルでの変容影響へ催されているかは分からなくとも)有るとは言えると思うのだ。

10/21~
つまり自己をも越えて全てが為されるにおいての方向などは存在もせず必要もなく、しかし現実具体の自身や世界を動かす未来への運動における方向性の働きは(進化への関係度合い等は分からぬとしても)有りて使用も出来るものであり、ここにも有ると無いは矛盾ではなく視点の置き方の違いだけによる、一体の運用なのだ。

人為も無為一体な自動生起でありながら、その運動の現象体である私たちに起こされる無為や自然を目指す人為を持つという事の矛盾はなく、しかし便宜上の言語効用として無為と人為を分け隔てては説明,把握する事も無駄な破壊(と見える創造一体であるが)を産み出す非共生の判断,強制の人為を愚かさと判断,差別しては止めようという方向へ照らそうとする事もは全一体への放棄ではないとしても無難な必要と効用ではありて、では只、愛の祈り成れば良いのみでありながらもmessage(protest)を告げる試みや行為へ動く事もは例えそれが真実,本質という差別,判断,操作,自我に基づくものでありても、この私などは小さく限定,現在的な知性でしかない事をも自覚しながらに、宇宙の現在を起こし関わり宇宙そのものの起こるを為される一端としての自動生起の選択体であるを巡り行えば良いという全肯定の無差別と現在肯定の無差別と(傍観,無関与,静寂,非言語,等と、行為,関与,関係,言語など)肯定の相互と矛盾の間にも、一体と統合の運用を目指す(必要もなく目指される)のだ。

全てはそのままに在りて起こされるままの各自と連関と責任と作用の進行に放置され任されていれば良い中で、ではどの程度に関わり自己に感じ思われた方向を(本当かも分からず操作欲求とも一体な中で)告げ提起し引き寄せようとさえもするのか? 引いて任せ在るだけでなく(基本的態度として正しいが)時には少し強く言う事などもが相手の為にも良い提起であるとしたらば、どの程度に行い変える方向を示し得るが良いというのか?へ対してもの現在ごとを感じゆく選択の問題と立ち会い方ではあるに例え本質が規定などできぬとも、その交感の遊びにゆくがだけを、では示し分かち合える提起とするが良いという事か?

表面的対応の根本に在るものへ対して未だ問題化へ現じていない潜在的問題性への機会と必要(本当に必要であったかは知れず自己の思い込みであったかもしれぬ事へもの視点や把握,自覚は必要だが)へ対応を当ててしまうと、しかし相手は否定されたと捉え理解はされぬばかりか問題なき未現の問題を表層化させただけで無駄な関係とやり取りの労力へ破壊を生み出したのは、こちらの問題となってしまい奪いている事にもなりかねない。ならば、自由と各自のままで在るへ放置し不利益や愚かな判断,強制などの未現の問題への共有,提起機会を感じた自身のままで在り怖れず行いたくも、しかし奪わず。の基準の為には対応も 当てない(自身が正しいか間違っているかは分からずとも)可能性への関与をも放棄する在り方のみが正しく良いとするのか? しかし奪うではないを基準とし目指しながらも私は、自身の自由にも従って可能性への(その囚われには依らず無関与は基盤でもあるが)行為と関与へ感じる必要のままにも選択しては在りたい。ならばそれは、奪うな。と可能性。の均衡作業でもあると 言えるような自由な自分と自由な他者との統合性へ関する考察であるは此処でも変わらない。

自身と他者の統合的共通が自由同士のままにも自然に共有されるような関係や状態を私は求めてもしまうが、そんな理想ばかりを(方向はある程度には大切でも、そこへ囚われてはならぬ)自身や世界の共有基盤と設定してしまっては、又も欲求へ苦しみ関係の取り方へとも惑い言う事や操作への提起方向も良しとしてしまい兼ねない肥大への可能性をも生んでしまうかもしれぬなら、関係性だけでもなく理想の方向などへ何が提起出来るのか?等の世界への関わりすらをも捨てていく、可能性と方向提示より全自由であるへ放り投げ捨てて、奪うなのみの最少へ自身を化し提起できるもは、それだけのみであろうか? それとも肥大させぬならの方向を自身へ化し(課し)自覚もしているならば、関与における言葉や可能性へ対する自身に感じた方向や真実への操作,提起,行為を持たせても良いと言えるのか又その程度はどれくらいまでのものであれば良いと設定され、そこへの規定も必要となるのだろうか? そのバランス採りの採用基準を見い出そうともしている現在との観察と日々の結合事象自体でもあるを生く。

しかし人には返報性の原則内蔵があるように、愛で在る存在を世界や対象へと送るのみの自身であるにおいても、そこへの現象は返り来るにも還る。

待つ事で在るもを捨てて愛を送ることもがなく、在ること。だけが有る。 その中での私をのみが生きゆきて愛のみへ在る事を送り、待つに在りても現実化へは凡そ半年程で達する状況(その把握や意味付け判断へ捉えられ囚われずとも又、長期的周期性もが有りたようにも)を経験,観察されて来たようにもの自身必要へ最高が成される状況化を求めながらも心は自由に囚われぬ自身を目指し為されるに成されていく方向の持ち方は変わらない。

操作系人為は好きではなくtaoistや禅僧のように在りての在り方と歓びの創造を働きかけながらも、将来的にはzokuchenや虹の身体のように 現実,物理越えの仙人性を目指す現況にありては文人のような生存の創起に生く、その何処もにおいてもの愛の一元を私に灯してはいくを変わらぬ方向に持ちてはいる。

故にも奪わず放棄された肯定のみの歓びで在りながら成長と可能性への自身の感じられたままでの提起と関与,行為への気付きと選択の味わいを持ちて真の自身と世界の同時,一体,根底での流通へと向かう心と物理的な自由にも目指し達を歩きゆく。

そして私に目指す音楽等による魔法などもは、その愛と肯定のみでの真の幸福達成と成長方向への自然転化を催し起こすような流動根底からの流通に響き関わる存在の力に震え紡ぎ出され表出される現化への源流における無為を照らす愛のみへの魔法存在(という錬金術に徳を減らすも増やすでもなく)を示現するflowの灯火とはなりて、しかしそのflow出るかにも拠らぬ、もっと自由でほどけた(記録の為や競技のように出さねばならぬものでなく)在り方を然じられてゆくにはの方法もを私は必要とし、求めはする欲求ではなく 必要を為される為への方向に現在を感じてゆく、これらの全ては観察という生命に交感し、達するが魔法自体だ。

そこへの気負いはなくとも日本人の代表として(見られもするから)の恥ずかしくない自分を(なるべくにそして実際にも)現じては来れたが、それをも越えての地球代表としての在り方や理想地点を今後の自身へも意識して生きてはいてもみるように、宇宙的な視点からのこれからの人間への俯瞰にも基づいたような(本質や基準など本当には無かったのだとしても)私の行為や存在や日常も創造もを視てからの選択採りともなりてはいるに在るのだろう。 (恥ずかしくないかどうか等もの主観性もは、しかし人間的な判断を越えてに為されているものでもありて動物としての人間や、この生体をも楽しんで行われていく事もとの適合は(統合かの如何んにかも関わらず)此処にも自由と統合の融合が目指されて観じられてはゆくものであるが。)


会話の実践原則~Maxims~,協調の原理,
Quality:質,発言は真なるものとなるようにし虚偽であると思うことや根拠のない事は言わない。
Quantity:量,発言には必要なだけの情報量を持たせるようにし、必要以上の情報量を持たせない。
Relation:関係,関連性があるようにする。
Manner:様態,明瞭に話す、即ち、曖昧さや多義を避け、簡潔に順序立てて話す。

ではここでの私における不要は量と多義であるが、それらからの逸脱をポライトネス規則,原理でもある事でのいづれかに当てはめていくにおいて、押し付けない(距離: Distance),選択肢を与える(敬意: Deference),聞き手の気分を良くする(連帯: Camaraderie)等の分類やテクニック面での把握効用は確かに表面上の面で使用や機会の一つとはなるが所詮、人々の進展の根本に作用する効果は薄いし自身等と全ての根本元因に達しているものではなく、私のままで在る事と他者流通との中で感じた自由と外部規律,規制,制限や方法での行われ方への選択肢の採り方には、もっと他の根本,統合的なベクトルや度合いからの方法,方向や基準化の為される事を必要とされていくが、私と今後世界にも求められている。

10/23~

多様を含むpotentialと未来への空白余地を残した自身への結び着くものを育んで来た者との新たな交感の機会と到来に育まれるを待たれるへと私を渡す色の染め方へとも操作ではなく、その責任にも意識して向き合う現在との立ち会いの流れ(私)の中で、起こる日常の過ぎ逝き方の中にも観じては生く、それはこんな(そしてどんな)私でも何が与え分かち在れるか?にもある対応や態度と存在の人間世界への提案にも同じく、過ぎ去るがだけの生に組み込まれる現況同士の響き合いが為され在りている。

(以下2段,日記より),
人々からの想いや、又この空間に在る自身を作りて来たものたちとの交感の時間でもあるに、親しみ独り楽しむ。黙想のように、しんと身を澄ます。

ギターで歌少し出してみるが、発声すらも良く出ず。 (自然に生まれ出て来た子守唄なども全く思い出せず浮かびもせず、幾ら今はこれでも良いのだと言い制限の中でもの出し遊び方を試すのだとしても、あまりにも世俗化してしまってもいるのだろうか?) しかし、この今を背負っては生く。

思い出は自分という存在を作って来たもの。過去の記録は、それを引き出すもの。 そして今此処が、豊穣な時間。

死んで行ったものたちや過ぎ去りていった過去の記憶たちとの全てが此処に、この僕にのみにも結び着いている。 これを味わう事が出来るという私への奇跡の体験にも身を浸しては親しみ、それは無駄な事などではないと云う。

私への自然が現化する。 何処に流されているのかも知れず、自身の想いと方向にも縛られず、私への現化の全てを超越と日常の相互が同伴に宿されて奏で象る。

かつて在った想いたちの行き着く先が何処であろうと、その祈りは無駄でなかったともいうように、行方も知らず方向にも自身たちの生命を宿し揺られては生くがばかりの無常に無条件な流れへの無知性的判断の私たち現況段階が愚かにも哀しみ喜びては生きていく者たちの定めとさざめきに、私はそっと寄り添いてにも吟う静かな間隙を埋めるような間の空にも充ちる休符の中の音量。

静観しては心を動かさず、けれどこの無常のあはれに心を動かし観じ入っている。 私は独り尽くせぬ非情の運命のたぎりを、この身にあまして顕れた哀喜にも託す愚かな人間と一人を逝くが紡ぎ。

そしてしかし、如何に凡夫なる私でありてもの制限と自覚の中に育まれては巡る、ほんの少しづつばかりの歩みの一端同士の煌星に何が為されいくが良いかも任せ判断は捨てられ進化や進展と退化や破壊への区別なき時代の進み方の中に、全ての統合点ではなく何処が目指すべき真実か等もが見い出せぬ中での現在が統合の事象(自称)自体としてに結合された、この点のみを生くにしかない時と永遠に司られ排棄されていくがだけのままの私等を事祝ぐ祝祭へと向かい迎えよ。

そしてこの制限された生命や現在の私達の中での、しかし新たな進展への動きを諦めず何処までも行おう。 無制限の可能性と新たな扉だけが私には揺れている。

流れが全て決定の範疇にしか行われぬものであるなら受け入れるのみだけが在りて、流され出ていく現在を"在る"事以外の何もが無く知覚さえも要らぬが、かといって、この心揺らがずともに生き渡りてゆく事の出来ぬなら、さざめくままに煌めく私たちの存在語りの宇宙の物語を紡ぐ種子としての私は、こ(個,己,此処)の自分を語る。

愚かでも星がたり、固どられた型の経過の人形に、しかし操るものとの主客の分離を越えた私は一体に存ずる事が出来る、その魂と生命の唄と呼ばれる詩であるを歌う。

人為にも流れは宿り来るが、人為を越えた流れへとの会い方に行き当たっていく方法が生命という世界の感じ方に面白く、では予定か即興かで面白いのは即興的な選択との冒険に立ち合わせていく現在のみに生きゆくというによる適合との遊びであるが、そのどちらでもが良いのなら何故に自然な流れとの行き合い方を目指す人為であるが良いと言えるのか。

どちらも流れであり流れは起こる(定めでありても起こると見える、起こすと起こされるの主客なき一体、人為と無為の本来は無分別においても)が、それでも目指し感ずる交感の在り方は(規定ではない方向だとしても)、なるべくに人為を差し込まぬ最少によりて流れからの現在と生命を感じ選択していくのみである事の理由は、連関されていく調整へもの無駄な関連を生まず宿り過ぎ去りていく流れとの過不足なさに受け取りゆく方法であるから故になのか?

しかしこの主眼である流れとの自然的な一致へ最少性の自己(人為)選択を当てていく流れへの乗り方(には人との都合合わせは少ない方が良いという一概性はあるとしても)の立ち会わせゆき方に、適合が上手く噛み合わぬ時の(それもがその時の最然,最高と観ている充足と任せのままにも在るが良くとも)二律相反的な不足感などにありては如何に選択と瞬時の適応を為し行い置きゆくが良いというのか。に対しての、空である私に在して紡ぎ置かれるものが、そのままに最上であるというような遊び方に至れるのであれば全てが自然の然化自体である貴重な現在最高と体験価値ではあり流れにそれ以上に乗ろうとし凄い潜在的な流れと真実象を紡ぎ出そうとする眼目すらは外されていけば良いという方向へ舵を切りゆくべきが、現在の私の更なる成長へもの時期であるのか。

つまり潜在に触れての流れを紡ぐ事ではなく既に全てが潜在,本性,真実のみで在り自然に取り出された選択と体験の出会いである現在と私こそが何を為そうとなどしなくとも(凄いartを生み起こせず真実称系の形を見せられぬとも)それが進化と意識への目的自体へとも成りているに継承されてもいく、この性質の違いだけが役割の端子ごとのように置かれ紡ぎ出されている世界の相だけがありて、人為に置かれる自然も人為を減らして触れた自然もの何処までもが良く、魂的段階との流通における流れの掘り出しが主目的ですらも無くなっていく現自身と現世界こそが全てであり良いという在り方へとの生命交感のみが残りてゆくばかりか。

そこに技術との折り合いが生体かどうか?等もに関係がなく、この現在を味わい感じ行いていく各自の事態が在るに良く、全てが良いの自身と現生命との交感に生きる姿,存在性のみが残る。 何伝えるべくもなく伝えるべくは、それのみともなる。

本質の流れを紡ぎ出す眼目すらは失われた自然そのものが行われ、その時ごとの真実が最高に行われているのみと在る充足の、それを象る言葉へもの私のみが在るに在し創み出していく事がばかりか。

紡ぎ流れ出させるflowとはそれの事。 潜在に如何に触れた本性真実かにも関係なく、潜在に如何に触れたか?は生命との交感に感じては生きたか?それだけのものとなる。 そして常に空にも(幸福に真の幸福へ歩める事のようにも)私の統合と最然への一致が、引き出せるかどうかの気負いや魂,潜在に関わらず成るがばかりが成るを生く、これが成長,深化の現在と宇宙の私を生くがばかりの歩みと愛の世界の継承,象形の進みゆくが彼方への動きと煌めき。 紡がれるがままの紡ぎ歌の(繋ぎ)連結だ。

歌声,流れの 潜在的繋がり方,歌詞などものどれでもがすらにない、存在と表発の言葉と自在性のみという在り方と、又その一体的な運用が起こるべき到達と段階への私が現状へ与えられた更なる成長への意味合いと意味,判別をも越えた静かなる観賞が私の現況に爆発してもいる日常を浸しては渡す。

ネイティブアメリカンのように(共通code内における生命の使い方方向や流通は必要だろうし、それを作り持てるかのみへ主眼が移るのかもしれぬが)上手く歌う為のものでもなく誰でもが出来るが根元的なものと交流する揺らぎが含まれてもいるような声帯の使い方でもある歌い方(張り上げる高音刺激な波やラトル的なnoise(じゃわり)などへ突き抜けてゆきて、では歌いあげぬとも密か静かにも宿るflow音流を魂の歌としてもいく変換方向への転換の現在から、良い声などが出なくとも張り上げ叫ぶ人間外の声のような交感性へ起こすのみという気持ちと性質各個を置き換えていくような方法へと亦も還りゆくのか?

しかし、その時点での自分を置くがばかりであるにおいては現在の私は張り上げ歌うには疲れてしまいても居るし歌うと、なるべく歌いたくないと心が(その心に引き寄せられ過ぎぬとも)想うのだからにも、歌わねばならぬ機会や時の到来に合わせて(そう感じたものが本当に必要だったかは分からぬし流れとずれている流れであるを感じたとしても、その機会に自在に対応し得る状態の自分では在る為に)flowを出す又は全連結の最然を歌やflowの技術にも関わらず表出するにはの基本は、やはり囁~ささや~かに在りては意思をも含めず良否も無くした空~kara~によりて生み出されるものとの立ち会いを、交感や選択へ深く入ろうとも思わずに入りている存在のままにを世へ映す流れとの行き会いが自在と化された自身化のみを目指すが良いのか。

目標意思的方向性などを持ちても良いが、その方向性は人類への期待などでもなく(絶望ではなく諦めている)、放り投げ何が目標や理想か、その為の自身に与えられる必要の設定などをも捨てているが、現況への幸福のみを望みては、過ぎ去りてゆくに心は囚われず生命交感の真の幸福への愛に満たされた充満の只、空で在る。のみ。 つまりは設定と方向制限などなくとも現実的幸福も私の必要において為され与えられる事は望むとも同時に、他は何も必要がなく意思の生起や知性,選択の分別も含めず只、空になりて虚空の一端子なるが私にも鳴りいている全てが必然へと心は囚われず任せ放り出し過ごし去りていくのみへ生命経過を味わい交感せねばとも思わずに交感し尽くしている私化の自在に在るへ融けてゆく事が、この生体のみに在りてもに目指される、生命変換の行き先であろうという決然でもの結論か。

(~10/24),

142 - 2

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では日本に育まれ来た素晴らしいものもあるが保守やルールもの自己制限同士に陥りシュリンクしていくばかりの此処から新しく世界への本質的な価値が生まれないのは(結果論ではあり、その故に越える為のものや気風が生まれた可能性もあったが。)当然でもあり、故に押さえ込まれた状況で少しは次世代の意識が転換されて来ても根本や社会のベースが変わらないのは(外圧的状況として外で発明された便益効用性が環境的に変えていく面は多少の進み方としてあったとはしても)当然であり、当面の日本には無理であろうと思われる。

本来自己へと向かう生存性の為の自由だけではなく、先進性への挑戦や思いたった事を成せる行為,選択,又は表現の(自己に為す影響への責任つまり振り返りは大切であったとしても)自由(そして、それを自身の責任で結果をも受け入れていく事も)は大切であり、しかしそれは確かに打たれた者の気持ちを害しない方が良い気遣いや思い量るへと至る事は大切でもあり、その傷付く人の存在や度合い(数値以外には計りにくい故にもの現在的な基準である数や量もは有効基準の一つであるは認めるが。)を加味する事は、立ち会う必要ではあるという事に理解する。が、その上でやはり枠にはまらないアウトサイダーこそが新しいものを創み出すのでもある事もは否定されるべきでもない。 結局どこに自身の性質のままと本質性の自己を自身が採りゆくか。へと関与,交感し続ける基準と方向が必要であるという問題の根幹と問いの内容は、此処でも変わらないのだが。

10/4~(今までもそうだが、此処での文章の大半は既に一週間以上前から書かれていたものであり、それとの間を埋めるcombineが、この日に行われたという事である。)

枠外に佇み超越を吐き出し、しかし現実や世界の人為段階ともの適合を試す私のままにも突き抜け、また私現在の動きへ納得はしつつも縛られず、あらゆる可能性と希望にも開けている中での如何なる状況にも光と愛を灯しゆく調和への変換の媒体へ私は成るへと道を現在にも歩くのだ。

生命に感じていく存在や流れとの立ち会いと創作的とも言える活動への発明,発見の喜びとは同じ同義の部分を持つが、そこへの動き自体の事を自己の生命や自由と言うのでもあるから、つまり自由とは本来自己へ深め向かいゆく為の気付きと生命交感の味わいへ各自のままに在りても生きられる状態や為のものでもある。 そして又は、その自己本性への働きの事でなくても自分の思い気付いた事は、その責任を受けるを了承しながらも(社会からの非難を受ける事への責任ではない)現実的な状況と自分のままに生きられる自由を必要とし求める事も(質や意味合いは違くとも又は共通でもあるが)非常に大切だ。

つまり、自己本来へ向かい生きる気付きと方向の生存への(心と現実の)自由が必要であるのは私にとってだけでない共通であると思われ、しかしそこには只それぞれの自由に生けば良いというだけではなく、それを示し伝える事と説明への現実への適合は(自身へ突き抜けている事を抑えなくとも)必要な事だ。

そして押し付けられておらぬのなら他者の自由を奪わぬ事。の中でもに、本質性からの自己への流れや世界と生命の連関の発見にも繋がりへの気付きを結びていく事。 それが共生でもありて、何が本質かなどは規定出来ず全てが正しいのでありても流れに触れゆく(その必要もなく為されるだけに各自の完全自由な流れ自体があるのだとしても)意味合いとは、その生存と在り方自体の歩み方の価値であるとは言えよう。

自由、しかし奪わず。は此処でも有効ではあるが、その定義と範囲は曖昧,抽象が故にも各自によって如何ようにも判断,解釈されてしまうが、だからにも思いやりとは義務として自分を抑え他者の顔色や如何に判断されるかを伺う事ではなく生命界にも交感して殺さず奪わず無駄にせず、他者や自身の本質にも聴き入っていく事である。などもを、その言葉で示すだけに頼らないで(分かる人だけが観入できるのでもなく)ちゃんと(全てを求めずとも程よくは)説明を置いていき、肯定のみではない指摘面を置くのは大切な人間への対応であると思われる。 そして奪う力に如何に対処するのか?へ個人として加わらず対処もしないという選択は良くとも社会的に野放しにするへ対処しなければヒトラーは侵攻も虐殺もするのだから(ガンディも反暴力を示せても武力闘争や血が流れたからにも彼の思想を生かせたようにも)暴力の効用へ如何に対処するか、暴力の効用を如何に使うか。と同じく規制や管理や執行力の持たせ方もは、共生や奪わぬという事へもの共通法規のような制定も必要なのではないか? 人と自分の自由と共同,共有を両方とも求めると同じようにも。を私は考え身近の中にも立ち会いている。 が、しかし意識一つの変革に目指すのは、その無駄な対応必要ばかりをも産み出し続ける人為の操作強制などを減らすへ近付ける事からものものでもあるが、そこには又も振り返すであろう人間の内蔵された愚かさや善悪二面性もの人為肥大の面をも楽観せずに(意識も環境も進展,変換されたとしても)知りて取り入れての 方法が必要であるからにも更に難しい。(そしてそこへの対処無意味,不可能性を常に繰り返し与えられ思い返されて来た経過と私による問いと学びだ。)


日本人にとって寺も皇族なども権威なのであり、その役割も(外交や伝統保持の依代になっている等の)認めるし必要であり、実際に行っている行為も実に尊く徳の高い在り方へも結び着いた(お朝事や護摩焚き等の一つだけを取ってさえも)行いや仕事だが、その権威に頼り依りて生きている人々の自個のなさへは批判的である。 (そこにはそれなりに意味や理由があるのだとしても、そして勿論それは日本だけでなくもっと個人主義な英国(領)でもなのだから不思議だ。が、何処を見ても未熟で野蛮で遅れた文明と知性種である人間現在にとっては、そうした現況が当然であるのか?)

その役割への気遣いから尊重し意見を挿し挟まず意見を聞いてしまう事も理解するし僕もそうではあるが、そこへ自身の考えを持って(勿論それは浅はかさによる対立ではなく)意見を入れたり時には否と言える事も大切と思われるが、そういう行為は(現在日本では特に)尊敬も常識も無い行為として、それだけをもっても非難の対象と成り易いのだろう。 そのくせ、それぞれの権威や覇を求める人間同士でありての対立や力の使用の中での調整が必要であったりもする。 そしてそこへの僕において行える均衡や解消の採り方は否定への否定などのように打たれた者として打たないでと言える役目とcounterの思想も納得しているにしかない現在の自身(全てにではなく愛の意識のみへ解かせている事も出来てはいるが選択の一つとしては)でもあるが、それを認めながらも本当に肯定に在れたら又は徳の高い人の繋ぎ方や調整とも成れたのならば、(例えそこには否と言える大切さも有るのだとしても)それだけと成れるが良く、それが至る目標の先でもあるのか? (僕はbeatnicsでもjediでもなく菩提薩埵~enlightenment being~と在り逝く道を在りてにも目指すが、その到達と過程と私と全体は如何なる形での統合に結ばれるのか、過去聖賢に学びながらも私は問う。)

此処は言うけど、それ以外は宜しくというような、対者へもの人格根本否定ではなく二重基準を設けたような応対も当然のように僕には思われるが、やはりそれは尊重の故に意見も言わぬと同じく感謝しているから問題点も伝えぬというような、選り分けが出来ていない状況とも言えると感じるし、それとこれとは別。という当たり前が出来ず、個で見て立ち合う事の排除された社会や人間の姿が健康的であるとは思えぬし自分を出さぬ事での(出し過ぎでも良くない勿論そこにはバランスと、それを感じようとする方向や能力も必要とはなるが)表面的調和への押さえ込みが調和的な成功ではないと思う。 そしてこういった見方からの提示も有りて良い必要とも思われているのだが、そうした見方という分別,相対化された感情の自身こそが無くさなくてはならぬ対象なのか? (全てが良いと認めては人間嫌いへの判別は減らし、諦めた共存としてもの共生に立つ自身へと向かい作りゆくのであるとはしても、その全くに分別を用いず基準化などへの運動も持たず何が良いのではと思う事すらも捨て自己意識も自己の為すべきを為す等をが無いのか?)

全てが無く、無いものすらもが無い。 又は全てが無いとは全てが有るとも同じだ。 そうした真実からに触れては震え学びつつも、そうした解釈の一端や過去の権威にも自身をおもねるな。 (しかし勿論、全ての者がそのような知性に生きられるわけではないから、方向としてはこう言いても方便として、これで良くこれが全てだという事はあるのかもしれぬが。)

見方も一つで排除される自身もを、これで良いと納得させる事は出来るだろうし人々はそうやって自身を押し込んだ納得を生きてもいるのだろうが、それでは反対の方向を押さえ込んだだけでもありて爆発が待たれる又は更に自身を抑圧へ押し付けた状態での日々を乗り越えさせていくような思想でしかない。それは一見の受け入れと、これで良い。の悟りにも見えるかもしれぬとも又は大人の対応というものもは、(それは慣れの牢獄でもあり自身生命への強制、つまり奪う事や強化,強者勝ち残りの競争原理の思想でもあるにおいても)そういう事ではないと私には存ずる。

そうした設けられた垣根の外からに関わり発見し進めるアウトサイダーこそによって次の世界が創られる。のだから私が障害者でもあるから等の理由づけも必要はなく、(理解への説明には使えるが)そうした価値のみからによっても新しいものの生み出される(勿論その全てが良いというのでもなく表現の自由には責任も伴うが)可能性への価値が認められてくれていっても良いのではないかと思うし、そうした事も私には言いたい事と言える事でもある。(アウトサイダーでなければ変えられないという事ではない。 そうでもないと動かない現状においては、である。)

そして私は私の生命と道と在り方の与えられ方の全てに満足,安心しては折り合うよりも突き抜けてはしまおう。 共有とcode化を私に試し創りながらも、付いて来るに任せては自身行い離れていれば良いのだ。 成るように成る。へ任せながらも、私への成され方を観るに見渡す。

引いていく思想のようにも、その引いた事による結実が結び着いてくれる事への結果は得たいが現在実際の私に、方向の欲求や引けていなさもはあるが、自然に為されて生きる事の価値とそれ故こそにも起こる利益や成功を、私には行い言うへとも現され結実されていきたいのではある。 これもは欲求だが、自身を導く方向として良いではないか。 そして私のままにの現在は、こうしてものように繋ぐ事と言葉を求める過剰の中の遊びと実験と開発であり(僕のflowなどはfree jazzや各種音楽のessenceと物真似でしかないかもしれぬが、それを歌で行った発明の意味でもに有り、又それは私において目指され開発された功績ではなく与えられた自然の結果でもあったようにも)この生の結果は私にも知れず、流されるしれないを受けて与えられていく事への覚悟と、出来るのは現実,現在への交感(気付きの知性的能力の程度差ではなくて)と選択だけだ。

格好良いものは真似したくなるもは分かるし、その後へ繋がる意味合いなどはあるかもしれぬを認めているとはしても、自分の独自~オリジナル~でないものは格好悪いし面白くない。という価値観にはある。 そして発されるものが、比べる為のものや競技ではなく(競技などで判別される世の比較基準そのものが遅れている。)、そのものの価値として吐き出されている創造が如何に響くか? 本質に通じた存在と震えに至るか?が、全てではある。

そして芸術とは生み出されている生命そのものの生存を生きる事であり、又その者の本質において行いたい事を行いたいままに行いているか。でもあるArt of Lifeを私には言うが(つまり、その生命と存在自身の創造どちらもの事)、その者の在るがままで在る事以上に本質の基準は付けられず、優劣化は起こらずとも、では破壊の創造という自身を与えられてしまった者の芸術を(囚われや欲求によるもにであれば、解きほぐすへ関与方法も考えられるが、自在としてそれが本質であるに選択されたものであったら)如何に押さえ込ませ又は責任を取らせ奪う力へ対応するのか? )

Lukeは、そこ(破壊と創造の人間関与)から身を引いた世の傍観者となりて闘うのでもなく世界へ関与する者たちの各自の働きと連関に何が起こりゆくかは任せては、自分の生んだ種へ対する責任を果たすと同時に希望の種を生き延びさせるだけの最小限の関与を最後に置いた。において正しいとは思われるが、正しいと思われる真実からの一端ではなくて(その場への対処としての正解は無く、各自の対応への判別の事ではないが)これが私と世界にとってもの共通真実の在り方または方向である。を見つけ出し示したいのだ。

10/7

生存と存在と意識の深底に達し触れ合う流動との流通,越境,同等,一体への交感に起こる、味わいと震えと愛の状態,自現,肯定歓喜,充足や静穏,自由と自在の心と行為選択などへも至る、その意識と方向にもより流されていく生命自体なる事が、(必然も魂もなくても、又は全てが必然のみでありて流れや魂の自己本体などに触れ行く必要もがなくとも)私に言われるSpirit Songではあり波動と自然~jinen~空と色,自己と他者,(Being of Living,Nature Flow,Nature Harmony,Wind Voice,Endress energy,Walk in Beauty,Dance in Concordance,Horizon Dance,Life in Integration,Presence is All,All is Well,)などを結ばれている統合へとも繋ぐ一致への基盤ではあるを創りあげては来て既なる私に生きている。

しかしもっと超然として、上手く示せなくとも堂々と在れば良いのだとしても自身の根本に自信がなく、揺らぐ私を悲観や疑う効用の才能の上にも突き抜けていられずに他者を求めてしまう依存の弱さにも在りもするが、それによりてこれが全てだと言わぬとも、その時その時が在るのだと自身の経験から(悟りの説教的な強制的共有ではなく)優しく言い置いてあげる事が出来る事への効用は生まれ来るへ向かっているのかもしれないように高さを感じさせぬとも普通の人間たちにも普通に分かり、尚且つそれは価値が伝わらず当然の合いの手くらいにしかならず取り入れて貰えなくとも、その表面上の言葉では、こちらもあるよ。 でもそれで良いよ。という柔らかい置き方と何でもが良い中での意識ひとつで転換を置き換えている気が付かれなくても陰徳を積みては独り充足しているだけ。のような在り方が出来るのかもしれず、俺は人生を肯定する。 受け入れては待ち、与えられるもには与えながらに自分のままに在る。そんな聖,賢の在り方を私には奏でる。

傷を負いて再生産へも繰り返す業の出処ともなってしまった人たちの、どうしようもなさへ対しても、こうすれば良いのだという決定的な癒しや救いの現実具体化への力は私に生めなくとしても(もしかしたらその奇跡は音楽などの流動の力に宿っているのかもしれぬとも)人間なるを諦めて突き抜け、しかし寄り添い分かつへ諦めぬようにも、私は彼等の世界とそこに生み出されるものを見ながらも(本当に徳のある者は楽にそこから抜けてしまう独りと究極を味わえるを選択し易いのかもしれぬとも)何が自分には(例えその価値の見返されなくとも、しかしそれで良い設定よりは良い物は広がり評価される世へもの一助とはなりたいが)与え関わり生かし分かち合えるかの業や仕事への階梯や歩みを感じ与えられ歩む者であるを選ばれてしまった者(そこにも縛られずの自由へは抜け任せながらも)なのだと自身への自在を生きる。 それは人間と世界に生きねばならぬ苦しみと有り難さ両方の道ではあるが、もう私は苦しみの因果からは抜けて生きていられていきたい。 苦難を感じるのは現実具体に打たれるからではなくて愛と慈悲の自身化の内に世界(から先に抜けてしまいながらも)を感じるからの故のものとなり、そこへ何を創み出すか。への為の震えや力と成るが良い。 助けてと心は言い出す、それさえもが私への創造と意識への力となるように。

そして意識的に使える言葉の魔法へも置ける立ち会いへの余裕も少しは出て来たか?とは思えるように現在への段階を踏まえては進み(言わぬとも良い意識にて済ますの 選択も)、では残す事と残さず世界の実際的記録の外へうち捨てていく解消や亡失への生贄,犠牲,葬儀,的な前進力,効用,又は納得の取り方の双方が(その各自選択のどれもが良いという以外での)統合的に運用されるべき方策や一致点を探るのか、それとも現在の多様文化のそれぞれ如くに捨て去る犠牲のお陰で進めるというような世界のエネルギーの交換原理(絶対真理ではなくとも実際的な真実の一面(資源の採掘量に対して使用量や対価が設定され燃焼へエントロピー増大によって宇宙へと出る等のように))にも基づいた在り方が残り続ける各自の選択(民族自決のように),過去からの継承などへ委ねるばかりであれば良いのか? (つまりこれもは自由の上の統合的共通の問いと考察動力た要件の一つではある。)

しかし文化的背景の力は案外にも柔らかく強く、今後の時代の混沌に合わせて復権しゆく事もあるのかもしれぬが(過去本質性,人間生体性の保持方向運動は人為肥大世界への反対圧力や又は少数のみの次世代の種を残す分化力でしかないのかも分からず、それでも各自に宿る俺はこれを行う。へと生きるのみなるを否定はしないが。)それで良いのままだけでは狩猟などの生体的交感と自然界の調整力一端を担う(良さと悪さ、奪うを少なくしての生存が可能となっても奪いて得る)生命の養い方を背負い続ける事などをも良しとしていかねばならぬ等においても(原住民文化の役割,調整力,生きる力などや畜産的殺生と肉食よりは良いとしても、生きたい命を奪う調整や肉食を止めていった方が良いのでは?に関してもの、統合的共通など求める必要もなく各自真実の自由選択と分化だけが在れば良いと結論付くなら、それでも良いが)それがこれからにも良い生命交感の姿であると言えるのか(微生物共生も利用や搾取との関係であるに 差別が出来ず度合いの差であるのみかもしれぬが。)?である。 (しかしsportsのような形へ転化されるのが本当に(暴力衝動の発散と楽しさ等へもの)健康的で統合的な結実であるとも思えないのではあるが。 しかし各自の性質や能力を伸ばして生きられる各自のartと共有の社会を目指す。とは、そういう事でもあるのであり、ここへの検証も為されていかねばならないが。)

10/8

人類文化の辿り来た経過や、その時にしかなかった奇跡ごとの生命としての記録を残し辿る効用は有ると感じられてはいるが、それが生活内の文化として残るには、その生活に一致した文化享受と育成の実存的な担い手たちによる最適解(とは彼ら自身の風土的最適でもあり、しかし他の多様価値との流通の(悪い意味ではないglobal化)の中でもの自分達への融合,均衡や最適)に適していなければ、他の快適さや格好よさとの比較においては捨てられる又は便宜性や快適性へ流される。 その中で、不便でも自身等の拠って立つ背景と文化的誇りのオリジナリティを保つという個人また集合内での運動は未来種子の為の現在人為社会方向への反発力ではありながら、保守的な依存傾向でもあるとも言えるように、そこにも感じたから正しいというだけではない自己思唯や反芻が求められる(考えなければ行いてならぬという事ではなく先ず行う者が居ても良いが、こちらにも反発されぬように価値があると示しておきたい故にもの提示)多文化間バイリンガルとして適用される最適解を求める能力は(自己肯定かもしれぬが私における超越と現実の適合を目指す自己内運動のように)必要と思われるのだ。

技術が記録メディアの簡便性を持たらすと同時に低質化を催し続けている(そこにも高質を求める消費は生じるが、以前mediaと同等のものを更に高いコストで再購入せねばならぬではような無駄)のが現在までの動きだが、ではアナログ(類似,相似,又は物理量)で記載されたシンプルな変換方法であるレコード版などへの方向は物体としてもの物理情報が多過ぎて電気以外の資源の消費も大きい故にも(工業製品であるからについては自個製造出来るかもしれぬが)やはり総体一般的な方向とはならぬようにも、それら生体や自然性に基づくlow techや原始主義の方向は技術肥大への対抗,反対運動的な一端でしかない(わけではないが)面が大きく全体トレンドにはならないと思われる中で、分化されるだけではない人類共通方向を見い出し、本質における到達への過程の普遍,真実的共通の 平等と、多様や自主の一致は如何ように(俺はこっちで行くのだという原生主義でも人為技術方向のどちらかだけでもなく)見い出されるのか?を私は問い、解く。

そして、それが例え過渡期の技術や使用としかならぬとしても、現在への生命を使い感じてはゆく発見は楽しい。

現在までの着物は最適性を欠いている。 しかし生産や市場との最適を求め過ぎると(宇宙時代では特に綿などは着れない。故に自身等で作るというチョイスは有り得るとしても)和服どころか(ジーンズさえ既にジャージになったように)タイツのようになってしまう。 風が通り余暇があるようにも風土と人間(生体)が合った適合と、(上流だけが着られるのではないテクスチャー等もを含めた)生産への消費量を共生へとも近づけたようなバランスの均衡が如何に取り得られるかは完全に到達せなくとも生活の利便と原生(つまりは技術と生体)へもの考察の対象であると考えられるを示しては分かちたいとも思うのだ。 (このような表現しか出来ない私ではあるが。)

では箸を使える方が良いのか、字を書けるようになるか、言葉を覚えるか。等までを含めた、やった方が良い理由は付けられるが又それも覆されるかもしれない(箸よりもスプーン又は手で済ませた方が効率的で器用さや頭と生体の直結の効用はあり得たとしても帳消し又は他の事へ能力を生かせるかもしれぬように、字はなるべく覚えさせず言葉よりも非言語やtelepathy能力や新技術への適合へ向かわせた方が良いのかもしれぬようにも)のならば、それは保守的な伝統や自分が辿った道を継承させたいという欲求(それ自体が間違っているとは言わぬが)以外の理由は(全てに理由付けられなければ行いてはならぬというのでは此処でも無い。)何であるのだろうか? それは例えばもし努力方向としてあっても良いのだとしても、行いたくない者へ対して行わせても良いのだろうか? それは正しいと思う判別へ無理強いして奪っているだけの、無用で無駄で搾取でもある努力なのではないか?という問いとも同じでありて、肉食なども同じく、そうでない方が良いという自己の真実へ理由を付けられたとしても、その押し付け又は意見言う事もすらがないという事であるのか?

しかし身近な共有関係各位に対しての自己を意見段階だけでなく押し付ける事(俺はこうだから肉は頼まない。 ゲーセンやjunk cultureは少しは認めるとしても与えない等のように、それは強制でなくとしても方向を挿し込む事も含めて)や、そこで生まれる各自の我慢相互に自由が制限されるとしても怖れず、判別,間違いかもしれぬ可能性,自己の強制をも自覚し認めた上に行為するを分かち合い(この自覚さえもが要らぬのか?又、この自覚あれば良いというのか?もあるが)響く面だけでの自然同士の共有を良しとし、ではそこに生まれるかもしれない反発や非響鳴が有り起こり得たとしてもを認めているがばかりであるのが、自個同士の基盤でありて、しかしなるべくには闘わず折り合える所だけで折り合い、意見は言うが出来ねば、又は我慢と自由の均衡量が崩れるならば勝手にしろと放り投げて共有出来ぬ不便益を受ける事もを気にしない。という事のみなのだろうか?

肯定的提示の一辺倒ではなくとも、否定方向やフォローの入れる事や入れ方も大事であるとは思われるのだが、如何なる結果もなどは我々人間に判断なども出来ぬのではあるのだからに、自分はこう感じたけど、どうだろう? いや、こっちでもあるのでは?等というように示せれば。の、これで良い。だけに至れるだけであるのかもしれない。 言いたい事を言い行いたい事を行い自分のままに在るを良しとし他者と共有できねば放り投げている。 その基本の上で、しかし相互の共有適合が自然に成り立たぬ場合の不便と利便,我慢と自由,強制と相乗などの天秤においてもに、(完全な共有が無いとしても、では全て捨て離れるのでもないのだからに)如何に最適な均衡点を採り入れている事が出来るのだろうか?という再度の繰り返しを今更にも問うが、もう苦しみの中からに惑いて見い出されていく関係や方法に歩まされるのは僕は拒否する。 上手く行く現実化の中での幸福な歩みでなければ、それが如何に私を進歩させるものであっても僕はもう歩まないぞ。と 設定し(それが超越からの社会ともの適合ではなく浅き俗化を生み出すのではない事を望み設定しながらも)脅しつける程の如くに。

この日常に起こる事象を観じ適合しゆきて、未来を描きながらも未来へ怖れる事はない、現在への私と生が揺れるを感じよ。

(以下5段落,メグmailからの抜粋含め。) 愛の意識だけでの転換も出来るようになりて来ているが、超越と現色を結びたい私のように自由だが共有も求める。 しかし、もう上手く行かない生存の中で独り受け入れるへ闘い続けるなんてのは無理だ。 もう死にそうだからというのは対外的な分かり易い説明でもあるけど言い訳でもない自身の実感であって、もう俺は苦しみと非現実化の中では無理だと追い詰められはいる。

上手く行かず、パートナーシップや人間が決して変わらない事などもの苦しい事から最高に最大限に学んだ。 でも、もう苦しい中でやってくのは嫌だし無理だ。(これも求めでもあるし、追い詰められているかは心の状況や表現次第であるが、自身の設定にとっては、拒否もを伝えている。) 一方的思い込みや判断へ押し付けられる事からは離れて、そことの分かち合いの冒険的な楽しみには在り入りて逝きたい。(逝くは死去の意味ではなく僕の中では行くとほぼ同義に使われているが方向へ向けての行く事よりも、もっと過程や全体を通して歩き過ぎ去られていくイメージの言葉だ。)

求めると現実化が逃げていくが手放せるとやって来るというのも、確かに流し去ってみたら急に来たりする事は多いが、求めていても捨てていても来るものは否応なく来る事もが多く、また方向性は大切だったりもするように、結局その求めるか捨てるかも意識の設定の部分だけであったり、又は成るようにしかなっていない現在自身への生命と流れへ宿るものを感じていく中での 現在交感が求めたり流し去ったりしていく動きに流れが付いて来たり与えられたりもする事は変わらない。 つまりは求めるも捨てるも両方だけに偏る事は出来ないとは思われ、そこにも統合の在り方方向と現在適合の最善がある。という私の考え方ではあるが、もう少し言うとこれも両方が真実でありどちらにも流れが生み起こされる。という僕の設定がそれを生み起こしているに過ぎぬのかもしれず、本当はその偏ったどちらかへ信じ込んでしまう事が絶対に正しくないとも言えないのでもあるかは分からないのだが。

越えられないものは来ないというのも考え方としては良いけど半分は嘘で、(結果論だし越えられたはずだったのかもしれぬけど)越えられず死んでいった人は幾らでもいる。 人を救う為の方便として使える事はあるだろうけど信じ込んでる精神論者とかは、自分が目の前で子供殺されて、下水に閉じ込められて、いつ出して貰えるかも分からずに死ぬ事も許されず身体が腐っていく苦痛を与えられても、人を恨まず愛をもって越えられぬ事はないと言うんだな?と言ってやりたい位であり、そういう浅い悟りと今より良くなっただけで一方的判断は変わらない人と世の愚かさが多い故にもの絶望と真の進歩と幸福への期待の出来なさは常に感じ諦めてもいる事が出来るようにはなったが。

上記の浅い精神論者の話しは勿論、世界は自分の鏡だから自分が全てを生み出している等というのも一面の真実ではありても、それだけが真実ではないのと同じこと。 自分が悪くなくとも殺される事例,事実は沢山ありて(死も生も垣根なく良いとしても彼らは肯定によって肯定が回るという意識設定を信じている事において、又カルマ的な現生以外の事は本当には分からないが彼らの言っているのも現生においての自己の事ではあるから)拷問にかけられても、自分の成長の為の恩恵だ感謝しようと、そこまでの覚悟や認識を持って言えるんだな。とは(浅き平和主義とも同じく殺され奪われても愛のままであり、対抗や暴力的な心を一切に起こさないんだな。と考えた上での真の平和主義とならねばならぬようにも)思うように、それはその場面で本当にそう言えなくても良いが、そこまで考えずに信じ込んでしまう事と浅はかさに対しての考察提起のアンチテーゼではあり思い込みによる強制による進歩を(現在よりは良いと認め共同出来る点もは探すが)根本的には認めておらず、その進歩の方向と達すべき 先を如何に共有,共同出来るようになれるのか?が真実発見過程以外の僕の課題と真実に基づく関係や適合への発見の求めでもあるのだ。

10/10,11,~

自由と共有の両方への求めもは自信もなき自身からの表れ方であるようにも思いてもしまうが、それこそが統合への希求力によるものの裏打ちと照査ではあるというようにも自信をもちて居れば良いだけの事なのかもしれない。 (それは相互のどちらかだけではない自然と人為,隠遁者と街の刺激や世俗、等もの対象さえ違えども何処までもの交換と交感があるのみであるにおける全ての事象の統合を図り採りてゆく希求力とも同じもの。) 何が正しく何処と比べて徳が高いか低いかと判断もなく、僕は自身の独自に在りて行われるだけ。であり且つそれは統合への本質衝動と役目に照らされているものだとも知るに、振り返る謙虚さとこれで良いの自信や肯定感にもの両方へと 佇む安心へ立命しては、しかし他者たちもが独自に在りて(自身から沸き起こる独自な感性や創造の自身を持ちている人があまり居ないという面もを含めて)為されるだけの世界と多様に既に在るを見ては人も皆、判断されたくないのは同じであろうにおいてはantiや指摘も入れるへ恐れぬし共有を求めながらも、基本に全てを認めているのだ。

自分のままで在り自己開示しゆきながら、その私と互いの共有を育むへ操作なく自己真実に思われる本質なる判断も押し付けず自他の壁に閉じられてはいなくとも自他の区分における侵害を持たず、しかしその私も私以外もが本来一体における流通へ垣根や言葉であるかをもを越えて達し導かれてしまうような自然な帰結が催される意識と存在の設定においての日々と流れと関係や創造の現実が起こるへの私を渡してしまえば良い。と私は必然への任せへも揺られるがばかりの根本還元へ直接に無為に為され関与する存在の力そのもの、のみへと移行していく。

会話や協調的関係の作り持たせ方などを
学術的に示したところで(背景の一つへは意味を持ちても)人々の通常知性や状況に作用もせず(文明が崩壊した後の社会には意味を持たないというように)根本的な意識の転換へは挿し込まれず且つ新たな常識というルールへの縛りや制約,規定,構築的な他律の生存などをも生み出しかねず、勿論それは全く不必要というわけではないが基本的に分類など(何の為かには依るが)あまり役に立たない。 それは科学の否定ではないが類型分けによる把握などは根本や本質への関与,影響を持ちにくいという意味であり、その性質持つ者の仕事や考察への排除ではないが、これも根本性へ向かい対する考察の方向と認識についてではあるのだろう。

全ての人の性質や流れや必然上の連関が、一切の無駄もなく関与し合い流れてはゆき質にも方向にも差別,優劣が付けられぬのだとしても、(そして幾ら本質や真実と思われる事にも判断がつかぬような知性分別上の無分別でありても)自己を超えた本質,又は流れに近付き触れる方向という生命の味わいと歓びや真の幸福の在り方,方法にも関する共通は得られる相互と一体において目指されても良いものにも思う。 如何にそれが遠く彼方であろうとも突然の変革が起ころうともの、どちらにも囚われず取り込まれず、只その自身を置くばかりの愛の顕現へと向かい歩む、ひたすらな生命の姿と流れ去り逝く現在への歩みのみが連めき果たされていくを与えられ果たし、私には観るのだ。

私は世界にして、統べてこの世を生み起こすものの一体である観入に浸して、しかしその肯定に自己にとって都合の良い現実化を催してしまうばかりの、肯定には現実的事象にも肯定のみが回る等という浅はかさには取り込まれず打ち切って、けれど幸福な生の為もの幸福な道を歩む時の結実へと向かい迎えられていく設定と超越への限定はせずとも恩恵を受け行くような生の在り方へとも移行する。

俺は此処(俺の道)を歩く。 何もに均衡以外の無駄はないのだから、未熟で至らぬ自分を気付き見返す、その謙虚さと自信のなさもに歩みながらも、判別は付かぬ選択への立ち会いという(選択は減らした方が良いような無駄ではなく)生命の用い方の歓び自体である、自身と現在への私の歌を奏で歌われよ。

no rule, my rule.
ようやく私は私のままに在るままで在る事を自身に突き抜けて認める事が出来るようになって来た(それは勿論、自身の以前からに同じだが)対者への恐れに惑うよりも(どうしようもなき自分を行っていれば、周りも受け入れざるを得ない説得力が出て来るというヨシノさんのケンさん等の話しのようにも)俺はこれで良い。 しかし他者を聞かぬのではなくて、その中で見い出される方向をゆく事に自信もって他者の見方など気にしない放り出し流し去り自身の生へ真っ直ぐに行って生きるだけの開示へとも進む。

それは僕なりの目立たぬ暮らしや方違え等の技術実践もは既に行いてもいるのだからにも、これ以上の寄り添いへ適合しようとし過ぎる事もなく(それはこれが自分のartだからと気を張ったからの故ではなく)私は私のままにを生きられる方向や環境を(それが不可避であるから。の理由からであってさえにも)目指し求め進み捨て、又は関わり自身への存在に現れる全ての創造を表出させてゆく行為へもの自在体と成りゆくが良いのだ。という事にも通じてはいるし、又はもっと我が儘に自身のみのままで他者との折り合いや見られ方にも気にせず行いながらも角が立たず破壊的解消点としての事象が現化しなくともopenな一体流通の愛に開けた存在性をもっての肯定と幸福の共有が現化してゆく、愛への解消,(調整,均衡,適合,知性判断にも拠らず真の幸福と調和,共有と統合的な共生への方向と創造)へと創み起こす媒介~media,art~体となってゆく示現の自在へ渡る存在と転換(魔法)の灯を灯すのだ。 それがこの道を歩むという事の生命過程と完成同時の価値と行き方でありて、私はその道を灯すへの創造と存在の自然な現化自体の道を、与えられ為されて、私のままに歩む。

そして最近はこのように、突き抜けているへ諦められて来たと同時に、人との流れも上手く回り始めているように感じられる。 が、少しの収穫期が一時的に来ていても又も流れ去ってしまうのか。や、待つ事にも慣れてはいるし、いつも最善が最高の時との組み合わせで与えられ来る事への経験や信頼も経て得ては来ているように安心し、少しづつに進む過程を味わいていけば良いのみなのだとはしても、やはり少しのご褒美が来ただけで終わってしまうのでもなく(その時の幸福を味わい目の前の現状を一歩ごとに行いて歩み、生命や選択の流れにも交感し全く無いよりは有り難い感謝でもあり、勿論に不満ばかりでもなく現実状況自体も柔らかくはなったが限界である事や現実化の流れが来出してくれることへの)根本的な自己の求めと必要へ結び着いてくれなければ困るのは変わらないのであり、
~10/13,~
現在の段階を負っていくには必要な道のりだけが有るのだとしても、本来的にそれは大した高望みではない(自然と生命交感の本質的な生活や存在状態に住みたいというような、又は良いものは広がり分かち合われ与えたら得られるというようにも)普通の事を求めているだけでもあるのだからにおいても、ちゃんと現実化への流れが至り来てはいって欲しいと望みはするのだ。

その者への必要と機会が(与えられない事によって育まれる面もあるのだとはしても)与えられ生かされる世へと進む転換は(それで止まってしまわぬならば)望むし、他者や社会よりも、とにかく自分は限界である。や、生き残りの為。や本質のみの 最少限へ引いて行き、生きる歓びとはこれだろ?と提示できる未来への種となる為にも早くその現実段階に至り着く事を、僕は望むも恐れぬし、それが望まぬ委ねと愛へ任せるのみの超越と人間世界尺度での二重基準での行為,提示ではありたとしても、その共生的相乗の相を目指し人間的な判断の私を置いていく事も厭わない。 (しかしそうした言動の方法と同時に超越や静寂の象形をも提示と共通への流通と心地好さとしてもに分かつ姿へ移行される事もを身へと照らす自身化に目指したいと思うが。)

すぐに完成はしなくても、その創作過程へは入りたい 。 しかしそこへ行き着く為にもの引いていくを身につけるへの生死の体験と、他の全てがvision通りに起こり最善の動きを最大にしたと思えるのに現実には結び付かなかった去年の旅と消耗も、ここに結び着いて来たと思われるように全てが完全で在りて最高が為されて来たを、待つ事すらもなく任せるのみに歓び感じるばかりだが、けれどそれでも私はもう苦しみに惑い現実化せぬ中で独り行い続けるのは(苦しみを脱する為と交換に自分の仕事を為されなくても良いという方向へは望まぬにおいて神(と呼ばれる総体の流れ)は私の全てを知りて起こすが、それでもそこへの勘違いへ動かされぬように自身の意識でも私は真に幸福に私を為される祈りへも観入する。)拒否するにおいても、真の幸福とは知性にも拠りての統合へ至る肯定と全一体の愛的状態へ存在が至る事ではあるが、真に幸福であるとはそれでさえも抜けた、只その一人一人を各自のままに揺られ行われ過ごし去られゆくばかりの生命体験を、最高に味わわれ充足する歓びへ在りゆく事と、それが他者に行われず捨て離れながらも自身がその全良へ達しゆく事でもある。が、しかし苦しみも含めての現在世界自身を肯定するばかりではあるとしても現実化へ生かされる生命共生的社会の創造へ私が(しかも、そして又それがその共生か破壊か等もの判断や操作によりての新たな業と循環を産み出す事もないように願いも置いての)苦もなく生かされゆくだけの段階や収穫へ実り乗る、その最高や幸福の質を私は方向として求め設定はしてしまった。

誰かの分や現在までの徳を消費してるだけなのでは良くないが、もう上手く行くのだと先程にも念じながら来たところであり、事故などで解消しなくても結果には何事もなく少しの機会位で済んでくれるのならば悪くない。

私は光と愛(とも言い得る存在の状態)では在り、しかしその為が故だけではなく意識や祈りが向けられていても居なくとも私化してしまった、既と常在のままで在りての光と幸福と平安と調和の浄化,媒体であるにも至った事を意識の設定,操作だけではなく感じられている。 それは意識に澄んでいない時も意識の質に余計で雑な人間影響の受けるもが少なく、沸き来ては在る意識の性質,底辺が澄んでいるに済んでいるを感じられるが故にでもありて(多少は揺らぐ事もありえるかもしれぬとも)もう自身の基存,基盤化へ大分には達したを感じているからにでもあるのだ。

歌へのflowが常に出るわけではなくなって来た事への意味付けや、又は人間との折り合いが取り易くなった事,付き合う相手の種類等も俗化したからではなく、そこでの調整や遊び方も出来るようになったからであるとは思いたいが、如何なる意味をもを越えて只、私に為されるを受けて流され任されて、自身の望みと必要へ感じた選択と方向への設定の現在を生きるままに流されてゆくを楽しみ遊ぶのみの自在となってしまえば良い。だけが有る、へ充ちる私を私で在るのみへと渡してしまえ。

連関への物事の起こり方を予測し備えるは良くても、そこへの制限や無駄な予測などは必要もない。 潜在的感覚の想起やvision等というのも、そこへ流される現在の行動動機づけの為の幻想でしかない。 しかしその現在と生命を味わい受ける歓びで在る以外には、必要への望みが果たされ現実化へ至る迄は常にそこを求め続けなくばならぬ状態と不満との均衡状態が続くのか?において、しかし物事の流れの進み方の順序や、この必要を経て次にはこれが来て。等の段階など踏まえる必要もなく結び着いた時には急激な進展が有るかもしれぬというように、予測における準備や進行の方向は思い描いても良いが、如何なるが自己設定づけ等も柔らかく対処し在れるように在りて段階判断は愛への一如の私であるがままに成るのみへの委託へとも叶えられるへ、吹き飛ばしてしまえ。

そしてでは機会あるからといって拾わないかどうかにも、流れと自己と他者と人為にも依る最善が起こるばかりへ動かされる一端種子であるが私に感じるばかりへ流されよ。 しかしそれは囚われに拠る苦しみに惑わずとしても、その自在とは囚われではないという思い込みの肯定だけでもないという真相性の中でもに自己を向かわせ導く方向の設定に因りてにも流されるのだと、私は存在に行い方と方法を世へと解く。

愛と幸福を生み起こし、(苦を持ってにも与えられる成長機会としての最高,最善ではなく現実生起への流れへ、しかし肯定が肯定を引き寄せる等という思考範囲の限定にも制限はされず、囚われぬ肯定へ囚われる事もなく自己と示現のままに各自多様と必然を為されながらに、その方向は)最高な流れへともの最善へと引き寄せ繋ぐ結ひの結実へ達し実りを受ける事の出来る私と世の全ての者への希求であるを生命,生存に置く私の日々との連関に私は学び続け、深くから湧き立つ地湧の菩薩と仏陀なるが心にもほどけ超越へと突き抜け越えた一体の自由を歓喜と奏で、私は人に在りて人に非ずを逝きている既なる"Satchitananda"の
実存なる真実、意識、至福の存在を流れているが歌の自身なのだと軽くまといて世界を渡るに渡しゆく、現在の祈り以外もが私の望みも経過と現状もの全てが任せるのみの、生存の味わいに遊し佇み引いている、私は生の歓びを知るものの愉楽に生きる者としての存在を奏でる。

自在と自由と存在のみにも達し深め結ばれた、この詩を詠う者にして、望んでいてもいなくても、来るべく流れは来るに日々と私の適合を泳ぐ。

10/14

暴動の効用においても如何に対応しゆくのか等へもの私は、私と世界の最高なる愛,光,幸福,調和,歓び,自然,などが一体と七つのkeyにも宿った虹の戦士と、もうなったのだ。

気付いては(気付かなくても)光を当てる。 癒しと上手くいくが、成る。へと、意識を澄まされていく。 状態や行為の内容にも依らず、成される私はそれで在る。へと、追い詰められた事にもよって自身へ納得し(設定による制限や業的なくびきの再循環を生むへ経ずとも)設定出来るまでになれたのだ。 肯定的現象を生む為の肯定ではなく只この生命の肯定は楽しみ歓ぶ為にあり、では徳の消費でもなく私には全てが上手くゆくという設定の云われの説明は肯定が出来た為に起こるのではなく、その段階への存在(肯定も含めての)にもよる流れが化され来たと感じられる中での収穫の内容と方向への設定を自身に納得出来るようにもなった、操作なき自然による少しの傾向性へ関する操作が宿ったように感じられる(本当にかは知らぬ)という事であるとは言い得ていけるかと思うのだ。

捨てる事で先に進める等へも得ようとする事も、捨てなければならないだろうか。は必ずしもであるかは分からず設定はせず、私は任せている流れに為される中での意思にも宿る、宇宙全ての流れが想起する世界の自身を観る者だ。

人の受けた災害などからも自身への在り方や世界の様相を知り、思いやりに寄り添いながらも慈悲とは、しかし常泣観音からの卒業でもあるように人の事は人の事と突き離れた冷たさ,客観にも在りては自身のみが如何に世界へ行為するのかへの生かしを行う。 災害や洪水などもが業を浄化する為や犠牲の効用の為の必要であったなどと言ってしまうが例え正しく役割のみがあるのだとしても、そこへの優劣的判断の差別や区分へ至るような増長,傲慢は、もう私に負いて来た経験に拠りても、せずに済んでもいるのだ。

深く観渡し人間を捨て離れた人間でも在り慈悲で在るとは、そうした短絡的ではない全体包括と生命混交の交換にもおける真実発見への希求。 私のままに在りゆきて、それが私に言えること。 ならば、考えるな,感じろ。のような言葉での人間意識を次の基層底流の段階へとブラッシュアップさせるへ僕にも言える事は例えば、行うんじゃない,在るんだ。のような言葉であれば開出できるのかもしれない。 定義付けや哲学的な構造化を伴わぬとも硬度で深いが、しかし操作ではなく方向を分かち共通の潜在的な感覚や共感へとも響く。 そのような言葉と言葉への説得力を持つ存在,生き方,表発へと化せる私の創造を持たせたいのだ。

142 9/24

142 (/16e)~9/24write~。

僕は繊細に過ぎるのかもしれず少しの事で傷つき又、自信がない故にも惑いたり説明を置き尽くしたいとも思い減らせぬ怖れによる行動原理もはあるが、感じ易く傷付き易い事の自体は(傷つけられて来た故にも少しは過剰反応もするが)世の悲苦を知りて寄り添うにも良くないわけでもない。

良きも悪きも(全ては完全であり善悪などは無いという面からではなくて、この相対現況の世界における)両方の自身を持ち、その両方を問いかける空の既なる完成自体と現色の二重基準的な分別,方便の作用を持ちて行為する自分は、例え世間や人為との折り合いや現状への対応となる自己人為を持たせる必要などなく突き抜けるばかりが良かったのだとしてさえも現状の自身には納得されてはいるものであるようにも、その自身内面の働きと現在状況を批判されようと私は、次の段階への進展へとも与えられた現在が最善的に進み変化されても逝く流れに流されている。と信じていられてはいる。

そして存在と創造と表出へと向けてのみに済ませられ救われている面もあるが、それを良しとした事への依存でもあり、それが出来るを与えてもらってはいる恵みの両方でもある。

しかし自身役割へ為されている自覚,自負的な誇りと肯定感は高い又は為されるしかないのなら覚悟してにも行い仕方ないとも諦めてはいるが、それが愛の存在に任せず空のみになれず業の出方を背負わされても与えられたならば行うしかない。と、自身の業の深さを、しかし納得によって再生産してしまってもいるのか? (又、徳や業へ自身意識を引き寄せられぬばかりでなく、その判断や解釈で済ませてしまわない事も大切ではあるが。) しかし役割に与えられたならば可能性の全てを行いきろうとするのではなくとしても、流れを繋ぐと同じく行われるを覚悟して為される又は為すにしかないのではないのか?

というようにも何を得ても見ても、自身の自信の無さともなってしまうのだが、その揺らぎや聴き取る態度の中で私は根本的な本質性の基準や在り方というものへの問いを問い、解き繰り返し削り出し磨いているのだから(もっとはっきりと自信を持って言えば伝わるものも有るのだとしても自信なく伝わるような言い方が出来るかどうか等の副産物は、どうでも)良いのだ。

だがしかし謙虚な聴き取りと意見や行為の発信は両方とも私の現在にも為されているのだから良いのだ。と再確認し続けなければならない、これも自信の無さ故の私の業的な心や働きによるものでもありて、その先に固さではなく柔らかく囚われず聴きながらも、もっと自信もちて立ち、その度に揺らぐのでもなく創造や表現へも突き抜けるへ貫いた存在からの開花へも至りたくは思うが、ここでも感じ発する事と他を慮り寄り添う事のバランス等が常に問われていくように、全てが統合と完全と役割と自由である上の交感と選択の問題であるへの問いにも結び着き、しかし既なる私と行為,表出にも適合,均衡は取られ成りて出来ているには(それを傍目では理解できぬ人たちへの伝える説明(は自分を分かってもらう為でもなく、その問いの過程も到達地もは共通で根本の為にも)は入れる必要機会が現じて来るのだとしても)もっと基本的には釈然と納得して余裕を持って立ちていられても良いと思われているという事だ。

(業とは仕事やワザ(術のような)でありながら、やはり因果と連結のカルマ的な業の事でもあり、自身の行為や選択に拠るものも拠らぬものも含めてではある又はどちらかであるを言っている事が多い。 そして解消点などと言っているのも同じく、自分の意思などを超えて為されているを受ける事,意思として選択し仕方ないから行われる事への対応を行うなどもの両方であり、しかしそれらはやはり為された事を認めるか為された事へ対応の行為を為すか?の交感と選択の幅の問題であり為されるという運命性を基盤として組み込まれた一体性へ既に一致されてはいるものだ。)


愛のみに溢れゆく変革の道と存在で在りながらも、何があっても何を見ても、哀しい哀しいと助けでも求めなければやっていられない程の不安や怖れにも立たされる。

その中でも自分と時の織り合いを自身への置き方で紡いではいるが一般的人間の自然的なリズムや着地,着実性とのペースなどでは会え(和え)ず、また相手の提案に対して自身の意見も伝える事で互いの相違と理解とが通じ合えるのでもあるのだが、しかし正当化ばかりと捉えられてしまうかもしれぬ程に自分の固さでもあるのかもしれぬとも(そんな事も又は只の杞憂かもしれぬが)、それでもそれはそこに安息してしまえる依存だからではなく(安息できれば未だ良いとも言えるし生きているだけで、それもは良いではないかの開き直り部分もはあるが)聴くに感じ取りながらも、それしか出来ない又はそう感じている現況の自身を伝える事は流通にも間違っていないと思われる。

他からのアイディアを生かす余地がなく、自身状況により(人はすぐ勘違いをするが心によってだけではない現実的な状況にも拠るのではあるし又は心のみにもあっても)制限されている私ではある(皆そうした自身への環境や出来事,経験などだけでなく役割的な必然や性質にも依って制限された自己への存在同士である当然を、あまりにも理解していないようだが)。が、ではしかし人の意見を聞くとしても私のように取り入れようとし過ぎる必要はなく、既にも相手をしかと聴いては、相手への必要か又は意味も分からずとも置く必然を感じてかの流れへ交感して対応する(自身経験からも、そうではない例え等からも伝えたり挿し込むのみの最小限や熱量の入る時の使い分け等も出来ている。)の作業は出来ているし、そこへ更にの自身を進めてもいるが、では自身に理解された自身への制限,現実,役割や必然的な流れに拠りて生き現時点で受け入れている事を他者から批評,批難されようとも、(その他者という世界からの気付きや視点からに見られ得られた真実の一片を、振り返り立ち会う機会とするは良いとしても)そこへ自分はこうであるからという説明をしてあげるのは、その対者が違う価値観や見方にも触れる機会の 提供でもある。 そして又、出来る事と出来ない事の判断は他者との間にありて発見されたりする事もあるが、やはり基本的には自己内面に問い達した方が外的には最少労力にして真実性へも深く達せられる道ではあるとは言えている。 その両方において説明を加える相手の真実に対しての意見や否定もを(例えそれが聴かぬ固さと思われても、それは俺の真実が正しいのに何故に取り入れぬのか?という自分勝手な感覚性である事が多い相手への対応としてもへ)加えるを怖れず肯定的な調整の役回りだけではないような指摘的調整(しかし否定の効用を此処では言っているが否定を積極に肯定しているものでは勿論に無いが)もは有りて良い中での、肯定と否定のバランスにも立ちた実に既なる柔らかい自分は成され在りてもいると言えるのかもしれない。

つまり話し会わねば分からない。においては(言語外の沈黙も愛のみの存在も私には既に一致し結び付いた価値観でもあるが)僕と他者互いの真実を伝え合う事の価値は現実対応への基準において有りても良いのではあり、否定や押し付け感性への否定や指摘も価値観の機会の提供であるように(各自にはそれぞれの必要,制限,役割,流れ,性質,などが有る。を伝えるにおいても)聴いて立ち会い、自身への反省だけではなく意見を言う事へも怖れず、感じては意味や結果にも判断出来ぬのだからにも自身を行い、しかし自己の研鑽現在と過程の到達より下位の説明を加え続ける事での対応は労力であるとしても囚われずに立ち会いては対応する遊びとしてのように振る舞われれば良いのだ。

だがでは全てが自由だからといって感じたままに現じ来る必要ならば繋ぎ行いても、行きたいところに行き言いたい事を言う。(映画ではguevaraが言っていたように)だけのままで良いのか?

(又は rogue one や西部劇などでものように運命的な流れとの適合に流されながらも、基本的には自身の思いた必要と信念を貫き各自が自身を行う。においては正しいと私には思われているようにも。 貫く以前に、それが本当に正しいかなど分からず自分には見えていないものがあるかもしれぬ。という視点で立ち会わねばならぬとは思うが。)

言葉や関係も(文章化の部だけではなく、それ自体が)、流れを繋ぐ作業でもあるというのに、話し合いて結論への納得作業を進める事や又そこへ付き合う大切さや必要性はあるが(これも流れの繋ぎ方や選択と同じく)これは行うんだと自身内の真実に決まってしまった事は例え押し付けてでも(付いて来るものがあれば付いて来れば良いというように)結果をも怖れず判別せず行い通せば良いのみであるとも言えるのか?

対話の効用があり、共に共有を育みていく価値を解き伝え作りるへ働き来ていても、冬に南米に行くのが必要だからと自身の必要を押しつけて良いものか?とも同じく、そこで話し合う事で又も見えて来る事は互いにも有るとしても自身内面に感じられた真実が見えてしまっているのなら、そこへ双方納得の為の労力を用いる作業や落とし所などを共同で探す事などを打ち切って、例えばタイで子を産むが良いと流れ感じていても相手側の両親の想いなど自分以外の人為へ合わせるを選んでしまったが、結局は同じ結論へ戻って来るならば最初から、もしそれがキッカケで嫌われようとも感じた正しさならば従わせてでも貫くが正しいとも言えるのか?

会話に依る落とし処への共有であっては僕は相手に合わせ従ってしまうもしまうか、その自身と人為の板挟みにもなりて柔らかく解きほぐすような方法は(今のところは)取れないのだから、伝え分かち合う事よりも上位に、貫くへ突き抜けて自身だけでも勝手に行うのみがあるのだとしたら(その面でメグの感覚のまま僕や気持ちも考えず自己のみの決定を強制させ切るという選択は正しく)、現在の世にも行われている力の対立と強者のみが強く勝ち得られる価値や理論となりても良いという事か? (ある程度の基準や既なる自身化はある中での、全てはそれらの試行,実験や立ち会いでもある。 これらを私には迎合と強制の問題と言って来た。)

結局は対者間へ落とし所を付けられたとしても、その満足感よりも遥かに、この自身内で整理つけられていないと結局は納得が出来ていかない事にも又も気付いたようにも(よく人は、世界と私は同一だから自身を無くす等と深くもなく(深さや真実からの浅き表面性解釈での劣化版)に言うが、ならば)同一であるといった世界の相の中での自分のみが在る。のが正しく、分かり分かち合わず納得の均衡点も探らず強制でも各自の真実の対立同士から世界が進んでいく事の方こそに理も意味も正しさもあるのか?

それは、その対立も辞さぬが積極や過度には奪い過ぎぬという規制線を設けるような共有ルールや離れて自由に行えば良いというような共通認識を入れていく程の関わりが目指されれば良いという面や思想だけでもなく対話の効用を省いて勝手にやったのは仏陀も同じだったようにも、即ちそれが正しいと結論づけたのではなくとしても、又これらは自身の経験と現状に何が起こり来て行いたのか。へ引き寄せられるのではなくとも、そこからによりて又も考え深める機会としてのものでもある。 故にも、これらは人の考えるように思考的思索ではなく知性的な形への化し方へと現れ出して来る、潜在や本質の紡ぎからの観察的結果の過程であるとは言いても置く。 又この故にも、試みに遭わせず我らを悪から救い出し給え。ではありても、しかしこの迷いによりて生起する真実への探究は尊いと存ずる。 これも、(自身状態と行為の説明には繋がってもしまうが)常に私は空と色(現)を繋ぐ(全ての極相)統合の為の私であった。<秋分祭,日記から

奉納の意識や言葉がいつものように流暢に繋がらない、現在は普段からもの意識状態であった自分に在るにも気付く。

人へ言えたことも良かったが、それも慶澄さんの根回しや神仏のおかげだったのかもしれず、僕のやった事の成功体験としての結果には意味付けられないかもしれない。

相撲もライブも悪くは無かったが素晴らしい出来というのでもなく、やる事や時間に追われながらも(護摩焚き等ものように)何とか間に合ったが中途半端で未熟な合格点(皆は良かったと言ってくれたが)というところか。 しかし慌ただしくも、いつもと同じような質を出来たのだから、毎回進展させる事への完璧さに自分が囚われているだけで、こんな自分でも皆のお陰で出来たのだからと感謝のみしていれば良いのだけの事なのかもしれない。

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9/27e~

結局、愛で在るも伝えるも相手が変わるかも打たれる現実が起こるかも、の全ての事が言葉を超えている。 そこでどんな働きをしても結果は、その行為の質に拠る連関でもあると共に関係がないとも言えるのだから、愛のみの存在で在る肯定と充足の歓びを目指しながらも(自分の思いを伝えるでなく何を思ってもらいたいかを伝える。と草の言った事についても、それは方向としては正しいかもしれぬとも、それ以前でしか行えない者も居るとは思われるし、又は愛だけに在りて語る事もない,少しは言う,説明する,否定し返す,等のどれを取りて(その中での成功体験もあるが)方法は試してみても攻撃される時はされるし実際にも多いので、技術や自己への変革だけではないと思われるようにも)、そこに良き解消への調整が出来たのか?の質や自分にはどんな提示や関係の方法が有り得たのか?等とも関係がなく、人智を超えた大いなる力が世や私たちを起こしてはいる。 私たちはその必然の一端に過ぎない、我等と各自の選択へ立ち会いて流され、しかし私は外へ超えた者として、その流れ起こすものと力の源に触れられるかもしれない。 しかし役割としてに為されるを観ては諦め納得しあるにしかないにしても、現生的私の選択の納得点は必要としてもいるというような事だ。

全ての判断や状態が理解できる故に(真に全てが理解出来ているわけではないが多種の多様と理由を観ようとはしていられる。 それは当然の事のはずなのだが当たり前と思われていない故にも知性や気付きを言わねばならないが。 僕にも全く気付けないファクターがあるように、それは能力への優劣づけではなく方向としての共通や慈悲などとも言えるものへの説明でもあろう)揺らぐ柔らかさと弱さの同居にも在るが私も、しかしその弱さは例え自信なく人との交流へ映せないとしても老子の説いてくれたように、謙虚である方への価値でもあり伝えるよりも在るのみへ引いてい道の良さと既の結合なのかもはしれない。

流し去ると向き合う,迎合と強制。などのようにも統合への道を逝きながら、しかし完璧主義ではなく解け、与えられ行われた事に判別もなく感謝して在れば良いだけであるとしながらも、意識の質と現在存在の私が俗化しているのかもしれぬなら、そこには取り戻す均衡の為にもへの完璧を目指す方向運動の意味も有るかもしれぬがように、やはり囚われぬが遊びに在るかどうかだけ、が在るのだ。


現在の時点状況の自身が、例え祈りや平安の境地へ全て流し去っていく愛のみの希求方向よりも現実生起の利益などへ流し去れぬ欲求の俗性へ向かっているのだとしても、それは一時的な現在への必要であるのならば良いが、もしかしたら私は死ななかった代わりにもう進展ではなく普通,一般的な人間となるへと失い続けていくだけの存在になってしまったのではないか?と(年を取った故の固さのようにも又は音楽でのflowを如何なる状況でも出そうとするのではなく普段は節制しておいても本番や必要時にこそ出せれば良い段階になったのかもしれぬ良き捉えの面はあるが同時に、もう何時如何なる時にも自在に出せる自分ではなくなってしまったのかもしれぬ恐れにもあるように)襲い来る不安にも光を当てながらも私には、身に付いてしまった絶望と自信のなさや不安などが肯定,充足,光と愛のみの 存在意識であるとも同時に宿ってしまいている。 それは先にも言うたように統合への相対運動ではあるのだが、肯定へ意識を融かし変容させたからといって、現実がその不安や可能性を起こさないとは限らないようにも立ち会いておく必要(又は如何なる可能性も観じない。というのではないのならば)は有るようにも思われる。 そこに気付いた可能性のお陰で、そうではない光へ解く意識を当てる機会とは有りがたく使用してはいくとしてもに。

(エネルギーの消費量としてもライブ等の仕事に一つ立ち会うだけで消耗が激しく、これではそのやり方ではやっていけないが、ではライブではなく流れに合い気分の乗った時だけに勝手に歌い創る吟遊詩人のような在り方でも良いのかもしれぬが金,旅や拠点などのvisionと設定の為にも、又この存在を持って(まとめ拡げてくれる人などが在り付いて来れば)質も高めた形で世界へ置いていける価値でもあるが見えているのに勿体ないのだから、自身がどう想い在るかに関係なくとも生かされる世界の必要がそこに結び着いているとは思われているのだ。)

実力あって生かされないのも、実力なくて生かされてしまった者も同じく辛いだろうが、しかしこれだけの質が生かされず人の間に上手くもいかず認められず響かないのは、何故であろうか。

人為を自然で対立させるのではなくて愛の意識ひとつで解いていくとしても、(実際には自然から離れた操作性に高い事や共生的連関や帰決と対立的な関係であるにおいて人為は反自然的とは言えるが。)この流れの代理者,流れの媒介として、人間世界に流れを生んでいく主体の多くの部分を人間が担っている以上、そことの関係は避けて通れない。 が、それでも突き抜けて、切り倒される樹々の言葉も吐ける代弁者とも思わずに全体に通じた者としての自然と大いなる流れ自体に触れて任せたのみの全一の安住に在りゆけばのみ良い私への進み方の先なのか?

人為と自然は対立ではなく人為という進展力や操作,判断の人為自然にも愛や共生を挿し入れられるか。の慈悲,共感的な理解への交感が必要であった事を説きて伝える事は出来る人間的自然の私などもの必要であると思われてはいるが、それさえも肯定の超越にして流れの総体に至るのみを目指し言葉や行為の最少へ設定し越えてさえも(それも操作と上位概念化した人為に過ぎない事の問題は残っているが)に在るがだけで良いという道が本当に在り又、私には選べる納得点とも成り得るというのか?

人為的社会に定められた価値観や規制から離れて自然的な本質性への(それが本質であり正しいとは言っていない)自分,自由を優先させて良いと思ってる自身であるが故に(そこにもっと自信持ちて貫いていれば良いのだとしても)それが目立つ故にも何だあいつ?が人々には溜まり目にも付き易く嫌われたりしやすい、その役目を負わされてしまう面もあるのか?

忍びのように気配を消し溶け混む。という話や能力の問題も確かにあるのかもしれないが、しかしそれを見せるのも私のartではあると思ってはいるのに、それが自身の固さなのかもしれぬとしても生き易く生きる事へ自分を貫いて生きられる自由には程遠い人為的義務と判断に捉えられた世界の上で、それは違う。 止めてくれと言える私を為せる事の価値は必要ではないのか? (それを行いても良いが只そこには打たれるであろうという自身への覚悟を持って行うというだけの事なのかもしれぬとも。)

自然の流れからの対応を人為の世界へ与え当てるのか、自然力の存在と創出のみに在りて後は只全てを任せおくが良く、やはりその方向のみへと自身の納得点をも向けてゆくのか? しかし私はそれが俗と欲への退行であるかもしれぬとも、創作,表現であるからというだけではなく自分に思ったままにを表して生きたいという当然のような自由(本来の自身への、でなくてもの)を欲してはいるし、そこへ言いたい事があるとは思ってもいるのだが。

私は高く人為人間とってのヒマラヤの高峰であるが厳しさも有りて与ふも奪うも差別はしない只の自然で在るからに、登りたいなら覚悟して登れ。 しかし人間がゴミや人為に持ち込んだ意識で汚すとも、それはそこへの囚われ的な対抗ではないとは放り出しているというようなものか? それは高位の神のようではありて 全一の神ではないような自身自覚の上にも行われるようなものだ。

自然力であるがままの私を顕し、繋ぐ能力と繋ぐ事への肯定,納得,主眼は在りての私においての創作(存在も言葉も)に在りても、しかしこれらの課題は人と上手くやれるようになっていく為に来るのか、もしくは人の世から離れろと言われているのか?とも思われる程に来てもしまうが、出家や遊行の徒となるのみが良いという方向は私にはなく(その性質的な私であるには取り入れながらも)創作者として(私は0を1~に創み出す者だが、それを100や1000にしてくれる者との出会いと共同を進ませる事によりて成り立てるような世界を望むし、それが来ねば私はこんな社会へ対しての良いと思われる共生方向を(囚われの形によりても、囚われずとも)示したいと思うだろうが)生きたいという、その答えは分かっているし現在も、離れながらにも出来る事には関わる。程度のポジションを既に成してはいるとも言えるのだが。

9/30 (mon)~

そして自分のままで在る事から付いて来るものがあれば良いというスタンスであり、隠密活動が仕事ではなく(時には必要なので練習しておいても良い位ではあるのかもだが)自分で在る事からの開花や自分で在れる世界への形を見せていくにもの私のartの仕事を恐れずに突き進めば良いではないか。 (その自分のままの自分の基準や全体の統合,本質の普通などが何処にあるか?は勿論に問われるものだが。)

その結果は自分で受けるのだし攻撃されたり叶わなかったりは辛いという状況や弱さは有るが故にのものでもあるが、それは
流し去りて引いていく事によりて、しかし自身への最高が為されるへの望みには在るのでありて、人為意識の引き寄せ操作ではなくて、人為を越えた最善の必要に乗る為の魔法ならば良く(本当にそうなのか、や魂的高さからの流れに乗りて創る側と成る事が正しいかは別項にするとして。)それが世界全体にも渡る均衡の取り方と関与だとも言えるのではないか。

全てを光の存在と体験価値へ融け込ませていく私には在していきながらも自身問題に拗れひねくれ、それが悪循環を生み出しているというわけでもない。 こちらの原因以上に(人間都合などに上手く合わせられないという自分の側の原因と、それを嫌に感じる一般感性との分離は仕方ない部分も分かるが)それ程に責められたり否定される程の事ではないとは思う。 それでも彼等の問題の解消点とされる事は(大切な役目や徳への業と必然であるのかもしれぬが)避けられぬのであろうか?

打たれて来た事により、その人の気持ちへの思いやりよりも、それは違うんじゃないかという方を優先させたくもなる僕の側の過剰反応よりも、それ程に害されているわけでもない人為性内の判断で動いている人々の方が過剰反応し押しつけて来るが、それは良いのか?と言いたくもなるのだし、それも外れた者を打ちたくなる divide & conquer の洗脳の内に人々が在る故からの弊害に対立,疲弊させられているからでもあるのは分かるが、対立してでも言わねばならぬ(絶対の必要ではなく流れの為や自身の納得にもの)事や試しは愛の存在として流し去るだけでなくありても良いのではないのか(全てが有りて良い意味でなく統合に近い基準でも、つまり聖者の言葉の指摘面であるも良いというように)?

統合と肯定の境地に在りて言葉を必要ともせず(遊び的な交感以外は)愛のみに在するとは価値であり叶えられた宝玉の至福ではあるが、自身に宿された言葉での役割が、その時の自身に感じられたままに起こされたならば、(潜在に繋がりたtolking circleのように、他者の流通に聞き取りた流れの中でも自分に感じられた言っておこうかな?という事は紡がれたままに置かれても良い(それは置かれなくとも良い遊び方の選択ではあり、自身が為さなければ他者が行うへとも減らしゆきて彼等の業の達成役割や変転機会を奪わず与えてやる事も大事だとしても)だろうというようにも)反射的にも選択し行うが良いのだと思う、その選択への自身を存在の現在過程の置かれ方と共に磨くゆくのみなのだ。

No limit, No rules. Freedom ! But fusion to the integration, for the common truth of this world deeper consciousness !

突然に頭の中で涌いて来る鍵となる言葉,ホイジンガ、そしてホモルーデンス。 調べてみては思い出す。 遊びによりて進化する余地が発展して来ているとも同時に消えて来ている、そこにも質が問われる。

ホイジンガは遊びに、「緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決」などがあることに驚くのだが、これらホイジンガが列挙した言葉は、ぼくからするとまさに編集作用の特色というものである。ただ、ホイジンガはそれが編集作用であるというよりも、あくまでそれが遊びだと考えた。「遊びはものを結びつけ、また解き放つ」 text by 松岡正剛

普通など無いと言えるとも、その共通,普遍,統合の普通はあると思いて探すと共に、私はそことの近さを感じ自身がこそ(誰もがその者自身の普通で在れば良いのだとしても)が普通であり現在世界の他者が狂い過ぎているようにも思っているが、その基準への方向は示されても義務に化されるへは私すらもが拒否する。 例え共生と幸福への道であろうとも操作,強制では駄目なのだから、そこへの囚われは身近でも遠くの人為や人間に対しても捨てていく中での共有の在り方を、為さずと為すの適合においてものように磨き築く必要があるのだ。

そして私は意識的な転換性のみでなく物理的にも気付いたバランスの崩れに対して、顎や顔の筋肉などもだったように最近では目の焦点のずれの整合を取ろうとして動かしたりしているようにも、均衡を試し続けている元からの性質に日々を生きている。

けれど魔法的操作も人為かどうかも結局には関係がなく自分がどう思ったか。をやるだけがあるのでもあるにおいては、その質を共通的本質への統合での普遍的な普通への自由や遊び方として自分たちの良い方や相乗へ突き抜けていくに在りては、他人の決めたルールや常識に縛られる事はなく、(合一への連結に置かれる自身をそことの適合へコミットするは大事でも)科の語源のようにも結ぶと縛るは絆とも同じく世界の連なりの奇跡と自身責任を放棄できる(勿論それを為す自身の責任はあるが)楽さでもありながら逃れられぬ運命の縛りと、感情や知性ありて痛みもあるのに為される以外の選択肢がないという哀しみの同義,同一でもあるように一体が私たちに運用されてはいるにも過ぎない我々が在るのだ。

地獄への道は善意で敷かれている。というようにも誰もが自分の最善を為そうとした結果の何処もが悪くなく人間的選択として(キューバ危機でのソ連は米への対抗措置だったし、又は"博士の異常な愛情"で自身に出来る人事を尽くした一人のカウボーイpilotによって滅亡が起こるようにも)そうせざるを得なかった1人1人の結果が必然的に繋がってもしまうように(そこにも最善というものへの人為の質や置き方が問題ではあるのだが)どうしても繋がってしまい為されるしかないのだとはしても、しかし自身の意識は自分が正しいかは分からず測れず振り返り、押し付けぬようにとも気を付けていなければならないとは思うのだ。

人々と人為なる必然により引き寄せられていく連関の影響は(私達には)計れないように、俺たちは役割上の駒なんだ。 流れが私たちを、演じているだけなんだ。

未来を感じる時は用心が必要だ。喪失への恐れは暗黒面につながる。(by star wars)のようにも、与えられ起こり来る流れを受けるまでのみの我々ではあるとしても、欲望へ取り込まれるマインドの苦しみを経ぬ(不安や怒りからの現実の生起だけではなくて)過程を常に歩み至れていれば幸福ではあるが、流れ受け任せるのみの充足は心や現実の状況にとっては難しく、また欲求とは区別されるべき流れを感知した事からの期待であるによる動きを抑える必要は(それを為す一因子として)ないのだから、(人々はそこに区別が付いていない。)では流れによる期待は欲求ではなく又は欲求と感じ向き合いたところからの感覚のままにも気付きゆく事との区別もは出来ず一体である上に、それが流れからの必然か欲望や自己の囚われからのものであるかの選択にもかけて選びゆくに未来は流されていく、現在への交感に在る。 この過程を持ち、向き合い見い出してゆくのだ。 流れを感じ触れゆくが必要なども最終的には無いにだとしても無を知りた故での如何なる現色に帰り来ては行うか?へ化すか。が我々の生命の旅路に与えられているのだから。

~10/1~

I'm the one of the (force that) love & light in enlight. I'm a art of being this life in total creation. I'm a presence of this moment which in eternal wind over blow.
Univerce is birth in now on this nature flow.

I'm the one of this perfection grace of great mystic & spirit relation. How wonder & amagings is in our precious circumstancies. I'm consumes for this taste of life & it is creation of natures our selfs.

私はその自然の流れ。 一体に在りて吹く愛と英知の既なる象り。 高くとも引いていく水のようにという声にも応えて、弱きものたちの柔らかさのように、自然が起こしていくに在りて従い為されるがままにも化されゆくという道もの自在を問う存在。

人間に合わぬとも、私は真実へ向けて生きている。 それが幻しかもしれぬとも私には、そこへ生きたものとしての納得と歓びが報奨のようにも揺れていくを為され与えられて生く在り方に存在の風を吹かせて、自由に翔ぶ世界を虚空の味わいと共に。 状況によりて 左右される弱さはあるが、自負と自信の無さの両義を抱えて(しかし高慢にはならず)自身を通して善き世界へ向かい現ずる事へ願うとも灯して、求めるは愚かだがという人の声をも上げる。 私を越えた私自身が既に私を知っていて全てを総ているのだと知り任せると望むの狭間にも私を打ちている。

合わぬなら別に共有しようとも思わず離れているもは良いし私にとってもそれは当然ではあるが、排除的に否定や無視したり打たなくとも認め合いた状態で進む事は人間界には出来ぬのか? それがこの修羅なる現況世界からの故だとしても惑う人々の、強制,怒り,受け入れる者から奪い,何処かへの歪みを作り出さねば気が済まぬ性質と経過の結果を持って現ずる世界の相へ、そっと提起も出来るのは、自然の徳や美を置くに解いた聖者たちのような提出の在り方を自然の私に為されることか。 ではそれが成るかへの均衡が私にとって取られていくかは知らぬとも、その存在は詩のようになるのだろう。

安易な道ではなく私は真実が欲しかっただけなのだ。と歩く道の上にも咲く花の残り香のようにも悠久が渡る時の流れは、人為を越えて逝くが如くに、吾は独りとも人為から離れ、しかしその存在の流れ方と姿を世へと映すへ共闘してくれるような仲間と出合いゆくような現実をも望むのは現実化へだけでなく、その孤独や人から打たれる事が痛いからという私の弱さでもあるに、この哀しくも生きねばならぬような人の悲哀を背負っては共に生き相乗される世と象りの為され成される事へもの想いを望みてにも吐くのだ。 そこに付いて来てくれた、あなたは(未来が何処へ流れるかは知らねとも、少なくとも今は)尊い

俗化ではなく、これもまた高く突き抜けていく私の為の、しかも幸福に歩み生きられるようになった結致点の(過程の一経過点だけでなく)流され方であるのだと思われていたい。

共同の為の共有の難しさからも離れた案寧へとも渡り離れて、では均衡を生む為にもと行った、私によりての問題が生み出される時もがあったとしても結果などを知らず為されるままを受けては為されるを恐れぬ私への力ともなるへ神のような流れの威光と導きを私へとも果たせよ。

しかしそれでも、人の間に在りては抜けているしかない孤独でもある時の痛みに耐えねばならぬ事は(もし少なくなるとしても)あるかもしれぬとも、孤高は自身を持って実在へ向かわせ突き抜けていく能力と証明(孤独が故に超越であるという証明ではない)でもあるのだからに、俗世へ交わらずとも抜けて生き、しかし人との交流にも実のところ(打たれなければ、又はその現実的な疫病や関係間リスクの問題との考慮,均衡は取り、試すが。)私はオープンでもあり閉ざされてはいないが、打ち来る人世の強制に、添えぬばかりのものもある。

(以下、10/3,write。)

共生への歌となる代弁を愛と幸福の充実に吐き出されゆく自在を叶え深く俗と聖や性をも一体に結んでいる新しい人間となるを歩みて、停滞なる流れあり来たと見えた時にも意味つける事をも超えて(意味つけの遊びと納得を得るへ経るも私と人間の肯定だが)釈然と、その生に在りて顕れた私を行ゐ為されよ。 その如何なる状況の中に在りてもの私は、しかし私の究極と目標へ向かい為されるままの必要を為されているだけの信頼に任せ、それを受け取るだけの私と成るを行う。 そして為された全ての生に、その者を生きる以外の優劣はないのだと知りて私への宇宙の最高と最善を為されるへ流されては生きよう。 その悟りと全一へ私は既に生きられてもいるという過程を負いて、全てが仮定の生存世界に紡ぎ出される詩と鳴き啼いていくように。 凪の静穏と寂清を身のうちにも、語ろう。

いとをかし,かなしけりなる,わかたれも,虚らいの余みを,やどしさざなむ。

(なんともののあはれであるか,哀しみもの私も誰もが,虚空から拒来し天の味わい(甘み)の余りを宿しては揺られています。)

べくならず,みちたりるへの,幾とせも,吾にへ割れた,たまのよろずに,瀬からも発した,いくばかりなる,早生(ワセ)のみのりの,観月のころ。

(すべくことなく,満ち足りるへと幾つもの輪廻の生を積み重ねられて来た,万化され象じた私への分霊は,世界の際(心のだけでなく場所や時の節でもある)から生じて経過し,幾漠かにも収穫の実を得ているような秋の望月の頃でした。)

こひならず,さりけれどもに,君を乞ふ,あらむこと(ける)なく,こへもなくとも,

(恋ではなく,けれどあなたを乞うを拒否もせず,例え声もなく告げずとしても。)

うたかたの,みにも浮かぶは,ひさかたの,想ひもめくる,あまつにほひか,

ひとの世にわずらへば,ぬけでるわけにもいかず,おのず然ずる,わくみそらみゆ,この身かかへて,ともいきの,あなたをも想ふ,ひとりしずけき,月なき夜の奏でに,

ふつつかではあるが(文法も疎か)突然に始まってみる和歌万葉のひとひらに触れる時間と、そこにも在れる存在もの、何と豊かなことか。

漢詩
長大な自然へ求めしもの多く,愚かにもさすらいては来たが、今はここに在り至り,山ありて平原に差す明かりは暁を破り寒さは苦手と言いながらも身に染む空気に火を燻す。 この贅沢さが得られる為の長き道のりであったと振り替えるように語れる日は私に来るのであろうか。

灰塵の自在を世にも観ながら何も無き無為の一人に還るへと,引いていく在り方に叶うも夢を見続け心も揺られてもいる何と私の凡夫であろうか。 なるように成るしかないと鳴く中で泣きもする心と存在の吾のみを抱えて非情の時と生命を渡る調和へと祈りを渡す世界の経過を見続ける者の歌を謡う。

無常の常が揺れており、一なるものなどがない唯一もが在る。 私は私を超えており、私は私のままで在る存在~presence is all~だけが世の流動の震えにも起こる。

130 9/3

130 9/3~

全てのことが芸術であるが、真の創造性とは存在の創造。に歌われている、自己本質と世界流通が一体性からの、魂の歌。

しかし魂や必然への連関にもよらぬ肯定が在るのみへの現在,生命,心,交感の一つを持って味わう過程自体の歓びに、流動,波動,振動,根底,潜在,次元,階層,必然,連結,流れ,存在の震え,本質,自己と全体,統合と中庸,(適合と均衡,空と色,)等にも渡る愛と光と慈悲と英知を、現生の顕れ我らに取り戻して逝く為の旅に生きて歩くこと。

考えず感じるというも一つの面ではあり、しかし現れ与えられた全てが私たちの良しである、ならば破壊,無駄,悲惨,強制,判断,正当化,人為,操作,戦争や拷問などすらもを良しと認め離れ関わらず共生を目指すもを抜けて任せるだけとなるのか?へは、開き直り忘れ捨て流し去る事と振り返り向き合い対峙し自身で感じていく事のどちらもが大切さのようにも、全ての視点や多様可能性,価値への理解を持つ姿勢(慈悲とも言える)からによっての包括性へ向かう事も出来る各自への動きを催させる方向へと挿し込みていく事は、一つの方法基準とはなる故に最少自己へ向かいながらも全体主義的義務や非生体技術融合へ(の利点も知り取り入れながらも)の自己犠牲や利便さに吸収されてもしまわず自律的な個で観じ在る世界への立ち会いと見方を、私の創造には告げ繋げていきたいという目標と想いを、今までは知性的感得によりて深める事と言って来ていたのでもあるのだろう。

全一ではなく全てが在る。 そのような愛である人間化された全肯定の感情と充足に意識を持たらし融かし込む光をも当てて、囚われず見渡した俯瞰的な柔らかさの上に歩む道のりを分かつ。 その在り方と方法は対抗的に、こちらも在るよ。と示すではなくても両方の上の統合性への行き先を今でものように機会あれば示し置き、それ以上に闘うことからは放置し逃げるも良く又は、では例え闘わぬ事によって世界が変えられず悲惨の拡大へ力与えてしまうなら、そこへの対抗も怖れず自身の力をもって殺すもが全ての選択に基準はないが、自身への気付きという基本スタンスによっても、それは自身からによって奪うのではなく自身の本来に向けて生きるという自由を奪い来る暴力に対しては対抗しその力も置いておく(法や規定や自衛武力etcも)という選択肢と現在や遍在適応の過程取りを、超越や理想との狭間と統合にも見い出しては置くへ向かわせるのでもあるのだ。

そしてなるべくなら、その自身行為化への出来る事とは、自己判断による因果影響への労力や制限を生まぬ為である自己利益の為にもへの最少であり、創作の能力ある故にもの自身としての、その時に出来る事を感じては行われ流されていくことだ。 流されるとは、その自律的選択と観入によって流れを与えられます受け取りゆく事でありて委ねというのもその本来性なる本質自己と世界の一体性へ自身が至り生き逝く事であり、それは他者への委ねではない。

そして魂や必然かが未だ分からなくとも、流れを感じ観ていく事とは生命現在の交感的味わいの歓び以外にも、最少を選ぶにもよる自己利益への為の行為や何が一番その場に与えられ適し求められている事なのかを、しかし感情的な判断と囚われによらず瞬時ごとにも会いゆきて自身へ行われるべき能力の用い方へもの最善,最適解を選ぶというだけの事でもあったのだと言う事も出来るだろう。 (次は、それをこの説明性以外に簡略化できる言葉化も探さなくてはならぬが、言葉化の中では流れによる連結性の以外には今のところ難しい。)

究極的な到達性のみを示しても、ここへの理解への説明的共有は生まれず潜在的意識への関わりは膨大で軽く表層意識を越えているとはいっても、そこへの情報だけでは顕在意識によりて(それが悪いのではなく現実ファクターを処理するには必要機能ではある)通常を行為する人間に沸き上がって来る断片情報の内化では足りない。 故にも創造などによる、潜在に響く本質性への関与だけではなく僕は言葉を模索する。

その灯し方の全ては即ちにも愛と存在への流動へ分かつ生命の奉納ではありて、そこに生まれ出されゆく存在と創造の両方は、flow為す為のものでさえもなくなり、理解もされず響かなくとも呟く程の私は、私を為し置いたという納得程度のものとなる。<122の初めの部分に置いて合ったものが、上記への此処に繋がった。>


流れと連結への適合は、因果影響への自身必然以外はせぬ労力最少により感じては何が最も求められ能力や出来る事を使い置いてゆく事が出来るかの最適解を探し、それ以外での無駄へ関わらぬ自己利益でもあり生命過程の味わいに生きる歓びを持たらす交感と肯定と全てが(苦の現況さえもだが苦を通じなくとも真の幸福である生命存在自体と過程に深めゆく成長とも言える状態への)愛の充足でもあるへ意識向けて生きる方向を自身と世界へ分かち築いていく為に培われて来た私への歌が、宇宙との彩紋にも織り重ね置かれていた、これが流動と記録ともしての生命の創出芸術なのだ。

(としてもの,ともしての。だけでも違うのだからに日本語が廃れると、この文章的な記譜は読み取られぬにて困るが、そこは技術が補うだろうという楽観で進める。)

強くなり行う事の方向ばかりで成り立たせてゆくのではなく、その現在風潮から抜け離れたところと原理からによって変革への力となるにへの現実化へも関わる私となりてゆく方法は、そこには苦や努力も勿論にあったが、自然の流れに観じ従い行われて来た全てが良かった上に生かされて来た事による結果が通じたのだという在り方と、成功の手法を世へと投げかけてもゆくパラダイムの転換へとも関わる形と私は成りて言いたいのだ。

どうすれば成功出来るという道を運だけではなく普遍的な方法として(cmやmarketingなどの技術面の事ではなく)これが生きる道と成功の形だと言い得る本質性のものを例え誰もに金的制限が解消されぬとも、又はそれを解消できる道へ寄与できるによりてもに、こうして在り生きるのだという存在の形と現実的な理想との統合形を見せ現す事が常に私の希求と目標だった。 その動力を生かしてはきっと至り着ける境地と関係などへも渡る共生的世界への歩み採りと行き先は(過程の味わい以外にも)結果として現れ行われると信じ、現在という用意を進める私に出来得る事の全ては感じ選択し流れという時と世界に与えられては会いてゆき観察を統合へ向けても歩ましては、祈らぬとも愛送らぬとも、祈りや愛も存在化した光と闇もの統合一致結実された光のみへの存在へ溶け込んでゆく事。

生命はそれ自体が苦でもあるが、人間は生まれて来てくれただけでの奇跡だ。 これらが真の幸福と愛の実存へとも最高に開花され生きる事が出来る世界の創造へ私は歩み共生と尊重,理解,慈悲などへも通じては本来自己そのものへと深め感じ達しゆく為の自由が奪われないことを願い祈る。

過去に幾らも在った哀しみと悲惨の歴史が我らの時代からだけ解消され過去はその為の学びだったのだから良いのだ。等と済まされてしまうは御都合主義であったとしても、僕は世界の平安へ進化されゆく未来への相を思い描き、その為の自身へと磨く。


それを越えられぬであろう(似せて作った)人間を知りながら、わざと試練を与え失敗したら自己の責任だと呪い奪うユダヤの神の只、無批判,無知性に知性を越えた信仰を求める姿にもある人格的な神へも違和感を感じるが、その物語を土台としてみるなら、もしかしたら試練を越えて成熟した後に生命の実を食べ、それから知恵の実へと 進む計画などがあったのに失敗したから連鎖的に後の世代も裏切りや殺しの悪循環に絡め取られてしまったのかもしれないとは言えるが、だとしたら救いがないし、その人類初期の原罪を償う為と言われた解釈の物語が新たに生まれてから2000年たっても良くなっているようには見えないように、やはりそれらの論理は何処かで破錠しているか、もしくは既なる業の深さによってもどうしようにも、その影響と連鎖から抜け解消されてはいかない苦に惑い、望まなくとも破滅を通らなければならない予言的な解消衝動が持たれているのかもしれない。 (ちなみに真実かや史実に基づいているかは関係なくとも、物語として潜在性の論理構造化が上手く面白く、とても良く出来ているとは思う。)

次元や階層的な上位であるからといって生きて喜び生きている故に苦しみも味わう我らが生命を幾ら進化の為だからといったとしても、いたぶるように悲惨のうちに殺し続けて良いのか? 我らも二次元存在や物に対し生死を考えぬが(物の命の大切さや残す価値は思いても)二次元存在には感覚器官もない故に(知性がないとは限らぬが)痛みや哀しみもないとは想像出来るが、私たちには知性や意思の業の以外生物にも、感受能力と死を望まず回避しようとする意思はあるのに無遠慮かのように見える程、生命界のは死と(それ自体は良くても)苦痛が充ちており、それを救う神は今のところ現れていない。 ならば我らがその新しき神のように 生命界の調和と調整を採りゆくならば共生とも言われる状態の抽象的な概念以上の基準が見い出される必要があるではないか。

人権や必要最低限の保証なども大切だが、いつになったらその過程への結果は、生命権などへとも結びつくのだろう。 生きとし生けるものが自存し自由に本来(仏性ともいう)へ向かい達しゆく、各自の歩みや選択を種への自己責任のようにも認めながらに、しかしそこへ如何程に関わり調和や共生などともの全体均衡を保ち進めていくのだろう?においては、やはり古い蜘蛛の巣が無駄に生命を奪わぬように壊すも良いのか、それも虫の総量を無選別的に殺す事で全体の調整へ関わっているのだから関与せずなのか?のように、その時の選択へ立ち会う以外に基準がなく結局はそれぞれ生命や種としての選択と行方に、なるべく関わらず任せ放り出しているへ抜けていく基盤の中での利用,便益関係の構築も模索されて良い余地があるということ位なのか?

生きる事のみを認めるならば共存利益的な利用関係は可能でありたとしても、何かを守る為に減らし奪う事や(その選択における主体の設定は、個か種かによっても違うとは言えるが)そんな判断を人為的判別によって付け、上位からの決定としてを押し付けて良いのか?へは、そうではなく個人ごとの観察の能力や状態に左右されるが、それでもその場における対象へ対する交感によって気付いていくという位にしか現在のところでの基準化は出来ず(いづれ技術や数値化が示せるようになったとしても)又は意識のみ(だけではないが主に)の変革を目指す僕の道にとっては(もしかしたら世界の統合的到達点にとっても?かは分からぬとしてさえも)それのみで良いのだとも言えるのかもしれない。

他でも書くと思うが意識,仕組み,技術の何処か、もしくはどれもが必要となるであろう今後への歩みと進展の在り方と要項として、その何処もに交感的観察と用い方の方向を使用されていく事は、つまり第一義的には意識への働きかけが求められていくのであり僕の求めているものがある。

本質性は本能性ではなく近いものもあるが原始主義でもない。 しかし原始でもないが非生体的な技術との融合体未来でもないのではないかとは(懐古,保守だけでなく)思われてはおり、未来への進展と過去の積み重ねの上に統合される普遍と、そこへの現在の姿への化し方を見い出す変換を模索し探究し示し分かたれる変革への寄与を私は目指し求め歩いているのだ。 そしてその欲求と方向を、僕は認めている。

狩りという人間行為が自然界の一端として調整に関わっているが、その騙しては奪う業の生産や修羅から抜けて生命を奪わずとも良い方向へ至れるのなら抜けた方が良いようにも。 しかしその自身等にも内包の本能的刺激性との均衡ぼ採り方もは見い出される必要がありスポーツよりも瞑想的日常でもの本質性探求や変革ではあるとしても、virtual化でないのなら(少数かかもしれぬが、その反動としてもの)身体を用いた方法は必要となるだろう。 (そうした感覚的に響き達した遊び方や交流は、僕の子供たちとの関係の中で日常にも実は出来てもいるが他者や社会一般の中では為され得ず共通方向認識とも成り得てはいない。)


骨格の構造,腱によって支える,酸素濃度の絡みで巨大化した恐竜という姿と考察はもっともであるが知性,科学的ではない想像から見ると、自転が早く見かけ上の重力が軽く故に巨大に成りえたが昼夜サイクルの速すぎて知性へ至らなかったかもしれぬ事、もし時間がそれ程に違えば何千万年というタイムスケールも地質年代や炭素測定も現在の基準では短縮されるかもしれぬ事なども(公転周期から見たら違うと分かるのかもしれぬが僕にそこ迄の知識はない)の想定は過去への可能性だけでなく例えば地軸がずれ自転周期や重力も変わった未来とそこへの対応可能性などもの考察へも使えるという意味で、こういったものも書いておいてみよう。 しかし、こう感じたから自己想像は正しいという無批判で感情的な知性を僕は嫌い違うと言い批判もするが。

~18:00j

128 9/1

128 9/1~

愛の存在と在る状態となる。

その瞬間への与えられし生を味わい観入しながらも、心いま此処だけでなく意識で光へ融かすへの気付きを当てていくにへとも流し去る。

離れ、関わる。 流し去り、向き合う。 の均衡と統合への関与や選択の中で、私を愛の存在へ転化する。

全ては最善だが現世利益的な幸福も求め苦がなく、心身の健康,愛の関係,創造の仕事,旅と拠点,富と繁栄,世界と私の,真の幸福,自由なる遊び。の最高に完全に果たされ生かしされ叶えられ歓び輝いています。 ありがとうございます。

神の視点的な俯瞰のようにも私たちを見ては祈り又は、愛と真の幸福と最善へ任せた自身の状態へとも化す。

全宇宙と振動の生命世界根底と魂次元の(横も縦も全方向と包括の)私を越えた私自身が成るを在る光自体と流動に充ちる。

21:21~

未来を先取って書き置くも出来るようになっていたようにも、そこへの現在が適合されていくをなぞり取りて、未来からの光円錐が全てへ渡って差し込むように、そしてその頂点は全てへと満ち拓く光の爆発や遍満へ行き渡るように私と世界の今と過去と全てを照らしている何にも無駄がなく最善でしかなかったようには思える、この一点を到達地の今後へと適合されて生けるを行き会わせ歩み取りて逝くのだ。

I'm walking. I'm walking on my way of life what it to be totally freedom on nature flowing & creation of existence.
(私は、自然の流れと存在の創造に対する完全な自由とは何か、自分の生き方を歩いています。)

私は私への存在と芸術を成している。

統合,適合,均衡,操作,欲求,等もが、ひと連なりの一連にも区別は付かず選択の自然と人為にも宿る必然性(が有りても無くとも、どうしようもなく我々を越えた連結,連関性の必然を起こす流れが行われてはいる。)の質的方向の境界,基盤付けは難しい。

魂的な流れとの関係に触れる必用もなく又は、それのみで良い。 が、やはり流れを受けて流れる事に最善,必然を感じているように如何程迄に自己による選択への観入を必要とし目指し行うというのか? 肯定一つの心と生存,存在という過程を(目標に辿り着かぬとも)逝く味わい自体を歓びへ融かすゆくのみにも在るという創造以外に現実関与の判断,意思,意識と具体なる私各自への創造同士を逝く事や、それを根底,潜在的流通の自己最少や魂次元段階での連結へ関与する自己最大などもの何処に判断と操作を置くが良いと、(消去法的な全て良しの肯定ではなくて積極的な到達目標としての肯定へ見い出し)置くが良いというのか?

意識によりて改善されたい事を最善へ融かし込む光を当てる。 それも欲望ではあり本来に在るがままでを取り戻すとしても、しかし花粉症を克服する均衡を採るのか、現在の人間としての花粉症を受けるという均衡を採るのか。のようにも、つまり為さずを為すか操作への意識と光の当て方により為そうとするのか等の均衡と選択の取り方。 しかしそれは依然にして秘された深奥なる魔術。でもあり、それを感じ生きる為の我等が在る。

均衡と適合の意味合いは違いても似て同じような状態や目標ではあり、流れとの適合を選び感じ行い為し得れば均衡も為されるという程には言われていて良いだろう。

では奪われず与え合う存在の共存、という一つの現化目標地が達成されぬ場合にも
歩む事自体が必要事態ではあり又、如何な状態判断にも取り込まれず何が力へも用いず委ねず使用されず囚われず、それは必然か等にも関係なく肯定のみのままと幸福の最少達成(労力が最少かは分からず却って難しいかもしれぬが)基準へ歩むがのみで良いのだからにも奪わぬ共生世界化などを求めぬが正しいのだとしても、~(9/2)~
どうせ生きているのなら私は共生的な関係や状態を望みてはしまう人間としての形へ現れた喜びでもある必要と欲望の愚かさでもあるを生きて、しかしそれを生きても良いのではないかとも思う面も大きくある。 (そんな事は当然であるのに何を言っているのかと思う人へ対しては無知性であると言っておこう。)

単純で当然にも有り得るような、共生的な相乗という在り方と目指し方すらもが難しい人間というものには(2極性また無限多様を含んだ人間において当然,簡易に叶えられるという意味ではなくて、しかし気持ち良く生きたいね。 奪い合わずとも相乗可能な共生への為の目標と理解の道もある。等を発見し目指し自身によっても行える。という当然が出来ぬという面では)自身の出来る事で働きかけるを求めてもいるが、もう諦めて放り投げてはいる。 苦の循環を子孫や生命界へも創出させたくはなく、その為にも私は私の生を使って闘っているが成るようにしか成らぬへ為されるだけへとも任せて逃げ生き延びては種なるを遺せるへの存在を培い目指し世界への自身こそを高めるにしかないという闘いを続けてはいく。

光を当て愛を送り愛と成る存在変革へ在るだけの私を生きて、共生的関係や自己を生かせる事も含めて種なる拠点必要などの為にも現実化は欲しいが、自己の段階を認識すると同時に如何なる制限への設定もせぬに自身を置く事もが私には出来るへは達せてはいる。

昨日、群れから弾かれるような事は、特に日本人は良く有るし大人になってもだ。 感性的には素晴らしいのだから自分たちの事をやってれば良いんだし、響く人で遊べば良いから気にする事ない。 でも世はそういうところだから順調に行き過ぎるよりも勉強になるし上手く行かない人の気持ちも分かるようになれる。と子にも言うたように実際には他者関係に弾かれたり否定されて気にはしてしまう自分でも言ってあげられる事はある。

しかし自己の感性や感覚よりは、他者からどう見られるかで生きている個の無き日本人の間にある事での問題は多いが(それは真の自己を越えた自己最少と最大化の同時では無き全体主義的な滅私のような質性の違いではあり、日本人は人々に言うように新たな文明へ寄与する能力も持つが、その質は自然,共生,理解と多様自由の上にも成り立つ黄金期の方向ではなくてテックへ吸収された非生体なる自己越えの方向へ転んでしまう可能性もあるように現在は人類にとってもそれは同じく分岐点でもあるのだろう。)海外では個であるが基準である故にもの生き易さはあるが、表層または潜在からのであっても自分を基準とし過ぎた俺がこう想ったのは押し付け押し通すというような力の対立と強者の論理なる世界ともなるように、真にその変革性が為されぬ限りは何処も同じように人類には絶望的な諦め感しかなく、又もし進展へ向かえたとしても、その範囲は感覚的に自由に共生的に在れても真の進化などへは到達していない故に又、いづれ破壊への拡大を持たらす可能性を宿し続け苦のない成長は良い方向だがそこでの成長可能性も奪ってしまうのかもしれぬようにも、やはり私の想い求める世界の現化可能性については期待はほぼ完全に出来ないだろう。

そして真に進化などが出来ぬとも共生的な生存を叶えられるかもしれぬ段階への進化へさえも現在の人間には余程に少しづつの進展力を与えていく位の各自役割や性質に近い所での参与となるにしかなく、(政治もBiも、その過程,途上への関与の仕方へは各自選択への自身状況との関与があるとしても)アムスで思ったように日本も世界もは自身等に持たれた制限によりても今のようなままでは後50年たっても変わる事は出来ぬであろう。 (それは操作されたものかもしれず、)その環境が変わってしまえば享受,消費者である人間たちの社会も考察各自の知性や存在段階も変わってしまう事は充分あるかもしれぬとも、そこへの自力では達せぬならばの過程は災害など悲惨経過への期待を経なければならぬようにもなる。 それは災害や破局と死ぬ者たちの積極的な肯定と人類の業と全体調節の為に仕方ないから死んでくれ。 そして新たな世界が来たら良かった、ありがとう感謝し供養します。で済ませてしまうような事ではないが、しかし災害や破局的結果と経過も全体進展の為の連結であるかもしれぬを見ては、理解なども放り捨てながらも残りた人間の自身等内の均衡や納得を取る等への為に理解へ利用する利点または必要性はあったりもする。 しかしそれでは災害期待への欲求にも引き寄せ、その依存により任せ自身等で創り向上へ関わろうともせぬを催させるかもしれぬを把握する又は意識へ挿し込む事も必要とはなるであろう。 (それを話し言葉の関係,時間などの制限の中で伝えきる事は至難で伝えられたとしても大抵においては意味にもならぬが。)

戦争も絶滅期も手放しで良しとしていく態度は、捨て離れて囚われぬ超越性や俯瞰によりて観ていくには良くとも、その世界の為に自己を為し(その結論は傍観的無関与であったとしても)創り出していこうとする世界の中の自身というものを失わせるへの提案となりてしまうかもしれない。

それは自己と自己の判別性を減らし無くしゆく事と同時に自己のままに在りて最大化へ画して全体主義的な滅私へ吸収されず、しかもその自己のままとは表層自己を無くしゆくだけでなく顕在化された現在総合体の自身のままを感じたままにを(深き観察などというのも伝えたところで、各自自身の感覚や段階に拠りてしまうへ任せるのみしかないが故にも)ゆくにしかなく、そこにも必然が為されているのだとしたら何を変えるも無意味であれば(必然のみが起きているのか必然を生み起こしているのかは区別がつかず区別必要があるのかも分からぬとも、変えたところで必要があれば又も他に変わりが出て来るだろうにも)自己を減らし魂的な自己へ 近付いていく必要等もは有るのだろうか? 魂的な自己の潜在や流動へ触れての感覚や選択に達しゆくという在り方は進化への道としてではなく、ただこの生をどうしようもなく生きねばならぬなら、その味わい方として深めゆく事が面白いからであり、それによる正しき選択かどうかの区別判断も能力の開花と関与などというものも不必要であるのかもしれない。ならば更に混迷でありて何を生の基準としたが良いのか?へは只生きて為される生の連続に感じては生く事以外にはないのか? (そしてそれこそにおいてすらにも、人々の言う知性で考えていても深めるにも行為せねば意味がない等というのは、そこへの一理を取り得るとはしても論外であり、この自己と選択と感覚の問題と視点などにおいても又それ以外においても彼等の言う浅ましき真相点を真実基準として無条件に取り入れる事は出来ない。)

未分化の個から超個へ本当に至れぬのかは特例的には有り得るだろうが通常全般の道としての適用は、結論づける事は出来ぬとも確かに難しいだろうとは思われている。 ではその生体の一個総合体の奇跡としての個(personal)を基盤としてこそに深めゆける世界への立ち会いと見えていき方もあると思われている価値や、主体としての個を通してこそに発見し経験し成長させるへと歓びては、突き抜けた最少であり最大でもあるに矛盾もが無い超個へ至る道と境地は見い出されるというのに(絶対とは言いきれぬが)やはり僕は同意や共感してはいるのだが、それでも考えず忘れ流し去るだけの未分化的状態を通しては任せるへと祈り託すのみであったり(そこまで委ねるへは各自の段階における納得や体感的な理解のみで良しとする事はありても仕方ないとはしながらも、本質的には実は理解的な知性にもよる納得は要るのだとも思われ、私におけるjunyanaによるbakthiが持たれ待たれているようにも思うのだが)、それが生体のなき全体融合の無私という方向(それが間違っているとも言えぬのだから、野生,原始主義的な人々は理想化されたイメージ等の以外に、そこへの説明を考察し与えては欲しいとも思うが)を取りゆく事ともへの均衡,整合や到達への理想目標や行き方を、考じ講じられねばならぬというのは、祈るだけと他力性の存在化や電子的融合へ自己なき状態への動きに一直線に吸収されていくのでもなく(そこへの批判へ一直線に取り込まれるのでもなく)特例者や次世代者などが、何か出来ちゃったからこれで良いだろ。という以前の現在の私たちには(又はそうなった後においても)考察されていかねばならぬとは思われているのだ。

未分化の恍惚が正しいのならば(この知性に達した意味や価値付けを理由として利用や採用するのでもなく)しかし植物状態の無反応(確かに愛の恍惚はそれにも近いが)や徳ありての認知症的存在化した人などや赤ちゃん又は動物,植物等が最も素晴らしい中で我等は只、知性という枷による苦を産み出す無用の上に下層存在化された現れに過ぎぬのかもしれず自我を経てこそ行き着くのが最上的な価値である等と意味付けされたものの意味などは無いのかもしれぬ中での、それでも自我と個ありて故こその(それによりて現生の味わいを生き、超個への道へ使用も出来るという価値判断づけを見い出さねば哀し過ぎて存在出来ぬから等という理由以外での)積極的な超個への未分化方法以外での理由と行き方を見つけ出さねばならぬが、それでも全ての存在と段階状況には既に悟りの道や偶発的必然などもが内包されている上で、我等への生体は(これが悟りへの唯一の道として現れたからではなく、幼児から自我への進展過程を経てしまった種や存在の中での悟りへの在り方もは有り得るという道の見い出し方に過ぎないのかもしれない。 ならばtrans personalでの個こそに超個へ行けるという理論自体は(我等の歩みの中でどうするか?へは適用や使用は出来ても)崩れる。

そして、それらとは奪われていく意味をも越えて苦しみなくとも真に成長できるのか等もは自我,個の問いと同じくに有りて、自我と知性と分別の故に深め感じゆけるように(その苦の現状は苦しく叶うをも求めてはしまうが)苦が有りてこそに深められて、それがなければ満足してしまい突き抜ける動力としてはいけない我等性は確かに有る故にも苦は無くそうと努力してさえも良くないというのか? それは人為操作,強制からのものでなく自然界に起こる生老病死の最低限に関してからの生き方の問題へ還る事は求め正しくとも感じるし、それこそは原生的な(原始至上主義ではなくとも、そこにも近付く)生存性社会や存在化を求めるへの理由でもあるが故にも、では人為による苦の生産を減らすへは関わり、しかし自然界の働きや不都合を抑制しない中での又はその操作や便益性との折り合いや均衡の取れた形での関係や技術の使用性を見い出されなくばならぬにもよる中で、生命との感覚や観察に苦を越えた肯定と愛を目指し叶えゆくという状態と道を創るへと目指すが私と世界の必要と突き抜けていく基準であるとは言えるのかもしれない。

そしてどうしても自身と他者へも共有可能な成長への行き方と生存(の質)性をも求めてしまうが私ではあるが、真の幸福などと思わずにも例えば知性的ではなくとも感覚的に感性が共有でき、一方的には否定などして来ない人との間には心地よくは居られ(草深,幸喜,秀征,由くん,ヒロくんetc)そことの関わりにおいても自身の言った事へも振り返り自身への成長へ向けてはいられてもいる現在のようにも苦を経ぬとも観察し深めてはいれるのだし、真の深き知性と幸福などを求めぬとも人間は、この生を味わいては共生的な現実利益性にも在りて生きられる幸福となれるが良い上に成長や進化出来得る可能性も育めるという程度での、人間とはその程度のものであれば良いのか? そうでなければ未来(真の悟りではなくとも或る程度の共生社会化以降)への知恵とも成り得ぬのだから故にも、先ずはそこを目指すのか?とは(真の進化なくば又も破壊が起こる故にも、今回機会を生かせられればと思う私の人類への絶望と囚われも外し段階的にしか進まぬのかもしれぬであろう世界へ折り合った進み方としての存在へ 生まれ存在性を取るという事なのかもしれない。

これも真の幸福と進化への到達ではなくて過程(Biか金のない世界かのように、金のない共生性か、それをも越えた真の進化かのようにも)の取り方と現在適合への均衡選択でありて、又その超個の存在性と在り方というのは魂的な段階越えや宇宙総体的な知性への 同化を想定するのか又は仏陀的な心と最少による正しき均衡点や調整点でもある統合もしくは中間へもの基準性を生存自体へ見い出していく事か?等は実際現在の私自身における問いと観察とも同様のものであり、つまりは私の最終目的地と到達の在り方とは何処である目指すのか?へもの探究や掘り出しでもある世界と同時一体に通じる自身を通してを生きては在るのだ。

しかし感覚は合いても共有は取れないメグとの関係のような例もあるが、それは僕の共有,相乗,共生性への囚われである以上に、やはり一方でしか見ない(自身を覆せぬ自己のままの正当化、つまり観察的知性の足りなさよりも相手を理解しようとする事(思いやり)などもでの世界の感得の否定でもある、自身判断だけで開き直り成長は(しても流れ来るに任せ、それは良いとしても真相を知ろうとした事による世界の味わい方での喜びは得られず与えられる世界を消費(創造も消費だが)するのみでありて)出来ず故に、真に共有も出来ぬ事での問題ではあるとも言えるだろう。 その時だけの真実(それさえも見い出せぬ人ばかりだが)に寄り掛かってしまい判断と正当化加えてしまいたり振り返り見れぬ人ばかりとの中での学びの故に、それらとは適合点の対応も持ちながらも基本的には(そういう人ではなくてもだが)自身積極関与からの行為からは離れていなければならぬと分かったように、では社会もは同じく幾ら生命界の為にも変える必要を感じていて関わり闘い慈悲が為にへも努力するにおいても自身のみの生以外は諦めて心の囚われず離れている基本を身に付けていかねばならぬは自身に出来る事を生かすへと無駄な事への消耗をも産まず(そこにも勿論その行為各自への流れは生まれていくとはしても)最少により機を為されていくにも流され自身必要の以外での因果の影響を、なるべく世界に巻き起こさぬによりて傷つかず傷つけぬ為にもの在り方でもあるが故にもなのだ。

しかし私も感情的反応や囚われでありてもなくても、鐘や鏡のように相手への同じ力で打ち返してしまう表現を持つ位は、その価値に相手が気付こうと気付くまいと表明態度やパフォーマンスとしても又は世への可能性を置き残しておく意味でや実際での提案としても良いと思いてもいるし、愛への変換の意味での合気道的手法面は存在において行われれば良いのでありて待機説法のように打ちて来た機会に合わせ打ち返してみる事は、暴力へ対しての制圧や交感的な身体交流を用いた遊びへ転化してはいるが自身の中と相手からの力の使用を止めてはいない合気道の現実対応力の側面のようにしては押し付けの暴力に対して押し付けるなという対効力を当てていくにおいての同じではないかとも捉えられる。

そしてしかしそれは相手より上を行くことで闘わぬ、つまり否定を制する力で圧倒する事を一つの眼目においた手法ではあり、こちらには受け入れる強さがあるから打ちて来ても良いぞというのではなく人を攻撃すると返され制される可能性もあるぞと世へ潜在的にも示し挿し入れてもいるような置き方や、その人間の暴力性や能力に応じて身体を用いたいという欲求も認めては、しかし闘いよりも交感同士に気を合う流通を持つにより鍛え練習するという遊び方へも転化されている方法とも捉えられる。 という意味を見い出せるにおいても尊重し学ぶ事が出来るが、では僕や対人間の在り方や手法自体としてそこから適用出来る物は余裕を持つ程の優位性からの眺めで対機的な人間対応へ囚われず攻撃されても世の理知的な運動力を伴った上の力で返せるぞと示しておくことによって打っても良いではなく打つと制圧されるかもしれぬと思わせる相手の利己心,利益判断や怖れも利用した力の使用を恐れぬへ交感の遊びを用いるという方法(それは現在に既に為されているもの)であれば良いといえるのか?


全てが自由,多様で何が指針と見い出されていたかや方向性よりも(それも現在時点の自身化へ通じてはいる大切さではありても結局は)現在感覚に起きた事へ対応してゆくにしかなく(心身健康の為や愛へ押し込めての反動すらも良いのだとはしても、それを反動へ出さずに済む為にも)、現在の自身にとって何処が納得出来るか?ではあるのだから、最少的な自己へ近付くのも自身の為でもあると同時に、行いたいならば行うしかないも良いと認められており、ならばその自身にも全体へもの指針とは、やはり攻撃も良しではなく受け入れるだけでもなく心では受け入れて囚われずを目指しても態度では力へ対しての制圧力を用いる方向であることが適合にして中間でもの基準ではないのか?

それとも如何にその指摘などへもの質が、相手の理解と思いやりの上でのものであったか等にも関係がなく、幾ら相手が間違っていても又は判断的な攻撃をして来たとしても、自分が打たれたくないようにも打ち返すべきではないのか?

私は傷つく。 自身の創造を行い、その力とも灯しては、他者から受けるものなどを気にしないと心を張らなければいけぬ愛への方向が故の惑いにも在りて来ては自身へ愛を強制もせず、(それでも心は囚われを越えた愛とはなるを目指し進むが)存在と対応を分け二元的方法も良しとしてしまう理想と現実や内面のみと関与や最少と最高のようにも通じる柔らかな均衡の取り方を現じさせても良いのではないだろうか。

流し去ると振り返る,忘我と自個,のようにも、その統合的基準点への均衡や適合は両方真実性を認めたところからの組み合わせの問題であるのかもしれない。 しかしそれでは、各自の考え方に任せるしかない抽象は余計に増すのかもしれぬ故にも基準を示し置きたいが、それはこの書いて来た記録の繋がりから読み取られるものもあるだろうし、それを僕においてまとめて示す事が出来ぬのならば基準化は、この種による次の人の仕事へ渡すへの糧となるも良いのだろう。 私は此処に私を置くという仕事を続けるだけを生きるのだ。 そして現実化しても流れ去ってしまうとも、誰にもおもねぬ僕自身の方向設定によりて生活出来たり旅にも行けたりするようにもなって来れたのだし、心一つの状況にて全てを幸せと感じるか苦となるかは覆るが、実際状況は良くもなって来ている現実状況も伴ってはいるのだから(そこを基調としておもねると、良くもならなくなった時に又も絶望へ陥るかもしれぬ故にも現実化状況での判断や依存や期待をせぬようにはせねばならぬが)どう何が如何に成るかの 設定,判断はせぬとしても、きっとうまくいく。 その為に、この用意も行われ続けて来たのだというような納得への意味付けや期待も過度でなく覆され観ながらには持たれていても良いのだとは思われる私において、結果にも囚われず何が来ても受け入れ対処し死なずとも生き延びるのだとしても(人間的弱さが何か信じられる解釈へすがりたいようにも)、私が為され真の幸福と共生性へもの世への役割へとも生かされるはずだと思い描き信じゆくのは(本当かどうかに関係もなく思い込みは覆しながらも)生きる力として使用されても良いのだと認められる(自己現在の正当化的肯定でもあるが正当化的肯定だけではなく)ようにもなっては来れたのだ。


世界は自分の鏡だから自身状況が反映され学びと必要の為にも返って来るというのは(その面もあるというには認めるが)、しかし自分は全て悪いから世への批判を無くし押し込め又は愛となれたらば人為に打たれる事もない等というような自己責任論の事ではなく、そうした面での現実化も起こる事はあるかもしれないが絶対ではないし(そうだとしたら自然界が人間に傷つけられ奪われているのは自然界自身の責任であり破壊されて当然という事にも繋がってしまうだろう。)そのような浅い時物の判断に利用されてしまうでもなく、思い込んだ方が現実と成る思い込んだ者勝ちのようなものでもあるので肯定的な現実化が起こっているから高く真実に近いわけでもないというにおいても、振り返れぬ自己正当化が故に自身への現実化が起きている状態を見る事も多いように全てではないが人々の浅さの証明となっている事も多いだろう。

何が幸せかの定義にもより現実的獲得も僕は否定しておらず二項的真実を認めているとしても、やはり浅くとも現実的利益は得られているのみによる幸福であれば良いという判断や、それが最高の実現生命だという意見に汲みする事はなく違うと思う。

深く観れぬ又は自身判断のみである阿呆でも感覚よく人に開けて生きれるならば良いというのは、只生きるための生命力や他者利用に関しては正解であっても僕には違うと思われ、そこに質性を求めてもしまう。 そして何をやっても突きつめれば何かには成れるから良いのだという人の意見については何の仕事でも良いというなら、それは経済至上主義の一環でしかないのだろう。

経済よりも独自~original~であり真似ではないことの強さもは有り(だからといって真実に近いかは別問題ではあるが)しかし独自で在る人は生き辛く経済的に困窮しておりて社会的な発言力も持ち得ない弱者(それが例えば貧困ではなくともrainbow gatheringのような経済方向へ関わらぬという肯定的な場合においても)である場合が多く世を変革するような力とはならないが、それが離れ眺め変革への動きや巨大なダムをも崩す一差しともなるかもしれぬ時代の機会に会いても、そうした過程を採るへは関わらぬ傍観的な又はalternativeのみでもある在り方と行動基準の採り方の積極的肯定であり、人間を諦めながらも意識変革への仕事を諦めないのは自身への宿り来る機会や実現での結果を待ちながらにも、しかし逃げ伸びては物質世界が自体により勝手に崩壊した時の種となるのを待つ位にしか行為も関与も協力もしない。というので本当に良いとは(自身納得であれるかの以外に又はそう自身が信じられるものを見い出されなくばいけぬ探索の為にも)言えるのだろうか?

~I'm a style. It's not of fashion.~
~I'm spectator to be my self with what is direction of truth. & I'll have a choice to do for just what I can create.~

そして世界とも同じように家族は自身等によって切り開き培い、そのものが何とかなっていってはくれるだろうに任せ放り投げても良いのだろうが、僕においてこその感覚や共鳴性において与え育み培い合えるものの良さと価値はあるとも信じられているように、何が出来るかや又は出来る最少のみでなく自身の最大限化をも目指し関わる事と関わらず捨て自身だけを生きる事とのバランスを取られてはゆきたいし、そこへの想いや過程へ対する提案や意図の提示へも在りて良いとは思われてもいる。

捨て流し去り自身変革と本質自己のみへ向かい合い交感しては生きるを味わう価値と成長を喜びながらも成長を求めず(信じる為の期待も良く囚われるへの期待もせず)自身に出来る最少のみを置き行い自身最大限化の可能性を試し発露しゆこうとする事へもの選択や労力や闘いや力の世界に巻き取られる事も流れと役割(真に必然でなくとも弱き人間の自身を、そう納得させるにおいても)に感じられ又は流されたり、その時の感覚や現在ごとの性質や自己越えたものに為されているにしかない事での一体などもは、しかし言葉においては置かれる矛盾でありて(言葉でもの明確な現し方を探しながら)も、実際的感覚の既にもある統合の一致であるとは言えてはいるのだ。

何を話し伝えるか等においても、別に僕はコミュ障害でもなくて(勿論たまに自身の思いや基盤共通が皆も同じだろうという、思い込みのみで行ってしまう事からの失敗もないわけではないが)同じような感性や共有土台で分かち合える人が少ないというだけで何故か(何か働いてないけど上手く行っていて楽しそうというヤッカミなどもあるらしいが、それは自分の努力で作りあげて来たものでもあり自分にとっては相当に苦難を経て来てはいるのだが、そこへの想像や思いやりは全くにもなく一方的判断ばかりがある)必要以上に攻撃されるような事が多いのだが、そんなやつや人間社会に対しては、僕の価値を自身創造の出来る事以上には置いても関わってもやらないよ。という基本スタンスには離れてしまうも良いのだろう。 そしてなかなか充分に(理論的説明,集約よりも肯定的熱情などの方が受け入れ取り入れられ易いという面はあるようだが)僕は既にも、そうした行い在り方を為し得ているとも言えるのは、子供との交流において何を言うかへ言わぬとも良いが言い又の機会にその上での面を伝えたりするにおいても必要的な流れへの行為,言動化は出来ていたり、他者間にもおける議題へ対しての提起をまとめ集約し基盤を底上げするにも置き、しかしその場の人々の状態や必要以上には言う事も無くて良いなどと観ては止めて放り出すというように均衡も取れているのでもありて、聴く人の間では言葉でも自身を為させる事へ結び付いているのだからにも、僕に障害があるのは判別的な人為と浅さへ対してではあるだけなのだ。

そして母などもがように、意識と方向性が良ければ良いという事でもなく感性が良ければ何でも良いのでもなく、(ヒトラーのようにも)魂的に深いかの質でさえもなく一方的な制限体自身からによる判断の押し付けを行わず他者だけでなく自身や世界への理解へ振り返るという基準は、それ故の強制や義務的縛りにはならぬが良いとしても、あると思う。 そしてそれに対する対抗力(強制とも言えるものだが)の用い方は、(その度合いは問題であるし、一つの事を選択し決定し行いてしまえば次に現じる現実と状態への制限と因果を生んでしまうとはしても)やはり有りて良いとも思われてはいるのだ。

では身口意へ対し貯めずにも吐いた後で、自身の中では覆す意識の光へ流し去り転化させていても、しかし社会的存在としての人々の言葉を使用し表面的に共鳴し必要を感じては置くような対応や交流への説明においても、その表現に宿った身口意による他者影響へ対しては(そこへも自身に中での愛と変容の意識を当てる事は出来ても、その労力以前で済ませる意味においても)如何に行われ吐かれるかを考慮されているべきなのか? 過程的な存在でもある私という探求と惑いの現在にも在りて超越的な視点と愛と肯定の真実面のみを言うのでもなく社会の肯定的解決への改善点のみでもなく、だから駄目なんだというような事も解決への提案への大切な事と思っているのだが(そもそも解決されるべき何かが在るという設定づけ自体が突き抜けた超越ではないとしてさえも)、それを行いた事による他者影響を(それはその人のものと捉え方へもの責任だとしても)孝じるにおいて如何なる表現ならば(何が駄目ではなくても)良いと言えるのか?

音楽にも同じく伝える為の言葉と説明よりも自分への意識をtuningする言葉への化し顕し灯し方。であるを分かち会いでの形にも至らせる。 しかし到達への過程を現す事が到達性への手段,戦略とも一体であるように、やはりそれは不可分な面も有ると思われ私に行われている現在の選択点にとっては既に為されている面も有ると言えるとも思うのだ。 他者間においても自身のみに在りても同じように必要を感じては選択へ行い(対抗的手段化必要時以外においての通常においても)、自身説明も惑いもを含めた統合や多様への価値提起や到達過程への姿勢や考察現在とも共に至り得るべき地点への獲得されて来た多分の真実に関しての観入断片を(対者等が気付くかは知らずとも)挿入していられてもいる。 しかし雑な意識への影響を催さず、もっと肯定的でもある集約された到達,統合性へ引き寄せてもくれる音楽的,関係的にもの言語の使用方法は(この現在を逝くしかないを認められた上にも)考じられていく立ち会いを日々に意識していってはみている。

伝えようと等とし過ぎず思いもせず対応するに話しているのは上から教えを垂れようとするよりは良い。が、その者の段階や状況に合わせて必要分+ alphaくらいで関係しているだけよりも、もっと超越的な存在のみでの付き合い方へ行ききった方が良いのか? (どちらも自分の納得や現況に合わせた選択の良しではあるが、ここで言われているのは社会的な言葉への置き換えなども他者状況や待機的応対でもなく到達へ近い存在などを世界へ放つ在り方と成る方が良いのか?等の事。)


向き合い振り返り,捨て忘れ流し去る。の各真実と全包括のようにも、何処にも縛られぬ固定を避けた在り方によりては各自の中での観察を行い続けていって貰えたら良いというだけの事でもあるのだが(そんな僕の嫌な事や求めている事も明確さを帯びて来たのだが、しかしそれは共生への理解という人為や自我を何とかする等の以前の単純さではある事が為されないようにも)大抵の人間は全ての真実と自由の上に開き直るばかりではあっても、そこに統合への創造と過程を自分で歩こうともする事すらが出来ない。

一方的判断も嫌だが自身の感性で生きておらぬ故の判断である質もが更に嫌であり、(勿論その自律の度合いなどは程度の差であり誰も真に自律などしておらぬが)ではこんな価値を見ようとさえもして貰えない人間や社会などへ対して、肩書き的な人間判断への対応の力を持つにも反対だった僕だが、肩書きのみからの印象判断ではなく自身からの創造による社会化された価値と結果へ対する承認的判断によりて自身の為したかった事を認めても貰えるような力は(zacなどのような状況においても)認めてもおり持ちたいとも思えるようになった 。


叶わない事における欲求の肥大を経てはいるが今も最高を与えられてはいるに生き、創造の仕事のみが叶うかにもよりて他もが叶うか叶わぬかもの私の今後の結び付きは二分化されてしまうかもしれぬが、そこへもの自身設定へ取り込まれず例えば拠点の流れの来ぬならば日本であるへも囚わず、先ずは出て行くことへあるもが良いのかもしれない。 それが如何なる見える結果へ繋がらぬとも放浪の性質は生かされるかもしれぬし、それはしかし晴明神社で言われたような呪にも設定されずとも、音楽家という選択へ導かれたのは放浪性と創作的な世界との関わりへの基盤として折り合ってはいる発明的な折衷案への自然な結び付きでもあったのかもしれない。

何かを成す事よりも小市民的な満足と地域社会への滅私充足や市井の聖者であるという価値観にも縛られず、何が得られぬとも自足ではあるに生きて向かいながらも自身の本来性に基づき何が行いたい行われるべきと感じている事ならば為すへも向かい、しかしそれ認めてしまえば殺人者の創造も罪に問えなくなるかといえば彼等は彼等の責任として人間社会的な現生での罰と刑期判断等を受けるも仕方ないのか?との折り合いは取りゆきながらも(人道的な刑務環境作りも有りうるという等のように?)、その本来性の自身というものや、そこへの自由においては奪う事への囚われ(生きている以上どうしても奪っている部分等ではなくて意図的な排除の傾向化であるような)は無くなっていく事を(それだけで全てが解決されるかは分からなくとも)社会と人間の基盤傾向化させていく事は出来ると 思われ、つまり如何なる時代となったとしも人には善悪がそのもの自体に有るのだとしても、その出現リスクは(徹底管理でなくとも)最少化できる(が、それ以上は諦める?)というような均衡策を持つ事も有り得る可能性ではないか?

(上記文の途中から9/4~)

ならば本来性(とは真の本質,非実在的実在性の段階までの事ではなくても自身への役割ではあり尚且つ、欲求と囚われによる意図的破壊や強制力への判断,操作,人為欲求もは生まれにくい状態ではあると言える程には潜在的深さにも近い状態への希求ではあり、又その僕の望みの部分の何故に 潜在的本質性への進化,深化などを目指したいのかの理屈面の補強理由でもあるとも言える。)に目覚めるへ生き、その自由に在れる状態が人間に喜びを持たらし(最少対応性以外の自衛力や法規の施工,執行に伴う権力,管理を必要とせぬとも)自由を奪わず奪うという基準は何であるとは最少に定め(自己能力や意思に基づかぬ事をさせられる。や理解なき操作と押し付けが為される。等か? そしてそれは生命権にも対応出来る。)奪う者には如何に対応する(全体統一されていない条例的な各地域での多様と自主選択もそこに尊重,保持されている共同体自決だが内政干渉の固辞などではなく共に緩く干渉もされあっているような状態を作る事も出来るように思われる。)等での憲章的共通は、こうして活用可能となれるかもしれない。

全体や型の為に無私であるを目指した傾向性は昔の日本人にも勿論あったが多分、昔の人はもっと個が立っていた。 つまり今のように画一的では無かったと思われる。

自己ありた故からこその超個が絶対条件かは未だ分からないが、やはりその進め方への提案にへは自立(経済的なものではなく又は孤独でもない、自身本来へ向かいて立ち存する事。と言っても良い。)を経ての、その自身本来へ向けて余計な人為を(人為も、それ自体が悪いものではない。)抜けていく方向への作業でありて、僕にも過去経過に行われようとして来てしまったように自己なくした超越へ目指す事(それもそれ自体が間違いではないし又、必要な経過でもあったが。)へと自身を押し付けてはならぬのでもあり、それは自由による道を選び持たれる事にも通じているのだ。

進化という変化は、それまでに起こって来た原因にもよりて至った現在という環境,状況にもよる傾向や性質性において可能性の許容範囲での、どちらの多様を実験するへ向かったかの自然的連結と過程の現在けっかではあるのだが、そこにはその生体や種の(意思にも上がりて来る分はある)想いのような傾向性と、つまり生体からの方向性や自主(とも言えるような)選択によりて為されている面は有るというように感じられている故にも私は私の意思や感覚による選択にも、その現実化を物質的に催していく力は(波動や量子力学などの面でなくとも)あると思われ、その使用法を自身へも行いながらも説いている。

深い考察ではなくて軽口で言ってしまう事もあるが、鳥は気持ち良いから飛んでいるというのも(生態的にも適合してしまっているから。が最もなる理由であるは勿論なのだが、人間は歩く生体を現況までには与えられていたから。という以外に、歩く為に生きている。 必要からではなくとも、気持ち良いから歩いている。とも比喩表現だが言えるようにも)そうした自主選択面の以外としてもの或る意味では本当だ。

では自身の選択と方向性によって、苦しい過程を経なければならぬもあったが何とか暮らし養育費も払い時には必要性への望みによって旅にも行けるようになったのだとも(だからといって何処でも通用するわけではなく日本に生まれた私の状況などに、つまり先程にも言った現況に拠るところは大きい、許容範囲の中での可能性の試しではあるのだが)言い得るとも思えるように、それは現実へも作用する愛の存在化を味わい日々に逝く事と、捨て去った事にもよりて囚われを抜けていく度に(繰り返しであるも多く今のところ現実化と流れ去るのが交互にも来てはしまうが)身体性への進化,変容,関与以外の意識と存在による流れの宿り来たる現実的な影響や波動的な意味もあるようには感じられてはいる。

では意識で設定する目標金額の望みなども楽になる余裕の為にも少し欲張っておく等でも良いとは思うが、必要だからと待っていれば何の行為へと化さぬとも(必要ならば行為の内容が又も見えて来るであろう面はあるとしても)意識の方向と捨て去ってもいくへの、愛の存在化だけで良いのか? そして流れ来た時に逃さない方法は未だ僕にも分からないが、その時に感じた自身を行為しての結果が成らぬとも、それは自身への必要ではなかった流れであるも見えていたりもするし(そう思っても判断つかぬ故にも、試してはおいたりもするが)又、必要であれば次の機会が起こりては来るし、その間の得られぬ苦しみは学びとしながらも自身には耐えられていれば良く耐えられる事である事もが多いとは感じる。 しかし学びとはしながらも、なるべく耐えるのではない充足自身の在り方、もしくは得られる事もが伴いて欲しいとは思うが。

得られぬ事ばかりを言うているのではないのだが、得られている事も有るはずだからそちらを見ようと言われれば、比較して日本のホームレスは世界の貧困やシリア難民よりも恵まれているから満足しようという理屈づけと余り変わらない事も多く(勿論それが比較でありたとしても、持ち有りているものや良い面を生かそうという提案と意義には同意しているが)、自分を本来性に生かす形での自由や必要が与えられない(社会もの)状況や不平等において(役割も運も違う人々等の皆が同じ繁栄に至れるか?は分からぬし直接的にそこのみを指しているのではないが)その本来自身への自由,必要,状況は与えられるべきであるという
平等を起こしたいと思う望みを、(望みは良くないと消されるのでもなく)抱き伝え行為する、私の言動と創作や方向へも転化され提起されていくは良いとも思われているのだ。

それらは現実化欲求も捨て去ったが上でもの現実化欲求と言っても良いものだろう。

誰か特定の主人へ盲目的に仕えさせられる事への反発を抱かされるのではなく、自分の生活の為という自主的選択であるによるを利用し諦めさせ反発対象を隠され経済化した現代の奴隷制において、しかし貨幣の有益性も理解出来る故にもなのか、それは反発(例え心ではしていても)や覆す対象とは成りにくいらしい。 そしてギリシャでの民主や文化が有り得たのは奴隷の有益性が社会を回し自身等へもの恩恵を与えている事も理解していたが故にもなのか多分、奴隷達からによる変革というのは起こりにくいのではあろう。

外圧と侵攻がそこでの安定を壊し、そこで築かれた文化を破壊しながらも次の世界の多様の中での動きへと流入させ進ませたように(破壊は嫌だとしても歴史的な必然性を感じられる視点上からも視られれば)、そこでも一極集中ではない多様が外部に存在している事の意味が有り得たのかもしれぬが、では外部がない状態へ世界が統一されてしまえば逃げ場も変革への力(暴力,武力的対抗手段でない事を想いながらも)を用いる事が出来得る選択の可能性すらもは凄く低くなってしまう。 では例え英米の陰謀であったとしても現在の香港のように、その一部に組み込まれた内部からの多様,自由への運動や穴の開け方は(イスラム国,ウーマンリブlgbt,etcもの良いも悪いに見えるも、もしかしたら他の意味の為に利用され賛同されているのかもしれぬとも、本人たちは自分の信じている良い事の為に自身を用い行いているだけではあるように、その可能性にも気付き自覚は用いながらも、全てを把握して動く事は出来ぬ又は判別せぬならば動けなくなるのだからにも人間にとっては或る程度に仕方ない事であるともは言えるようにも)一つの在り方の実験としての指針を示してはくれるのかもしれないと観ている事は(観ているだけで良いのか? 判断出来ぬからといって何へも関わらぬのか? 如何に世界や共同へ関わるのか?等はあるが、)出来る。

破壊に拠りて、歴史の必然的(にも見える)歯車が回り始める事はあるが(ヒトラーによるユダヤ国家建設なども)ではユダヤやロマなどもの放浪の民が経路を分けてさえもスペインや日本(それが本当だとしたら)など最果てへ辿り着いたように、そこには物語的な暗号なども無かったであろうと思われるのに(ロマは口承だろうが、それに関して秘された全体共通の伝説など無さそうだしユダヤでは、そこまで共有可能で分かり易いコードの封入が行われていれば解析されているだろう。)どうやって、そして何を目指したのか?とも好奇心が思う。 又そのロマの移動が、多様を挿し込む為に何故かも分からず、や抽象的な理由で歩き出してしまったのかもしれない。し、次の移動を促進する為に何かに突き動かされるように各地での排斥者が突然に声を上げ石を投げてしまったのかもしれない。 が、しかし世界の計画に尽くされる為の動きがあっただけだと俯瞰で捉えられたとしても、その為に一体どれ程の悲劇や苦しみが、それを行う主体,当事者たちには与えられたのだろう。と思うと、もし必然的な連関への精霊段階的調整や神的意志の計画がありての為に世界が為し動かされているだけなのだとしたとして、そこへの絶対的な信仰が求められ受けるしか選択肢がなく意識,自我,知性ある故に哀しいのだから痛み,苦の無い為にも無条件の肯定もしくは未分化の分別なき恍惚のみへ生きるのが正しかったのだとしても、又は肯定に至る事もなく勝手に苦しむが良いと放り出されているだけなのかもしれぬとも、やはりこの世界に生きるのは余りにも無情に過ぎるのではないか?

子を殺せと言われても例え生や死などの全てが幻想でしかなくとも、僕はそんな神を疑うし背いて逃げ闘い後の世までの苦難を 背負わされるかもしれぬし又はその選択を強いられ世界の為に殺さねばならなくなるかもしれぬようにも信仰しなくとも良いが信仰せねば勝手に苦難が与えられるだけの非情なのかもしれない。 しかしもし試練に耐えてこその成長や繁栄が本当だったとしても、一度約束しておきながら更に試練を与えてから乗り越えたから再約束する等という手法は自分で契約と言っておきながら卑劣ではないのか?

ではせめて平等ではない世界のままにも(本来自身自由の為の仕組みの事ではなく)各自への必要や段階を生きるしかない進み方や顕れ方もは違うを認めるにおいても、自己防衛や家族という垣根性をも持った生き残る術のようなものへ向けて生きなければならぬというような強さの論理や人より上に立つ又は相対的に負けない等の力に生き抜くか、それが出来ぬ又は嫌であるならば強者に負け奪われ死んでいくを認める中での肯定性の安寧を身に付けるしかないというのか? その中間的な在り方と道は当然あるが、そこにもやはり生き抜く為の力と境界,単位による比較,不平等があるのではないかという意味においてもである。

キューバ危機に関して核戦争前夜は、回避出来たのは考えられぬ程の奇跡であるとも思え、ぎりぎりだが最後には均衡的な動きと現在までの結果を与えられて来た人間の自浄力のようなものへの楽観もあると共に何らかの外部からの関与が有ったのではないかという憶測も信憑性を宿している程にも(それで滅びてはいないだろうが)破局的状況を免れたのは、信じ難いような偶然的な連結の上での均衡でもあったようにも、来ないかもしれぬが来るかもしれぬ災害へ備え、来なければ良かったというようにも選択肢を用意しておく事は自分だけでない皆にとっても良い事とは思われるが、それも金銭的状況や生活労力上の余裕などや又は個人能力,性質,方向にも依るものでもあるし、そして物などを用意し過ぎていても身動きは取りにくくなり、その時の必要に応じて必要ならば与えられるという身軽な意識へ設定してしまった方が良いのだろうか? 世界の破滅の時には何も持たずに山へ逃げろというようにも、しかしそれはその時には。であるならば、やはり通常は必要そうな物へ用意し重くとも持ちておくというような(生体本来の本能的な力ではないが)生存を道具で補助する事へ労力を用いる(運搬コストの金や体力なども)方法を選ぶ事との適合,均衡を、如何に取れば良いとも言えるのだろうか?

128 9/1

128 9/1~

愛の存在と在る状態となる。

その瞬間への与えられし生を味わい観入しながらも、心いま此処だけでなく意識で光へ融かすへの気付きを当てていくにへとも流し去る。

離れ、関わる。 流し去り、向き合う。 の均衡と統合への関与や選択の中で、私を愛の存在へ転化する。

全ては最善だが現世利益的な幸福も求め苦がなく、心身の健康,愛の関係,創造の仕事,旅と拠点,富と繁栄,世界と私の,真の幸福,自由なる遊び。の最高に完全に果たされ生かしされ叶えられ歓び輝いています。 ありがとうございます。

神の視点的な俯瞰のようにも私たちを見ては祈り又は、愛と真の幸福と最善へ任せた自身の状態へとも化す。

全宇宙と振動の生命世界根底と魂次元の(横も縦も全方向と包括の)私を越えた私自身が成るを在る光自体と流動に充ちる。

21:21~

未来を先取って書き置くも出来るようになっていたようにも、そこへの現在が適合されていくをなぞり取りて、未来からの光円錐が全てへ渡って差し込むように、そしてその頂点は全てへと満ち拓く光の爆発や遍満へ行き渡るように私と世界の今と過去と全てを照らしている何にも無駄がなく最善でしかなかったようには思える、この一点を到達地の今後へと適合されて生けるを行き会わせ歩み取りて逝くのだ。

I'm walking. I'm walking on my way of life what it to be totally freedom on nature flowing & creation of existence.
(私は、自然の流れと存在の創造に対する完全な自由とは何か、自分の生き方を歩いています。)

私は私への存在と芸術を成している。

統合,適合,均衡,操作,欲求,等もが、ひと連なりの一連にも区別は付かず選択の自然と人為にも宿る必然性(が有りても無くとも、どうしようもなく我々を越えた連結,連関性の必然を起こす流れが行われてはいる。)の質的方向の境界,基盤付けは難しい。

魂的な流れとの関係に触れる必用もなく又は、それのみで良い。 が、やはり流れを受けて流れる事に最善,必然を感じているように如何程迄に自己による選択への観入を必要とし目指し行うというのか? 肯定一つの心と生存,存在という過程を(目標に辿り着かぬとも)逝く味わい自体を歓びへ融かすゆくのみにも在るという創造以外に現実関与の判断,意思,意識と具体なる私各自への創造同士を逝く事や、それを根底,潜在的流通の自己最少や魂次元段階での連結へ関与する自己最大などもの何処に判断と操作を置くが良いと、(消去法的な全て良しの肯定ではなくて積極的な到達目標としての肯定へ見い出し)置くが良いというのか?

意識によりて改善されたい事を最善へ融かし込む光を当てる。 それも欲望ではあり本来に在るがままでを取り戻すとしても、しかし花粉症を克服する均衡を採るのか、現在の人間としての花粉症を受けるという均衡を採るのか。のようにも、つまり為さずを為すか操作への意識と光の当て方により為そうとするのか等の均衡と選択の取り方。 しかしそれは依然にして秘された深奥なる魔術。でもあり、それを感じ生きる為の我等が在る。

均衡と適合の意味合いは違いても似て同じような状態や目標ではあり、流れとの適合を選び感じ行い為し得れば均衡も為されるという程には言われていて良いだろう。

では奪われず与え合う存在の共存、という一つの現化目標地が達成されぬ場合にも
歩む事自体が必要事態ではあり又、如何な状態判断にも取り込まれず何が力へも用いず委ねず使用されず囚われず、それは必然か等にも関係なく肯定のみのままと幸福の最少達成(労力が最少かは分からず却って難しいかもしれぬが)基準へ歩むがのみで良いのだからにも奪わぬ共生世界化などを求めぬが正しいのだとしても、~(9/2)~
どうせ生きているのなら私は共生的な関係や状態を望みてはしまう人間としての形へ現れた喜びでもある必要と欲望の愚かさでもあるを生きて、しかしそれを生きても良いのではないかとも思う面も大きくある。 (そんな事は当然であるのに何を言っているのかと思う人へ対しては無知性であると言っておこう。)

単純で当然にも有り得るような、共生的な相乗という在り方と目指し方すらもが難しい人間というものには(2極性また無限多様を含んだ人間において当然,簡易に叶えられるという意味ではなくて、しかし気持ち良く生きたいね。 奪い合わずとも相乗可能な共生への為の目標と理解の道もある。等を発見し目指し自身によっても行える。という当然が出来ぬという面では)自身の出来る事で働きかけるを求めてもいるが、もう諦めて放り投げてはいる。 苦の循環を子孫や生命界へも創出させたくはなく、その為にも私は私の生を使って闘っているが成るようにしか成らぬへ為されるだけへとも任せて逃げ生き延びては種なるを遺せるへの存在を培い目指し世界への自身こそを高めるにしかないという闘いを続けてはいく。

光を当て愛を送り愛と成る存在変革へ在るだけの私を生きて、共生的関係や自己を生かせる事も含めて種なる拠点必要などの為にも現実化は欲しいが、自己の段階を認識すると同時に如何なる制限への設定もせぬに自身を置く事もが私には出来るへは達せてはいる。

昨日、群れから弾かれるような事は、特に日本人は良く有るし大人になってもだ。 感性的には素晴らしいのだから自分たちの事をやってれば良いんだし、響く人で遊べば良いから気にする事ない。 でも世はそういうところだから順調に行き過ぎるよりも勉強になるし上手く行かない人の気持ちも分かるようになれる。と子にも言うたように実際には他者関係に弾かれたり否定されて気にはしてしまう自分でも言ってあげられる事はある。

しかし自己の感性や感覚よりは、他者からどう見られるかで生きている個の無き日本人の間にある事での問題は多いが(それは真の自己を越えた自己最少と最大化の同時では無き全体主義的な滅私のような質性の違いではあり、日本人は人々に言うように新たな文明へ寄与する能力も持つが、その質は自然,共生,理解と多様自由の上にも成り立つ黄金期の方向ではなくてテックへ吸収された非生体なる自己越えの方向へ転んでしまう可能性もあるように現在は人類にとってもそれは同じく分岐点でもあるのだろう。)海外では個であるが基準である故にもの生き易さはあるが、表層または潜在からのであっても自分を基準とし過ぎた俺がこう想ったのは押し付け押し通すというような力の対立と強者の論理なる世界ともなるように、真にその変革性が為されぬ限りは何処も同じように人類には絶望的な諦め感しかなく、又もし進展へ向かえたとしても、その範囲は感覚的に自由に共生的に在れても真の進化などへは到達していない故に又、いづれ破壊への拡大を持たらす可能性を宿し続け苦のない成長は良い方向だがそこでの成長可能性も奪ってしまうのかもしれぬようにも、やはり私の想い求める世界の現化可能性については期待はほぼ完全に出来ないだろう。

そして真に進化などが出来ぬとも共生的な生存を叶えられるかもしれぬ段階への進化へさえも現在の人間には余程に少しづつの進展力を与えていく位の各自役割や性質に近い所での参与となるにしかなく、(政治もBiも、その過程,途上への関与の仕方へは各自選択への自身状況との関与があるとしても)アムスで思ったように日本も世界もは自身等に持たれた制限によりても今のようなままでは後50年たっても変わる事は出来ぬであろう。 (それは操作されたものかもしれず、)その環境が変わってしまえば享受,消費者である人間たちの社会も考察各自の知性や存在段階も変わってしまう事は充分あるかもしれぬとも、そこへの自力では達せぬならばの過程は災害など悲惨経過への期待を経なければならぬようにもなる。 それは災害や破局と死ぬ者たちの積極的な肯定と人類の業と全体調節の為に仕方ないから死んでくれ。 そして新たな世界が来たら良かった、ありがとう感謝し供養します。で済ませてしまうような事ではないが、しかし災害や破局的結果と経過も全体進展の為の連結であるかもしれぬを見ては、理解なども放り捨てながらも残りた人間の自身等内の均衡や納得を取る等への為に理解へ利用する利点または必要性はあったりもする。 しかしそれでは災害期待への欲求にも引き寄せ、その依存により任せ自身等で創り向上へ関わろうともせぬを催させるかもしれぬを把握する又は意識へ挿し込む事も必要とはなるであろう。 (それを話し言葉の関係,時間などの制限の中で伝えきる事は至難で伝えられたとしても大抵においては意味にもならぬが。)

戦争も絶滅期も手放しで良しとしていく態度は、捨て離れて囚われぬ超越性や俯瞰によりて観ていくには良くとも、その世界の為に自己を為し(その結論は傍観的無関与であったとしても)創り出していこうとする世界の中の自身というものを失わせるへの提案となりてしまうかもしれない。

それは自己と自己の判別性を減らし無くしゆく事と同時に自己のままに在りて最大化へ画して全体主義的な滅私へ吸収されず、しかもその自己のままとは表層自己を無くしゆくだけでなく顕在化された現在総合体の自身のままを感じたままにを(深き観察などというのも伝えたところで、各自自身の感覚や段階に拠りてしまうへ任せるのみしかないが故にも)ゆくにしかなく、そこにも必然が為されているのだとしたら何を変えるも無意味であれば(必然のみが起きているのか必然を生み起こしているのかは区別がつかず区別必要があるのかも分からぬとも、変えたところで必要があれば又も他に変わりが出て来るだろうにも)自己を減らし魂的な自己へ 近付いていく必要等もは有るのだろうか? 魂的な自己の潜在や流動へ触れての感覚や選択に達しゆくという在り方は進化への道としてではなく、ただこの生をどうしようもなく生きねばならぬなら、その味わい方として深めゆく事が面白いからであり、それによる正しき選択かどうかの区別判断も能力の開花と関与などというものも不必要であるのかもしれない。ならば更に混迷でありて何を生の基準としたが良いのか?へは只生きて為される生の連続に感じては生く事以外にはないのか? (そしてそれこそにおいてすらにも、人々の言う知性で考えていても深めるにも行為せねば意味がない等というのは、そこへの一理を取り得るとはしても論外であり、この自己と選択と感覚の問題と視点などにおいても又それ以外においても彼等の言う浅ましき真相点を真実基準として無条件に取り入れる事は出来ない。)

未分化の個から超個へ本当に至れぬのかは特例的には有り得るだろうが通常全般の道としての適用は、結論づける事は出来ぬとも確かに難しいだろうとは思われている。 ではその生体の一個総合体の奇跡としての個(personal)を基盤としてこそに深めゆける世界への立ち会いと見えていき方もあると思われている価値や、主体としての個を通してこそに発見し経験し成長させるへと歓びては、突き抜けた最少であり最大でもあるに矛盾もが無い超個へ至る道と境地は見い出されるというのに(絶対とは言いきれぬが)やはり僕は同意や共感してはいるのだが、それでも考えず忘れ流し去るだけの未分化的状態を通しては任せるへと祈り託すのみであったり(そこまで委ねるへは各自の段階における納得や体感的な理解のみで良しとする事はありても仕方ないとはしながらも、本質的には実は理解的な知性にもよる納得は要るのだとも思われ、私におけるjunyanaによるbakthiが持たれ待たれているようにも思うのだが)、それが生体のなき全体融合の無私という方向(それが間違っているとも言えぬのだから、野生,原始主義的な人々は理想化されたイメージ等の以外に、そこへの説明を考察し与えては欲しいとも思うが)を取りゆく事ともへの均衡,整合や到達への理想目標や行き方を、考じ講じられねばならぬというのは、祈るだけと他力性の存在化や電子的融合へ自己なき状態への動きに一直線に吸収されていくのでもなく(そこへの批判へ一直線に取り込まれるのでもなく)特例者や次世代者などが、何か出来ちゃったからこれで良いだろ。という以前の現在の私たちには(又はそうなった後においても)考察されていかねばならぬとは思われているのだ。

未分化の恍惚が正しいのならば(この知性に達した意味や価値付けを理由として利用や採用するのでもなく)しかし植物状態の無反応(確かに愛の恍惚はそれにも近いが)や徳ありての認知症的存在化した人などや赤ちゃん又は動物,植物等が最も素晴らしい中で我等は只、知性という枷による苦を産み出す無用の上に下層存在化された現れに過ぎぬのかもしれず自我を経てこそ行き着くのが最上的な価値である等と意味付けされたものの意味などは無いのかもしれぬ中での、それでも自我と個ありて故こその(それによりて現生の味わいを生き、超個への道へ使用も出来るという価値判断づけを見い出さねば哀し過ぎて存在出来ぬから等という理由以外での)積極的な超個への未分化方法以外での理由と行き方を見つけ出さねばならぬが、それでも全ての存在と段階状況には既に悟りの道や偶発的必然などもが内包されている上で、我等への生体は(これが悟りへの唯一の道として現れたからではなく、幼児から自我への進展過程を経てしまった種や存在の中での悟りへの在り方もは有り得るという道の見い出し方に過ぎないのかもしれない。 ならばtrans personalでの個こそに超個へ行けるという理論自体は(我等の歩みの中でどうするか?へは適用や使用は出来ても)崩れる。

そして、それらとは奪われていく意味をも越えて苦しみなくとも真に成長できるのか等もは自我,個の問いと同じくに有りて、自我と知性と分別の故に深め感じゆけるように(その苦の現状は苦しく叶うをも求めてはしまうが)苦が有りてこそに深められて、それがなければ満足してしまい突き抜ける動力としてはいけない我等性は確かに有る故にも苦は無くそうと努力してさえも良くないというのか? それは人為操作,強制からのものでなく自然界に起こる生老病死の最低限に関してからの生き方の問題へ還る事は求め正しくとも感じるし、それこそは原生的な(原始至上主義ではなくとも、そこにも近付く)生存性社会や存在化を求めるへの理由でもあるが故にも、では人為による苦の生産を減らすへは関わり、しかし自然界の働きや不都合を抑制しない中での又はその操作や便益性との折り合いや均衡の取れた形での関係や技術の使用性を見い出されなくばならぬにもよる中で、生命との感覚や観察に苦を越えた肯定と愛を目指し叶えゆくという状態と道を創るへと目指すが私と世界の必要と突き抜けていく基準であるとは言えるのかもしれない。

そしてどうしても自身と他者へも共有可能な成長への行き方と生存(の質)性をも求めてしまうが私ではあるが、真の幸福などと思わずにも例えば知性的ではなくとも感覚的に感性が共有でき、一方的には否定などして来ない人との間には心地よくは居られ(草深,幸喜,秀征,由くん,ヒロくんetc)そことの関わりにおいても自身の言った事へも振り返り自身への成長へ向けてはいられてもいる現在のようにも苦を経ぬとも観察し深めてはいれるのだし、真の深き知性と幸福などを求めぬとも人間は、この生を味わいては共生的な現実利益性にも在りて生きられる幸福となれるが良い上に成長や進化出来得る可能性も育めるという程度での、人間とはその程度のものであれば良いのか? そうでなければ未来(真の悟りではなくとも或る程度の共生社会化以降)への知恵とも成り得ぬのだから故にも、先ずはそこを目指すのか?とは(真の進化なくば又も破壊が起こる故にも、今回機会を生かせられればと思う私の人類への絶望と囚われも外し段階的にしか進まぬのかもしれぬであろう世界へ折り合った進み方としての存在へ 生まれ存在性を取るという事なのかもしれない。

これも真の幸福と進化への到達ではなくて過程(Biか金のない世界かのように、金のない共生性か、それをも越えた真の進化かのようにも)の取り方と現在適合への均衡選択でありて、又その超個の存在性と在り方というのは魂的な段階越えや宇宙総体的な知性への 同化を想定するのか又は仏陀的な心と最少による正しき均衡点や調整点でもある統合もしくは中間へもの基準性を生存自体へ見い出していく事か?等は実際現在の私自身における問いと観察とも同様のものであり、つまりは私の最終目的地と到達の在り方とは何処である目指すのか?へもの探究や掘り出しでもある世界と同時一体に通じる自身を通してを生きては在るのだ。

しかし感覚は合いても共有は取れないメグとの関係のような例もあるが、それは僕の共有,相乗,共生性への囚われである以上に、やはり一方でしか見ない(自身を覆せぬ自己のままの正当化、つまり観察的知性の足りなさよりも相手を理解しようとする事(思いやり)などもでの世界の感得の否定でもある、自身判断だけで開き直り成長は(しても流れ来るに任せ、それは良いとしても真相を知ろうとした事による世界の味わい方での喜びは得られず与えられる世界を消費(創造も消費だが)するのみでありて)出来ず故に、真に共有も出来ぬ事での問題ではあるとも言えるだろう。 その時だけの真実(それさえも見い出せぬ人ばかりだが)に寄り掛かってしまい判断と正当化加えてしまいたり振り返り見れぬ人ばかりとの中での学びの故に、それらとは適合点の対応も持ちながらも基本的には(そういう人ではなくてもだが)自身積極関与からの行為からは離れていなければならぬと分かったように、では社会もは同じく幾ら生命界の為にも変える必要を感じていて関わり闘い慈悲が為にへも努力するにおいても自身のみの生以外は諦めて心の囚われず離れている基本を身に付けていかねばならぬは自身に出来る事を生かすへと無駄な事への消耗をも産まず(そこにも勿論その行為各自への流れは生まれていくとはしても)最少により機を為されていくにも流され自身必要の以外での因果の影響を、なるべく世界に巻き起こさぬによりて傷つかず傷つけぬ為にもの在り方でもあるが故にもなのだ。

しかし私も感情的反応や囚われでありてもなくても、鐘や鏡のように相手への同じ力で打ち返してしまう表現を持つ位は、その価値に相手が気付こうと気付くまいと表明態度やパフォーマンスとしても又は世への可能性を置き残しておく意味でや実際での提案としても良いと思いてもいるし、愛への変換の意味での合気道的手法面は存在において行われれば良いのでありて待機説法のように打ちて来た機会に合わせ打ち返してみる事は、暴力へ対しての制圧や交感的な身体交流を用いた遊びへ転化してはいるが自身の中と相手からの力の使用を止めてはいない合気道の現実対応力の側面のようにしては押し付けの暴力に対して押し付けるなという対効力を当てていくにおいての同じではないかとも捉えられる。

そしてしかしそれは相手より上を行くことで闘わぬ、つまり否定を制する力で圧倒する事を一つの眼目においた手法ではあり、こちらには受け入れる強さがあるから打ちて来ても良いぞというのではなく人を攻撃すると返され制される可能性もあるぞと世へ潜在的にも示し挿し入れてもいるような置き方や、その人間の暴力性や能力に応じて身体を用いたいという欲求も認めては、しかし闘いよりも交感同士に気を合う流通を持つにより鍛え練習するという遊び方へも転化されている方法とも捉えられる。 という意味を見い出せるにおいても尊重し学ぶ事が出来るが、では僕や対人間の在り方や手法自体としてそこから適用出来る物は余裕を持つ程の優位性からの眺めで対機的な人間対応へ囚われず攻撃されても世の理知的な運動力を伴った上の力で返せるぞと示しておくことによって打っても良いではなく打つと制圧されるかもしれぬと思わせる相手の利己心,利益判断や怖れも利用した力の使用を恐れぬへ交感の遊びを用いるという方法(それは現在に既に為されているもの)であれば良いといえるのか?


全てが自由,多様で何が指針と見い出されていたかや方向性よりも(それも現在時点の自身化へ通じてはいる大切さではありても結局は)現在感覚に起きた事へ対応してゆくにしかなく(心身健康の為や愛へ押し込めての反動すらも良いのだとはしても、それを反動へ出さずに済む為にも)、現在の自身にとって何処が納得出来るか?ではあるのだから、最少的な自己へ近付くのも自身の為でもあると同時に、行いたいならば行うしかないも良いと認められており、ならばその自身にも全体へもの指針とは、やはり攻撃も良しではなく受け入れるだけでもなく心では受け入れて囚われずを目指しても態度では力へ対しての制圧力を用いる方向であることが適合にして中間でもの基準ではないのか?

それとも如何にその指摘などへもの質が、相手の理解と思いやりの上でのものであったか等にも関係がなく、幾ら相手が間違っていても又は判断的な攻撃をして来たとしても、自分が打たれたくないようにも打ち返すべきではないのか?

私は傷つく。 自身の創造を行い、その力とも灯しては、他者から受けるものなどを気にしないと心を張らなければいけぬ愛への方向が故の惑いにも在りて来ては自身へ愛を強制もせず、(それでも心は囚われを越えた愛とはなるを目指し進むが)存在と対応を分け二元的方法も良しとしてしまう理想と現実や内面のみと関与や最少と最高のようにも通じる柔らかな均衡の取り方を現じさせても良いのではないだろうか。

流し去ると振り返る,忘我と自個,のようにも、その統合的基準点への均衡や適合は両方真実性を認めたところからの組み合わせの問題であるのかもしれない。 しかしそれでは、各自の考え方に任せるしかない抽象は余計に増すのかもしれぬ故にも基準を示し置きたいが、それはこの書いて来た記録の繋がりから読み取られるものもあるだろうし、それを僕においてまとめて示す事が出来ぬのならば基準化は、この種による次の人の仕事へ渡すへの糧となるも良いのだろう。 私は此処に私を置くという仕事を続けるだけを生きるのだ。 そして現実化しても流れ去ってしまうとも、誰にもおもねぬ僕自身の方向設定によりて生活出来たり旅にも行けたりするようにもなって来れたのだし、心一つの状況にて全てを幸せと感じるか苦となるかは覆るが、実際状況は良くもなって来ている現実状況も伴ってはいるのだから(そこを基調としておもねると、良くもならなくなった時に又も絶望へ陥るかもしれぬ故にも現実化状況での判断や依存や期待をせぬようにはせねばならぬが)どう何が如何に成るかの 設定,判断はせぬとしても、きっとうまくいく。 その為に、この用意も行われ続けて来たのだというような納得への意味付けや期待も過度でなく覆され観ながらには持たれていても良いのだとは思われる私において、結果にも囚われず何が来ても受け入れ対処し死なずとも生き延びるのだとしても(人間的弱さが何か信じられる解釈へすがりたいようにも)、私が為され真の幸福と共生性へもの世への役割へとも生かされるはずだと思い描き信じゆくのは(本当かどうかに関係もなく思い込みは覆しながらも)生きる力として使用されても良いのだと認められる(自己現在の正当化的肯定でもあるが正当化的肯定だけではなく)ようにもなっては来れたのだ。


世界は自分の鏡だから自身状況が反映され学びと必要の為にも返って来るというのは(その面もあるというには認めるが)、しかし自分は全て悪いから世への批判を無くし押し込め又は愛となれたらば人為に打たれる事もない等というような自己責任論の事ではなく、そうした面での現実化も起こる事はあるかもしれないが絶対ではないし(そうだとしたら自然界が人間に傷つけられ奪われているのは自然界自身の責任であり破壊されて当然という事にも繋がってしまうだろう。)そのような浅い時物の判断に利用されてしまうでもなく、思い込んだ方が現実と成る思い込んだ者勝ちのようなものでもあるので肯定的な現実化が起こっているから高く真実に近いわけでもないというにおいても、振り返れぬ自己正当化が故に自身への現実化が起きている状態を見る事も多いように全てではないが人々の浅さの証明となっている事も多いだろう。

何が幸せかの定義にもより現実的獲得も僕は否定しておらず二項的真実を認めているとしても、やはり浅くとも現実的利益は得られているのみによる幸福であれば良いという判断や、それが最高の実現生命だという意見に汲みする事はなく違うと思う。

深く観れぬ又は自身判断のみである阿呆でも感覚よく人に開けて生きれるならば良いというのは、只生きるための生命力や他者利用に関しては正解であっても僕には違うと思われ、そこに質性を求めてもしまう。 そして何をやっても突きつめれば何かには成れるから良いのだという人の意見については何の仕事でも良いというなら、それは経済至上主義の一環でしかないのだろう。

経済よりも独自~original~であり真似ではないことの強さもは有り(だからといって真実に近いかは別問題ではあるが)しかし独自で在る人は生き辛く経済的に困窮しておりて社会的な発言力も持ち得ない弱者(それが例えば貧困ではなくともrainbow gatheringのような経済方向へ関わらぬという肯定的な場合においても)である場合が多く世を変革するような力とはならないが、それが離れ眺め変革への動きや巨大なダムをも崩す一差しともなるかもしれぬ時代の機会に会いても、そうした過程を採るへは関わらぬ傍観的な又はalternativeのみでもある在り方と行動基準の採り方の積極的肯定であり、人間を諦めながらも意識変革への仕事を諦めないのは自身への宿り来る機会や実現での結果を待ちながらにも、しかし逃げ伸びては物質世界が自体により勝手に崩壊した時の種となるのを待つ位にしか行為も関与も協力もしない。というので本当に良いとは(自身納得であれるかの以外に又はそう自身が信じられるものを見い出されなくばいけぬ探索の為にも)言えるのだろうか?

~I'm a style. It's not of fashion.~
~I'm spectator to be my self with what is direction of truth. & I'll have a choice to do for just what I can create.~

そして世界とも同じように家族は自身等によって切り開き培い、そのものが何とかなっていってはくれるだろうに任せ放り投げても良いのだろうが、僕においてこその感覚や共鳴性において与え育み培い合えるものの良さと価値はあるとも信じられているように、何が出来るかや又は出来る最少のみでなく自身の最大限化をも目指し関わる事と関わらず捨て自身だけを生きる事とのバランスを取られてはゆきたいし、そこへの想いや過程へ対する提案や意図の提示へも在りて良いとは思われてもいる。

捨て流し去り自身変革と本質自己のみへ向かい合い交感しては生きるを味わう価値と成長を喜びながらも成長を求めず(信じる為の期待も良く囚われるへの期待もせず)自身に出来る最少のみを置き行い自身最大限化の可能性を試し発露しゆこうとする事へもの選択や労力や闘いや力の世界に巻き取られる事も流れと役割(真に必然でなくとも弱き人間の自身を、そう納得させるにおいても)に感じられ又は流されたり、その時の感覚や現在ごとの性質や自己越えたものに為されているにしかない事での一体などもは、しかし言葉においては置かれる矛盾でありて(言葉でもの明確な現し方を探しながら)も、実際的感覚の既にもある統合の一致であるとは言えてはいるのだ。

何を話し伝えるか等においても、別に僕はコミュ障害でもなくて(勿論たまに自身の思いや基盤共通が皆も同じだろうという、思い込みのみで行ってしまう事からの失敗もないわけではないが)同じような感性や共有土台で分かち合える人が少ないというだけで何故か(何か働いてないけど上手く行っていて楽しそうというヤッカミなどもあるらしいが、それは自分の努力で作りあげて来たものでもあり自分にとっては相当に苦難を経て来てはいるのだが、そこへの想像や思いやりは全くにもなく一方的判断ばかりがある)必要以上に攻撃されるような事が多いのだが、そんなやつや人間社会に対しては、僕の価値を自身創造の出来る事以上には置いても関わってもやらないよ。という基本スタンスには離れてしまうも良いのだろう。 そしてなかなか充分に(理論的説明,集約よりも肯定的熱情などの方が受け入れ取り入れられ易いという面はあるようだが)僕は既にも、そうした行い在り方を為し得ているとも言えるのは、子供との交流において何を言うかへ言わぬとも良いが言い又の機会にその上での面を伝えたりするにおいても必要的な流れへの行為,言動化は出来ていたり、他者間にもおける議題へ対しての提起をまとめ集約し基盤を底上げするにも置き、しかしその場の人々の状態や必要以上には言う事も無くて良いなどと観ては止めて放り出すというように均衡も取れているのでもありて、聴く人の間では言葉でも自身を為させる事へ結び付いているのだからにも、僕に障害があるのは判別的な人為と浅さへ対してではあるだけなのだ。

そして母などもがように、意識と方向性が良ければ良いという事でもなく感性が良ければ何でも良いのでもなく、(ヒトラーのようにも)魂的に深いかの質でさえもなく一方的な制限体自身からによる判断の押し付けを行わず他者だけでなく自身や世界への理解へ振り返るという基準は、それ故の強制や義務的縛りにはならぬが良いとしても、あると思う。 そしてそれに対する対抗力(強制とも言えるものだが)の用い方は、(その度合いは問題であるし、一つの事を選択し決定し行いてしまえば次に現じる現実と状態への制限と因果を生んでしまうとはしても)やはり有りて良いとも思われてはいるのだ。

では身口意へ対し貯めずにも吐いた後で、自身の中では覆す意識の光へ流し去り転化させていても、しかし社会的存在としての人々の言葉を使用し表面的に共鳴し必要を感じては置くような対応や交流への説明においても、その表現に宿った身口意による他者影響へ対しては(そこへも自身に中での愛と変容の意識を当てる事は出来ても、その労力以前で済ませる意味においても)如何に行われ吐かれるかを考慮されているべきなのか? 過程的な存在でもある私という探求と惑いの現在にも在りて超越的な視点と愛と肯定の真実面のみを言うのでもなく社会の肯定的解決への改善点のみでもなく、だから駄目なんだというような事も解決への提案への大切な事と思っているのだが(そもそも解決されるべき何かが在るという設定づけ自体が突き抜けた超越ではないとしてさえも)、それを行いた事による他者影響を(それはその人のものと捉え方へもの責任だとしても)孝じるにおいて如何なる表現ならば(何が駄目ではなくても)良いと言えるのか?

音楽にも同じく伝える為の言葉と説明よりも自分への意識をtuningする言葉への化し顕し灯し方。であるを分かち会いでの形にも至らせる。 しかし到達への過程を現す事が到達性への手段,戦略とも一体であるように、やはりそれは不可分な面も有ると思われ私に行われている現在の選択点にとっては既に為されている面も有ると言えるとも思うのだ。 他者間においても自身のみに在りても同じように必要を感じては選択へ行い(対抗的手段化必要時以外においての通常においても)、自身説明も惑いもを含めた統合や多様への価値提起や到達過程への姿勢や考察現在とも共に至り得るべき地点への獲得されて来た多分の真実に関しての観入断片を(対者等が気付くかは知らずとも)挿入していられてもいる。 しかし雑な意識への影響を催さず、もっと肯定的でもある集約された到達,統合性へ引き寄せてもくれる音楽的,関係的にもの言語の使用方法は(この現在を逝くしかないを認められた上にも)考じられていく立ち会いを日々に意識していってはみている。

伝えようと等とし過ぎず思いもせず対応するに話しているのは上から教えを垂れようとするよりは良い。が、その者の段階や状況に合わせて必要分+ alphaくらいで関係しているだけよりも、もっと超越的な存在のみでの付き合い方へ行ききった方が良いのか? (どちらも自分の納得や現況に合わせた選択の良しではあるが、ここで言われているのは社会的な言葉への置き換えなども他者状況や待機的応対でもなく到達へ近い存在などを世界へ放つ在り方と成る方が良いのか?等の事。)


向き合い振り返り,捨て忘れ流し去る。の各真実と全包括のようにも、何処にも縛られぬ固定を避けた在り方によりては各自の中での観察を行い続けていって貰えたら良いというだけの事でもあるのだが(そんな僕の嫌な事や求めている事も明確さを帯びて来たのだが、しかしそれは共生への理解という人為や自我を何とかする等の以前の単純さではある事が為されないようにも)大抵の人間は全ての真実と自由の上に開き直るばかりではあっても、そこに統合への創造と過程を自分で歩こうともする事すらが出来ない。

一方的判断も嫌だが自身の感性で生きておらぬ故の判断である質もが更に嫌であり、(勿論その自律の度合いなどは程度の差であり誰も真に自律などしておらぬが)ではこんな価値を見ようとさえもして貰えない人間や社会などへ対して、肩書き的な人間判断への対応の力を持つにも反対だった僕だが、肩書きのみからの印象判断ではなく自身からの創造による社会化された価値と結果へ対する承認的判断によりて自身の為したかった事を認めても貰えるような力は(zacなどのような状況においても)認めてもおり持ちたいとも思えるようになった 。


叶わない事における欲求の肥大を経てはいるが今も最高を与えられてはいるに生き、創造の仕事のみが叶うかにもよりて他もが叶うか叶わぬかもの私の今後の結び付きは二分化されてしまうかもしれぬが、そこへもの自身設定へ取り込まれず例えば拠点の流れの来ぬならば日本であるへも囚わず、先ずは出て行くことへあるもが良いのかもしれない。 それが如何なる見える結果へ繋がらぬとも放浪の性質は生かされるかもしれぬし、それはしかし晴明神社で言われたような呪にも設定されずとも、音楽家という選択へ導かれたのは放浪性と創作的な世界との関わりへの基盤として折り合ってはいる発明的な折衷案への自然な結び付きでもあったのかもしれない。

何かを成す事よりも小市民的な満足と地域社会への滅私充足や市井の聖者であるという価値観にも縛られず、何が得られぬとも自足ではあるに生きて向かいながらも自身の本来性に基づき何が行いたい行われるべきと感じている事ならば為すへも向かい、しかしそれ認めてしまえば殺人者の創造も罪に問えなくなるかといえば彼等は彼等の責任として人間社会的な現生での罰と刑期判断等を受けるも仕方ないのか?との折り合いは取りゆきながらも(人道的な刑務環境作りも有りうるという等のように?)、その本来性の自身というものや、そこへの自由においては奪う事への囚われ(生きている以上どうしても奪っている部分等ではなくて意図的な排除の傾向化であるような)は無くなっていく事を(それだけで全てが解決されるかは分からなくとも)社会と人間の基盤傾向化させていく事は出来ると 思われ、つまり如何なる時代となったとしも人には善悪がそのもの自体に有るのだとしても、その出現リスクは(徹底管理でなくとも)最少化できる(が、それ以上は諦める?)というような均衡策を持つ事も有り得る可能性ではないか?

(上記文の途中から9/4~)

ならば本来性(とは真の本質,非実在的実在性の段階までの事ではなくても自身への役割ではあり尚且つ、欲求と囚われによる意図的破壊や強制力への判断,操作,人為欲求もは生まれにくい状態ではあると言える程には潜在的深さにも近い状態への希求ではあり、又その僕の望みの部分の何故に 潜在的本質性への進化,深化などを目指したいのかの理屈面の補強理由でもあるとも言える。)に目覚めるへ生き、その自由に在れる状態が人間に喜びを持たらし(最少対応性以外の自衛力や法規の施工,執行に伴う権力,管理を必要とせぬとも)自由を奪わず奪うという基準は何であるとは最少に定め(自己能力や意思に基づかぬ事をさせられる。や理解なき操作と押し付けが為される。等か? そしてそれは生命権にも対応出来る。)奪う者には如何に対応する(全体統一されていない条例的な各地域での多様と自主選択もそこに尊重,保持されている共同体自決だが内政干渉の固辞などではなく共に緩く干渉もされあっているような状態を作る事も出来るように思われる。)等での憲章的共通は、こうして活用可能となれるかもしれない。

全体や型の為に無私であるを目指した傾向性は昔の日本人にも勿論あったが多分、昔の人はもっと個が立っていた。 つまり今のように画一的では無かったと思われる。

自己ありた故からこその超個が絶対条件かは未だ分からないが、やはりその進め方への提案にへは自立(経済的なものではなく又は孤独でもない、自身本来へ向かいて立ち存する事。と言っても良い。)を経ての、その自身本来へ向けて余計な人為を(人為も、それ自体が悪いものではない。)抜けていく方向への作業でありて、僕にも過去経過に行われようとして来てしまったように自己なくした超越へ目指す事(それもそれ自体が間違いではないし又、必要な経過でもあったが。)へと自身を押し付けてはならぬのでもあり、それは自由による道を選び持たれる事にも通じているのだ。

進化という変化は、それまでに起こって来た原因にもよりて至った現在という環境,状況にもよる傾向や性質性において可能性の許容範囲での、どちらの多様を実験するへ向かったかの自然的連結と過程の現在けっかではあるのだが、そこにはその生体や種の(意思にも上がりて来る分はある)想いのような傾向性と、つまり生体からの方向性や自主(とも言えるような)選択によりて為されている面は有るというように感じられている故にも私は私の意思や感覚による選択にも、その現実化を物質的に催していく力は(波動や量子力学などの面でなくとも)あると思われ、その使用法を自身へも行いながらも説いている。

深い考察ではなくて軽口で言ってしまう事もあるが、鳥は気持ち良いから飛んでいるというのも(生態的にも適合してしまっているから。が最もなる理由であるは勿論なのだが、人間は歩く生体を現況までには与えられていたから。という以外に、歩く為に生きている。 必要からではなくとも、気持ち良いから歩いている。とも比喩表現だが言えるようにも)そうした自主選択面の以外としてもの或る意味では本当だ。

では自身の選択と方向性によって、苦しい過程を経なければならぬもあったが何とか暮らし養育費も払い時には必要性への望みによって旅にも行けるようになったのだとも(だからといって何処でも通用するわけではなく日本に生まれた私の状況などに、つまり先程にも言った現況に拠るところは大きい、許容範囲の中での可能性の試しではあるのだが)言い得るとも思えるように、それは現実へも作用する愛の存在化を味わい日々に逝く事と、捨て去った事にもよりて囚われを抜けていく度に(繰り返しであるも多く今のところ現実化と流れ去るのが交互にも来てはしまうが)身体性への進化,変容,関与以外の意識と存在による流れの宿り来たる現実的な影響や波動的な意味もあるようには感じられてはいる。

では意識で設定する目標金額の望みなども楽になる余裕の為にも少し欲張っておく等でも良いとは思うが、必要だからと待っていれば何の行為へと化さぬとも(必要ならば行為の内容が又も見えて来るであろう面はあるとしても)意識の方向と捨て去ってもいくへの、愛の存在化だけで良いのか? そして流れ来た時に逃さない方法は未だ僕にも分からないが、その時に感じた自身を行為しての結果が成らぬとも、それは自身への必要ではなかった流れであるも見えていたりもするし(そう思っても判断つかぬ故にも、試してはおいたりもするが)又、必要であれば次の機会が起こりては来るし、その間の得られぬ苦しみは学びとしながらも自身には耐えられていれば良く耐えられる事である事もが多いとは感じる。 しかし学びとはしながらも、なるべく耐えるのではない充足自身の在り方、もしくは得られる事もが伴いて欲しいとは思うが。

得られぬ事ばかりを言うているのではないのだが、得られている事も有るはずだからそちらを見ようと言われれば、比較して日本のホームレスは世界の貧困やシリア難民よりも恵まれているから満足しようという理屈づけと余り変わらない事も多く(勿論それが比較でありたとしても、持ち有りているものや良い面を生かそうという提案と意義には同意しているが)、自分を本来性に生かす形での自由や必要が与えられない(社会もの)状況や不平等において(役割も運も違う人々等の皆が同じ繁栄に至れるか?は分からぬし直接的にそこのみを指しているのではないが)その本来自身への自由,必要,状況は与えられるべきであるという
平等を起こしたいと思う望みを、(望みは良くないと消されるのでもなく)抱き伝え行為する、私の言動と創作や方向へも転化され提起されていくは良いとも思われているのだ。

それらは現実化欲求も捨て去ったが上でもの現実化欲求と言っても良いものだろう。

誰か特定の主人へ盲目的に仕えさせられる事への反発を抱かされるのではなく、自分の生活の為という自主的選択であるによるを利用し諦めさせ反発対象を隠され経済化した現代の奴隷制において、しかし貨幣の有益性も理解出来る故にもなのか、それは反発(例え心ではしていても)や覆す対象とは成りにくいらしい。 そしてギリシャでの民主や文化が有り得たのは奴隷の有益性が社会を回し自身等へもの恩恵を与えている事も理解していたが故にもなのか多分、奴隷達からによる変革というのは起こりにくいのではあろう。

外圧と侵攻がそこでの安定を壊し、そこで築かれた文化を破壊しながらも次の世界の多様の中での動きへと流入させ進ませたように(破壊は嫌だとしても歴史的な必然性を感じられる視点上からも視られれば)、そこでも一極集中ではない多様が外部に存在している事の意味が有り得たのかもしれぬが、では外部がない状態へ世界が統一されてしまえば逃げ場も変革への力(暴力,武力的対抗手段でない事を想いながらも)を用いる事が出来得る選択の可能性すらもは凄く低くなってしまう。 では例え英米の陰謀であったとしても現在の香港のように、その一部に組み込まれた内部からの多様,自由への運動や穴の開け方は(イスラム国,ウーマンリブlgbt,etcもの良いも悪いに見えるも、もしかしたら他の意味の為に利用され賛同されているのかもしれぬとも、本人たちは自分の信じている良い事の為に自身を用い行いているだけではあるように、その可能性にも気付き自覚は用いながらも、全てを把握して動く事は出来ぬ又は判別せぬならば動けなくなるのだからにも人間にとっては或る程度に仕方ない事であるともは言えるようにも)一つの在り方の実験としての指針を示してはくれるのかもしれないと観ている事は(観ているだけで良いのか? 判断出来ぬからといって何へも関わらぬのか? 如何に世界や共同へ関わるのか?等はあるが、)出来る。

破壊に拠りて、歴史の必然的(にも見える)歯車が回り始める事はあるが(ヒトラーによるユダヤ国家建設なども)ではユダヤやロマなどもの放浪の民が経路を分けてさえもスペインや日本(それが本当だとしたら)など最果てへ辿り着いたように、そこには物語的な暗号なども無かったであろうと思われるのに(ロマは口承だろうが、それに関して秘された全体共通の伝説など無さそうだしユダヤでは、そこまで共有可能で分かり易いコードの封入が行われていれば解析されているだろう。)どうやって、そして何を目指したのか?とも好奇心が思う。 又そのロマの移動が、多様を挿し込む為に何故かも分からず、や抽象的な理由で歩き出してしまったのかもしれない。し、次の移動を促進する為に何かに突き動かされるように各地での排斥者が突然に声を上げ石を投げてしまったのかもしれない。 が、しかし世界の計画に尽くされる為の動きがあっただけだと俯瞰で捉えられたとしても、その為に一体どれ程の悲劇や苦しみが、それを行う主体,当事者たちには与えられたのだろう。と思うと、もし必然的な連関への精霊段階的調整や神的意志の計画がありての為に世界が為し動かされているだけなのだとしたとして、そこへの絶対的な信仰が求められ受けるしか選択肢がなく意識,自我,知性ある故に哀しいのだから痛み,苦の無い為にも無条件の肯定もしくは未分化の分別なき恍惚のみへ生きるのが正しかったのだとしても、又は肯定に至る事もなく勝手に苦しむが良いと放り出されているだけなのかもしれぬとも、やはりこの世界に生きるのは余りにも無情に過ぎるのではないか?

子を殺せと言われても例え生や死などの全てが幻想でしかなくとも、僕はそんな神を疑うし背いて逃げ闘い後の世までの苦難を 背負わされるかもしれぬし又はその選択を強いられ世界の為に殺さねばならなくなるかもしれぬようにも信仰しなくとも良いが信仰せねば勝手に苦難が与えられるだけの非情なのかもしれない。 しかしもし試練に耐えてこその成長や繁栄が本当だったとしても、一度約束しておきながら更に試練を与えてから乗り越えたから再約束する等という手法は自分で契約と言っておきながら卑劣ではないのか?

ではせめて平等ではない世界のままにも(本来自身自由の為の仕組みの事ではなく)各自への必要や段階を生きるしかない進み方や顕れ方もは違うを認めるにおいても、自己防衛や家族という垣根性をも持った生き残る術のようなものへ向けて生きなければならぬというような強さの論理や人より上に立つ又は相対的に負けない等の力に生き抜くか、それが出来ぬ又は嫌であるならば強者に負け奪われ死んでいくを認める中での肯定性の安寧を身に付けるしかないというのか? その中間的な在り方と道は当然あるが、そこにもやはり生き抜く為の力と境界,単位による比較,不平等があるのではないかという意味においてもである。

キューバ危機に関して核戦争前夜は、回避出来たのは考えられぬ程の奇跡であるとも思え、ぎりぎりだが最後には均衡的な動きと現在までの結果を与えられて来た人間の自浄力のようなものへの楽観もあると共に何らかの外部からの関与が有ったのではないかという憶測も信憑性を宿している程にも(それで滅びてはいないだろうが)破局的状況を免れたのは、信じ難いような偶然的な連結の上での均衡でもあったようにも、来ないかもしれぬが来るかもしれぬ災害へ備え、来なければ良かったというようにも選択肢を用意しておく事は自分だけでない皆にとっても良い事とは思われるが、それも金銭的状況や生活労力上の余裕などや又は個人能力,性質,方向にも依るものでもあるし、そして物などを用意し過ぎていても身動きは取りにくくなり、その時の必要に応じて必要ならば与えられるという身軽な意識へ設定してしまった方が良いのだろうか? 世界の破滅の時には何も持たずに山へ逃げろというようにも、しかしそれはその時には。であるならば、やはり通常は必要そうな物へ用意し重くとも持ちておくというような(生体本来の本能的な力ではないが)生存を道具で補助する事へ労力を用いる(運搬コストの金や体力なども)方法を選ぶ事との適合,均衡を、如何に取れば良いとも言えるのだろうか?