junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

159 11/13

159 11/13~

Spirit Songの説明が一概に出来ないでいるが、それは再現性ではなく、その時こそにしかない世界自体の潜在象的連結の流れと完全を私において繋ぐ流動の媒介を在りて存在を行い渡す事。 それがArtであり生存~Life~でありFlowとNatureからの"Spirit Song"の説明や、与えられ起こり味わい受ける恵みと豊穣の生命価値と体験の意義。 それを簡易にすると"魂の歌"なのだがその抽象を、やはり上手く簡訳に表せないではいる。 では"魂の歌~spirit song~"とは、世の流動的連関の紡ぎを立ち会い味わう私に取り出す存在と創造の事。とも言えるか?

しかしそれが主目的と意義ならば、やはり上手く取り出せぬ時に(それもがその時の完全ではあるとしても)流れを繋げていない私や状況への不満が募りてもしまうなら主眼は潜象の流動を繋ぐ,乗る,現すよりも世の流れと一体で在るままの現在と自身を生きる事のみへも合いて乗りゆく事ではあるを現せる在り方や生命の置きゆき方へと方向と方法を自身へも移行~シフト~,転換せよ。 つまり魂の歌,自然の流れ,とは、在るがままの存在に紡がれる私への世界の歌をそのままに宿しては在る事ではあり、その質を本質性へ如何に近付けていけるかという存在創造の質性もは、その内に含まれ行われていくがものである、日々の生命をどれだけ豊穣に感じる事へと味わえたか?のみであるにおいて、その進み方とは幸福の現実状況を起こし呼び込みもする思い込みへの意識の力と使用法にありても亦良いとは言えるであろう各自のままが段階と世界の相を生けば良いのだ。という私の言われるSpirit SongはArt of Lifeにも通じて分かつHarmony Relationへとも成るを向かえ叶うのだ。 そこにあるのは、そのままで良い世界と自身の生命に如何に感じては生きるのか。 それだけのこと。

集積されたものは散逸するよりも、その者の傾向性に基づく性質的共鳴性によりて継承される(そればかりに縛られても良くない離散と再集結の意味,効用もはあるが)つまり家(家族,血筋)による利用と次第の変換や美術館的な収蔵のようにもテーマに沿って、その味や存在と連関の関係性をも保持,保存する意味合いもは、もっと意識され行われても良いと思われるのは、物は只の物以上の意味、つまり生体の我々とも同じく流れにおける意味合いを繋いで来た軌跡を持ちているからでもあるのだろう。

しかし血(という共通性)による傾向性での継承や又は響鳴し易い者たち間での共同,連帯は、民族自治的観点から見ても間違いではないが(昔のように稀人を受け入れるとはしても)多様の取り入れに関して自由な個人のグローバルな状態における移動や居住の選択や決定を縛り、囲われた優先への格差や選民性をも内包に合わせ持つものでもある(又は他者,他地区への自決,自治への不干渉の徹底において相互流通性による連結を阻害もする)故に、それは集積と分割(徴税と分配のようにも)拡大と縮小や世界と自分,最大と最少,globalとlocalなどもの全てどちらかだけではなくに繋ぐ統合,結合的な適合の知恵と在り方が求められていくのだ。

11/15

世界や周辺状況へ作用もするへの自身こそのみが愛であるかどうかではあるが、その存在を保ち自身自体をも導くには気付きの日常化に在るだけでなく(そのままに真に至れたら良いのだとはしても)更に深めた段階に立ち会っていけるには瞑想の効用は大きくも有る。 そして他者や世界の状況を導くのもは自分次第である意識が必要だが、それは導くという上からの操作や強制の部分ではなくて、そこへも関わりて在れる自身次第の在り方や立ち会いの責任もがあるという自覚や観入による世界適合への自身の置き方への日所的な選択と対応への存在の事である。

他の者には見せぬ自身との姿を一番自分との近くで共有して来た特別な関係である恋人や家族との蓄積に意味がなく崩れる時の悲しみがありたり共有に拠る揺るがぬような信頼の関係を求め欲する事自体は、僕が間違っていたのでもなくて当然ではないか。 しかしそこへの囚われを捨て離れ、哀しみからも解き放たれいく自身となる為の必要な旅路と経過ではあったようにも、そこを抜けた愛の基盤化による新しい段階での関係が起こりゆく現在への旅をゆくのだ。

気の流れや導引もは、自然界の物理的な相や動きの観察からもに想起され使用され易いものとなる故には(巨視と微視の相関が同じ相と全く違う現象でもあるようにも)現実的な象形と、それを越え織り込まれた流動の流れは全くに違うものでありても、この現実相からの想像に照らし引き寄せて用いるも出来る意味では、その人的知性と想像力の枠からにしか見れない人々も正しくないとは言えず、ならばやはりそこへの自身の視点現在は間違っているかもしれぬという自覚に拠りても更に深められるかもしれぬ可能性への気付きに在る事への転換が必要なのではないのか? それら気付く分別の作業の全てと到達の先には実は意味などがないのかもしれぬのだとはしても。

最少とは、エネルギー効率の最大効率化の事ではない。 それは人為的便疫への効率肥大方向ではなく(それも考え方の一つや多様の可能性としては認めているが)その人為的な判断や操作性を減じさせていく事で周辺領域へと現れ流れ込んで来る自身を越えた自然的な自身の最大化もの受け取り方と成る事ではあり、しかしそれは自己の意思なく流される事ではなく現れ来る自然や世界からの連結の流れに観じ交感し受けては選択行動する(積極行動の意思である)自身への責任にも自覚し立ち、生きて在りゆく事である。

これら言葉化への流れと連結の流入と保存は(現在人間種内での比較では)真に近い所での交感であるとは思われるが、既に問いの投げ掛け以上の意味としての真理自体を表す事は出来なくなっているのかもしれぬが、この自己の経験,状況,心もの生起による現況自体を繋いでいく事が、(例え業の故にであったとしても)為される表現の一可能性であるに行われるのならば意味を越えてにも行えば良い。 何度でも言われる事は、その時ごとの連結において結び着かれる表れ方としてもに何度でも現れるもが良いのだ。と(それが例え自己肯定に過ぎぬかもしれぬとも)自然の相を、唄う。

映像の作品においても、それが簡易なメモ程度の連なりに過ぎぬとも、その時にしかなかった環境や空気や息吹きや周辺状況とのコラボレーションでもある、或る意味でのlife logとしてものように映り込んだものの流れを、そのままを置き流していきたいような想いと、その即興と連関を詩のように断片化させ切り離し繋ぎ直したい欲求の方向もがあるが、しかしそれは私にとって未だ多大な労力を必要とさせる故にも簡易でsimpleで、私の感覚と適合し他者周辺との感覚にも響くような物の創造の手法もが求められている開発の難しさではある中での試みを経ている。

11/19
連関の総合的動きであるに世を見ている。 自然な感覚をしてそれを行う。それは人類の中でもの天才に共通の部分でもあるのかもしれない。 butterfly effectのように繋がり、一部が動けば全体が関わり合っての(細部まで決定的に絡め合われてはいるが)細部までの決定的な計算は不能な揺らぎのように(揺らぎを組み込んだ数値によってのシュミレーション的な再現は出来るが細部を完全に再現するのは出来ぬようにも)未来と過去の相互作用のように連関が起こりている全連関を一義に見渡す事は出来ぬ制限知性の故にものように(それを越える方向を示唆するものではない)しかしその世界の相を感知する、一部が全てに関係し共に振動し合いて全体を織り為しているであろう事を全事象への基盤として捉え見ている事は私たちの自然ではある。

それは映画message(arrival)での異星系の言語が円環の相の各部音調によって全体の意味をも変えるという(認識であるが)非線形の全体と流環を眺める事で繋がりと多重の意味を読み取る方法のデザインのように(それは実は私たちの言語でも、そうした相関を起こしている連なりではあるのだが線形の時間軸に沿わなければならぬ制約下にはある。 しかしそれは一目で理解出来ない非効率な情報手段ではありても、私における全体にも起こってはいる流環に繰り返されているもののイメージは表象化されており歴史を通して行われ来た人類の累積もには同じようなものが見えるだろう。)そして、大きな系でのファインマンダイアグラムの各部を変化させたとしても全体の系での大まかな動きは決定されているように量子の振る舞いは未決定でありても関連されている総体の流れは保たれ織り為されている。 その一部は全体と相関し決定もするが一部を変えただけでは全体を変える事は出来ず、ただし飽和量や閾値を越えると全体の織り物の色調は変わるように現実の変化へ関わる事は数学的にも出来るのかもしれぬ、そしてそうした量子的な実験におけるゲームが成り立つかもしれぬ未来のようにも私の置き方を意識しては関わる。

如何に世界の相や事象を読み取ったかではなくて、その時ごとに置かれ現れる状況への状況としての人間各自が行い行われていくのみであろうに、状況的必要からの要請や又は独裁的な先導もがchange makerとしての役割や実験の一端である現実世界を実際に動かしてしまう実質的な側面の力となるのだとしても(批評,分析でなくplayerとしてと言われるように)しかしこの世界の相を解き明かすへの動きと働きからに何か深く生まれ来るものが在り待たれている事を(自己肯定としてではなくて)感じずにはいられない。

人は皆、その時代あたりな経済的進展などへの短視眼的な視点と行いからにしか従事しておらずビジネスなどもは現在の延長でしか捉えられない行方としての現在にも場当たり的な非洗練と野蛮が野蛮を呼び込み謳歌し侵害しあうような文明や技術の使われ方しか現実成果化しなかった中で、その先から思考する者の視点や思索,感覚的な土台を挿し込みてゆく事は例え直ぐに理解されぬとも大切で、置いておく(おこうとする)価値はあるのだと思いてはいる。

ヨーロッパは野蛮であったから搾取により現代基盤へのinitiativeを取り得、アメリカは経済,軍事などもの野蛮さによって地球の文化基盤を作ってしまった。 そして日本は、その仮定的な植民地として彼らの基盤に乗る事によって彼らの文化的基盤と支配を強化するへ利用された。 これらを誰もに伝えても、それぞれの状況の中で精一杯に生きた人々の否定と捉えられかねぬ故にも批判を受けるかもしれぬにて伝えられぬ又は慎重に行われなければならぬだろうが経済的な価値への走狗となり独自の世界への奉仕の路線へ選択する為の(結果としては出来なかったかもしれぬとも)自身等に立ち止まり考えようとする事へは向き合えなかった責任は自覚せねばならず、無自覚に共になりて世界からの搾取を広げたのだ。 (かといって現代的我々の変節は自身としても認めないわけではなく勿論に良いものもあったし日本的価値や生活の保守を告げたいわけでもないのだが。)

この活動への必要と要請と性質や傾向づけされた私に行われるままに行い自然が自然と私を為しゆかれるにおいて、私は金の為にはやっていないとも言えるし、金の為にやっているのだとも言えるような二律相反は(説明しようとすると面倒なだけで)既に統合されているのだ。 だがそれらを社会の言葉や説明の仕方の立ち位置に立とうと思うと難しいのだが。 相と反,短距離と長視点などの両面を同時に示し得る統合の形とは一般にも添える言葉や存在としてに付き合い関わる事の以上には、突き抜けた私の存在に在るとはしても多様と共通基準の持ち得方のように私には探られなければならない日々でもの対面ではある。

自分のままに在る事。と、しかし覆し変換し自身へも引き寄せられず自覚し目指しゆく義務でなく統合の方向で在る事の、基準どころか簡潔に伝える事さえも難しいし、許されることは大事だが許されてしまって自己責任へ振り返れぬ事は良いのか。等においてもの、自身本来に気付き生きる事と無判断のみである肯定との間やバランスの採り方とは多様を知りた上での中間の指針だけなどであれば良いのだろうか?

各自のままに良く性分だから仕方ない。のは納得や理解の為には良くても、それでは成長も進歩もがない故にも、強制なくとも迎合でもないように理解し聴きとりながらも自己の意見を言わぬへと押し込めるべきではない。 私においてだけでなく、そこでも礼節や制限同士の中で思い合うというような日本の美徳もは、基本的には究極的な姿の方向性の為に個人を押し込めた反動を伴う非人間,非人為的な人間的自然ではあり、では私にも方向性の為に新しい価値を押し付けぬ為には、そもそもの提示すらが必要なき関わりの在り方となるが良いのだとしたらば、この場当たり的な状況や人への適応した形へ突き抜けた究極を宿さず理解されぬとも捨てた表面的な存在を置くだけが正しいのかもしれないと相互状況が起こす私に今日も問う繰り返しの表現だ。

しかし社会的な意見に無自覚に批判,反発するのでも寄り添い吸収されてしまうのでもなく自覚的に取り入れての自身を選択する為の知性や存在の方向とは、(全ては放り出されたままに行われ起こり続ける必然的な連なりであり真に自身などというものなどがない世界の現象同士と観るのみなのだとしても)、性質のままで良いと認めてしまうだけでない世界との関わりとしてにも必要ではないのか?

皆が各自にとって最高に幸せとなれる事や、その為の私の仕事や存在と成れ在れる事を願い想いてはいたし、例えば母が自分を振り返れない事で上手く行かぬも、世界の悲しみの相をも肩代わりするもが私の為の犠牲として不可避なものであるのかもしれぬなら、それを覆そうとする人為すらが始めから無駄なのかもしれない。 交換への原理へ取り込まれぬように自身の判断と意識を澄ますへとも調整はするが、そうした可能性との立ち会いや対応の人生にも目を瞑らないではいる事だ。 (そこにも判断は必要であるのかにおいてものニ元判断,相対のdualと三位一体と言われるtrimurthiの安定,関与性などもの何処もが、advitaの一体へと還るへとも向かう。)

11/20
どうせ私に何が出来る事もなく、それらが性質や現在の各自ごとへの、どう仕様もないままに任せ放り出しては個別と現況への対応へ関わるにしかないように、そしてそこには離れ関わらぬ事や表面的に迎合しておくという方法もは全くには否定も出来ぬようにも、仕方がないものに対しての私の在り方や関わり方というものだけがある。

どのルートを通ろうとも修羅や悲惨でしかない状況への対応へ生きねばならぬ役割者~player~の選択が良い動機や徳に基づいていたとしてもそうでなくとも、必要と感じられ行われざるを得なかったならば、そこにどう仕様もなく(正しくとも正しくなどなくとも)行われる以外には無いのだ。

反発や対抗は本来それが無ければ行う必要もない無駄でありても、それが必要ならば行わざるを得ないようにも。

それら人間の各自と現在を認めながらも、本来の自己という意識の転換へ補正させていこうという私の運動は、傍観的な部外者としてにも在りて恵まれ与えられた状況の中にもそこへの仕事と存在を行い尽くし、しかし地球と人類文明の内部と共同へにも関わる相反なき自身を置かれゆくに行為の現在を(それ以上に何が出来るか?等へも)選択してはゆく。 そこに突き抜け、しかし人々の声を聴きてゆくには寄り添い在りていられる。 この、たゆたいのような存在を時間の流れと連関に立ち会わせていくも良い、円環的とも言えるが非線形の振動や流動の各部位相性の両部や全体にもかかる私の存在と意識のみでもにおける意識と愛を挿し入れていくのだ。


11/21
今日もふと想う。 何故僕はこの僕であり、この僕と思われる身体や僕の自我(自覚や意識の不思議という意味ではなくて)なのであろうと、いとも不思議に感じている。 こうして動き想い行いている私とは何故に他の誰かではなく?ここに宿った私なのであろうかと。 それは勿論に自覚や意識の妙であり、此処に宿った偶然のような連結の結果としての一個総体が偶然にも唯一の(つまり私として私を感じる事が出来るのは、此処に有る個の私でしかない故にも)私であったのではあるが、この意識へ起こる総合にして潜在の私自身というものは、もっと広く深く全体的な流動に通じ達した状態からに在し在りて、そこからに行われているものではないかというようなメタな俯瞰や直感的な感覚を(だからといって、それを全てが正しいとも言えぬのだが)魂とも言い得てはいるようにも、その広大で全一体の自然からに行われている、私自身を起こす私の本来が在るのではないか?という人間の知覚に普遍的とも言えるような共通であろう感覚に触れてはいく事(事とは示現または内在の現象の事を言う)が、深奥の源幽を目指し目の当たりにしていく感性を起こし養いていくものではあるように(私が如何に高く優越であるかの誇自ではなくて)思われてもいる。 それらは真に正しいかは未証明でも、本質へ近付こうという欲求と生在の方向へは有益、又は性質による動力を持たす特質性ではあろう。

そうした人間や生命の本質的共通への共有を生み,持たせ,育みてゆくに在りたいという私の、その行いの態度,対応,存在,言動の在り方が対者への折り合いや適合への柔軟さという肯定面での納得に在りては突き抜けられぬ中途半端でありとても肯定し現在へ至りた過去の連綿や未来の可能性も捨てる事も出来ぬ線形の制限の中での私という矛盾や惑いへも突き抜けて私を統べる運命的根本と流れへの肯定をゆき観賞,超越と凡夫,人間の狭間にも在りての観察を生きる者としての交感を生きる役目にも追われ負わされているに終わりゆくのだとはしても私は、普遍と統合への共有と真の癒しを共通のものとしたい。

(~以下2段,日記より抜粋~),<
それ程に依存しているわけではなく、依存させたいというのでもないが、得られない事は得られた時の幸福と感謝を生むからと追いかけ、得られなくば囚われるへ求めてもしまうようにも僕は、弱い。 現在だけに在るより積み重ねた物と未来の可能性を捨てる事が出来ない時の流れに絡め取られ時の一体にも同時に立つ相克や矛盾の慟哭に惑う、観賞,超越と凡夫,人間の狭間にも在りての観察を生きる者として生きる。

対者関係の態度,対応,存在,言動がこれで良いのか?は、実はやはり有るのだが、突き抜けながらも人とも折り合い交流可能な私で在るというへの納得と肯定は結局、中途半端な存在でしかないという事でもあるのか? そのままの役割であるが自分を生くにしかないというには突き抜けていくが、肯定ばかりでは至れぬ成長への私へもの動きとしての結果と過程にも認められ、繋がりている肯定と交感に紡がれている。
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人間的な反目や対立がなく、各自の役分を分かち織り合いて在れば全体の中では円満は成就されている事も亦多し。 そしてその共有や分かち合う事とは痛みの分かち合いではなく(である事もあるが、そこへ吸収や利用はされず)自然に相関される全体や時の流れにも流され遣わされ行われる、個(の思惑や創造の成果)を越えた連綿の行方のみが揺れているように在る自身等の生来を俯瞰的に感得しては為される運命の非情の中でにも、現実的な交感と充足の円満性を取り入れていく事は出来るのだ。という在り方を僕には示されたい、それが無常とあはれの融合(虚無,絶望と充実,平安)の提起へ私を越えた処から行われ起こされる私だ。

死と生のような相克にも一体の創造のみが為され在る。 こんなにも中途半端で惑いの探求を行かされる歩みの者でも、これは現在世界へとの適合に合いておる私の既と完成の到達であり、人は人の発言,影響力や評価を実際世界の現在的尺度での成功で見るのだが、流環と非連綿にも渡る連綿もの同時と俯瞰に見渡せば、私とは自我をも越えて自我のままにも、そこに遣わされ司られているだけの宇宙の中の現在に関与する一端子の相に過ぎぬが見えて来るのみにも生きては流される既なる成功の姿と完全的な連結の一相(つまりが全体のみが在る円相)にしか過ぎぬ最然だという(事への、)語り辺(である自覚と方向に生きる過程)。

愚かなる人類の技術や仕組みが伴わぬともその大部分と基底が預流~シュダオン~の段階位まで至れば、ほぼ全ての問題は解決されるも夢ではない策だろう。 それは理想に過ぎる方向への期待と依存ではあるかもしれぬが、私に与えられ為されるへの方向性とは如何に、そこまで持っていけるか。ではあるのだろう現在への適合に与えられた結び付きの私をゆくのだ。 それと同時に阿羅漢(や仏陀)までも至れるかもしれぬを試しゆく方向とも灯しては生きる私の、日常や進行の起伏に何が与えられていこうともの状況を受けては流されるしかない、全ての者や相がそのように行われているのだという生命からの同胞たちへの寄り添いと成りては生きている。

超越の姿を見せたいという創作方向性から語り象り、突き抜けていながらも人類一端の流れ現在としてに現れた私を、この魂や宇宙からの視点でありながらにも同じものとして寄り添う我々とは形で見られる以前に、時と全体からの流れ自体であるのだと語る声を歌う無常と歓喜の統合を(一体へとも)宿す。

この生命世界や人間の創作品を消費出来る交感価値での生を与えられ用い味わえるにも歓び、それだけでも有り難い現段階世界へとも生まれ来ては味わえる(もし宇宙人が地球に現れた文化を、そことの共鳴力も持ちて学び,見て,味わおうとするならば、この生体身に宿りての(苦も含めての)体験を持とうとするのかもしれぬように)価値としてもの吸収の行方にも私は伸びて達して、しかしその行方に想い目指し在りたいものとは、人類や真実にとって、真に重要なもの,を創り出したい。と思い求め願う私に生きるを現れ表してもいるのだ。

世の共通,実感的な哀しみへの寄り添いにも弔い死にゆきた無念や無情にも生きねばならぬ者たちもへの鎮魂となるに、癒しと解放を持たらすような深源,奥玄へと達し共振を持ち起こす実質的装置ともなるような芸術の方向(に共感し)と成立へ向けての私となるを達成したいと生きる私の特来(特質,生来、つまり偶然的な結果としての現在ではあり、必然的な特質への宿りでもあった)と方向が、こんなにも何も無きような私でありてにも、この私を起こしたように全ての自然が結び付いては進む、私とはその世界の一つの相面に過ぎぬ自体。

(日本の義務的制限への至りと発展もは、こうした文化の連結において真と本質の深きに達し触れ生きたいという求救の方向に宿され起こされ、故に落ち着いた面の良さもあるのかもしれぬが常に浅薄化や義務的美徳の制限性などへの吸収や反動が起こりては進むにしかない現在までの人間段階ではあるを見ては把握もする。に、故に行わぬという選択ではなくとしても、無駄や(又は平和と戦争や生と死が表裏一体の連続として現れて来るようにも)破壊や抑制の方へ利用されてしまうかもしれぬ事実と実際への可能性への責任は把握してに行われる事は如何に結果への判断も自己などへの責任もないといっても有るとも思う。)

風流に起こりて去りて亦、去来するものの象形自体を宿している自覚にも流れて世界と私の、風来たる本来からの帰来に妙なる絶えぬ連綿を奏ぎて生くに逝くまでの歌を唄ふる我らが、現れてゆくに過ぎ去るばかりなり。 無常と深奥,本質と連綿の相と生命の我々と世界の自体(事態)を、流れというがばかりの私鳴りける。 空~kara~と過剰の充満に、各々成るが為されゆく性質と特来からの連結と自然の全体が歌われる一相のみが過ぎ去るに観られている。 帰妙(命)と流環に鳴動す感得の私それぞれが描き味わう世のみこそ在るに成る。

生命と私は自然~jinen~と一体なる流れだ。 それを私を越えた私の想定(の魂ともいう)でもあり又は実際としてもの自己と意識を減らした彼方での澄み渡る流動性の 相と世界の一端としての私を感得しゆく充足への方向だ。 その手段を私は説明へとも置き換える肯定と交感で在る事と言おう。 生命は既なる示現に創造され生かされ在るを感じゆく味わいの歓喜と現在のみが全てともの一体に渡る私たちを語りては置くのだ。 これが私に繰り返され行われ起こり来る流環の繋がり紡がれた今日への言葉。 私は、現在世界への詩人となったのだ。

11/22
自我的に見える状態の過剰(という比較としてではあるが)の私への表出や性質は、抑え込まれて来た日本などからの反動でもあったり、超越だけではなく適合を求めてしまう性質も過去聖賢たちからの反動というような現時代への必要としての世の一端であるのかもしれない。 (又、多重へ構成出来ないだけでありシンプルな旋律による過剰だし他種文明の音楽から相対したら余白の音楽に聴こえているかもしれないようにも、必要が繋がるならば(繋げ過ぎぬとも)私のままをいけ。) これらはしかし自身への納得の為や人々に理解してもらう為のものではなく、こんな愚かさにも意味があるのかもしれぬという自覚の為の注釈のようなものでもあろう。 それ以上の意味があるかへの意味付けには判断を持つ必要もなくとも。

これが如何なる歴史的意義によりて為され生かされるのかにも知らず、只この現在の私に化された歴史と宇宙の私現在のままを為され置かれよ。とは、自身の(納得の)為もの言葉。

この自身の幸福へ恵まれた状況に感謝し、しかし幸福の為に愛へ流し去るのだという結果の為に愛となるのでもなく(そうとも言える結果は一体だが)幸福を求め追われ続けるような修羅や芽吹くかもしれぬ苦難の種と欲望、又は可能性に依る悲惨を人類種へ再生産する可能性からも抜け、こんなにも現時代の生命種に制限された愚かな自分ではありても私への自然と幸福でありながら、真の幸福へ歩み達しゆける道と生命を創み提し分かちたい。という私の方向と夢を叶える私の幸福へ目指しては至りたいのだ。

そこへ結果が至ろうとも結び着かぬともに関係がなく、現在に化された私をゆく。 幸福の為に愛へ流し去るのでもなく愛へ流しされたらば幸福ではあるが、その意識の開花によりての現実的な状況や人間の生み出すもの(関係も文明も)への共生や相乗へ創み出され分かち合われゆく事と、それに拠る幸福の実現状態へ目指し生きる私と私の求めを私のままの現在宇宙としてに肯定はする。という、つまりはそういう事。

自主選択権もが剥奪される、こんな世界を(例えそれが発展,進化の為や宇宙の歴史に瞬く自主選択,決定同士の滅びるも破滅も勝手と放り出された非情だとしてもに)変えたいんだ。 それは囚われ的な義務などであるよりも、真の幸福へと進展しゆく道の歓びを歩みた事の結果として顕れ実現してもいく経過と過程へ対する私の望み求めては向かう先への生き方の自体。 これら言葉をまとめ渡すが出来ぬ私でも、この想いと思想とも言えるような方向性と生き方の存在を残し渡すへと生きるが良いのだ。 如何なる段階比較にも拠らず、これが私の生と私には認められている。という各自への声を渡す私を果たしてはいる。

そして表面的には適合へも折り合う響鳴の自身でありてさえにも、この自身を制限せず例えばcutや切断,接続解除というような、緩やかに進まなくても一気に進展させ開花させるよう魔法の使い方もあるのかもしれぬように、私と触れる事や、又は私が在る事のみでもの幸せが他者や世界に訪れるような在り開き方を(こんな自分など。という卑下や自己肯定感の欠如の通常自身にあるのだとしても)設定に取り入れていくもは良いのだろう。 それは現実利益的な各自が幸せなら良いという幸福でも苦難による成長の恩恵でもなく統合された、現実の自由や共生的状態もが伴いては、本来の自身と生命の味わいによる真の幸福という意識の進化へ開けゆく事への(しかし機会となるだけではなく根本的な転換への産声となる創造,生命,生存,根底の魔法でもある宇宙の自体なる流れに触れては生きている事だ。 それが生存自体のままにして、魂でも在るに渡りて生きる事へもの投合。

人にも求める真の幸福とは意識の進化にこそ拠るものではあるが、その意識への使い方と方向性に因りての各自の生命の本質性に立ち会い自由に歓び味わいては生きる事ではあり、それは説明言語化せぬとも私の根源には既に知られているものとして祈りにも乗せられている故にも、愛と光と真の幸福が果たされ生かされ叶えられる事などを自身の言葉へtuningさせれば良い。が、しかしその説明においては明瞭(とは言えぬかもしれぬが)への言語化が必要と私には思う。 例えこれが、語られて来なかった聖賢や禅的な知恵の進展過程の見える化という反動であったのだとしてもに。

私に求める知性とは、これら読解の能力などでは(正しく読み取ろうとして欲しいという意味ではそれもはあるが、全体に求めているものは)なく、各自の生命と俯瞰的とも言える全体の流れを感得,知覚しては味わえる為の知性と明晰であり分断的知性の事では根本的には無い生命感得の味わい(や、そこへ向き合う)で在る、こと。

向き合いは楽しく疲れもする(生命を使う事はそうであり、それが楽しい創作の果実でもある)が、そうした自由の行いと受け取りの果を、疲れもせぬ自在性へと化してゆくような流れへの観入状態の自身を日頃にも養う、選択は交感の遊びともなる。

11/23
少しの者への流行がminorotyでの物なのかや時代的逆行,反動的力でしかないのか、jeans~jersey等もの流れのように一時的でもなく未来の傾向に合ってもいる又は傾向を作り出していく転換点(用法は違うがkey stone)的で避けられなさのような流れにもなっていくのなら、その差はしかし微たる違いや影響関与性にしか過ぎないかというと、そこには浅き効率性や大衆的な強さとしてだけではない時代の流れにも求められている意味や理由があるらしいとも思われ、それらを取り外し置き換えるへの転換が簡易に行えるかというと意識だけでなく(例えば神職,儀式,文化,麻服,能的な芸能,等ものようにも生体交流的で手仕事での源流にも通じているような物事には)自然界における人間のような余程に上位の力からや又は効率性への変容もが含まれていなければ時代的傾向の要請には合わぬかとも思われる反面、これからの人間が社会工学の一端的技術面を補う存在でなければならぬ必要から外れていきて何も行う必要から離れた結果が電子的な融合へ吸収されていくのでもなく、人間にしか出来ない事や交感の味わいを創作の楽しみとしていくという人間の力の使い道への転換が自然にも又は現在的な関わりの故にもである自然としてにもには起こり得る可能性があるのなら、(それが生体的共生という判断ではありても)そこへの転換へのmile stoneを置いていくような私と成るを目指すへの方向と方法を模索しての関わりと存在の動きにも生くのだ。

私自身が変遷してしまった、(打ち切られたものと新しい姿としての)日本人としての私ではありて(地球人としても同じく)、その在り方と進みゆく先への過去の経緯と源流と、未来にも達す統合と新しい生き方への道と存在の現在を(模索必要などなくとしても)時代に要請された適合の形の私としてには生きていくのだ。

終末論は正しいかではなくて基本的に人間的願望や要請でありて、そこに引き寄せてもいたり利用されてもいるだろうが、そこでの可能性と対応の準備もは(絶対必要ではなく場当たり的な対応に乗れば良いのだとしても)有るへ考察され立ち会われていても良いと思うのだ。

破壊と創成には比例的な関係(バーター)もあるのかもしれず自身納得もし易いのかもしれないが、そこへも(判断せぬかだけでなく)取り込まれ囚われず、そうした等価的な交換原理は宇宙の法則的な相か如何んにも拠らず、脱却への転換を持たらしてもいく方向性へ抜け破壊なき創造のみへとも壊体していく意識の使い方は(それも創造の為の解体であるには自己矛盾であり又、創造や共生のみという判断の制限でもあるが)運命に対する意思のように、どちらかだけが正しいのでもない相補関的な一方面を自覚的に使用する事は出来ると思う。

それが自覚,知覚出来ぬ者などや流れへもの操作と成らぬ為へもの自覚や知覚による抑制の方向(力の使用法)が必要ではあるのだろうが。それを、可能性を伸ばし生かす方向と可能性を追わず果たさぬともの最高化へも添加出来るような在り方の説明補足手段としてもに取り入れていられるのかもしれぬ知覚や自己の認識や判断知性の用い方として言い表す事は出来るかもしれぬ。 つまりは全てが意識である。という、その意識の方向や使い方の部分でもはありて、判断も抑制の効用や縛りもは知性(という納得方法には過ぎぬかもしれぬが)に拠りての(判断へも判断へ抑え込まずの)利用し生かす使い方となれるという相面の提起でもある。 (こんな当たり前もが伝わらぬが現在の世と人等であり、人が変わりた後には当然の故に必要ともされぬ現段階以外の不必要で過渡期的な創作に過ぎぬのかもしれぬとしてもの私であるが。)

日々の着想と現在の連関を繋ぎ詠めていくのみの繰り返される事々から削り出されていくものを待ち持ちてもゆく立ち会いではあるが、それを読み返しまとめるへは繋げてゆかれない私の、提起的な創作の言葉や投げ掛けの形へは未だ結び付かぬが、その熟成はいつか世へ分かち連結される価値とはなれるか?< (物語構想からのcopy)

作品の構築へ用いてもいく為のプロットを今度のperuでの映像撮り生かすへの想定としてもに考えてはみていく。(どうせ想い描いても、その通りなどには創れず結局は即興的な存在の記録(life log)となるが良いのかもしれぬとも。)

群衆劇への労力や才能は僕には未現であり自己内面を象る言葉化へさえも未だ達せぬならば、如何に私を(即興的空間などとの出会いを映し撮るだけでなく)作品性へと置くべきか。

では今は未来への着想の種を置いておく位の日々を示現されていく私にあるしかないも良く、しかしこの過程に生み出されるものは、統べからく編集の間に合わずstockされゆくばかりの即興映像やメモのpileに過ぎぬものの連なりばかりとなる。
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しかしこれも私の創造(と生命)の爆発だ。